詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部嘉昭と私のスタンスの違い

2013-10-08 12:27:15 | 詩集
阿部嘉昭と私のスタンスの違い

 阿部嘉昭『ふる雪のむこう』(思潮社)の感想を書いたところ、以下のコメントをもらった。facebookでも対話した。そのことを踏まえて、少し書いておく。
 
2013-10-06 14:38:34
引用される批評対象と、地の文とが、もっと「似ている」ような評論を書いてはいただけないでしょうか。これではせっかくご恵贈申し上げたのに、逆パブリシティだと著者には写りました。たとえばぼくが初期アガンベンを信頼したのは、ベンヤミンを論じればベンヤミンに似てしまう繊細な同調力からです(比較項目が大げさではありますが)。このような同調力がたぶんマチズモを排除する具体性だとぼくは信じていて、むしろ谷内さんの批評にこそ、その同調力がいちじるしく欠如しているとおもわれます。ミクロ批評をなさるのなら、こんどのぼくの一篇はトータル十行なのですから、せめて全篇は引用してもらいたいです。そうすれば批評の読者は客観軸を得ることができる。なにしろぼくは72篇収録することで、計72の詩的フィニッシュを書いたのです。あと、望めるのなら、二行五聯の定型における頻繁な「聯間」にどのような機能があたえられているか、そのときに採用されている語調がどう共謀しているのなども、やはり論じていただきたいところです。ミクロ→全体、というヴェクトルが谷内さんの批評にはいつも欠落しています。それでは批評がラクすぎてしまう

(1)取り上げる作品と感想が「似ている」「似ていない」という点について。
 私は、いつでもその作品と「一体」になろうとしている。私のブログには、しつこいくらいに「一体(一体感)」ということばが出てくると思う。私は、その「一体(感)」をことばのセックスとも読んでいるが、今回の阿部の作品には、私にとって「一体感」を感じさせることばがなかった。
 雪が何回も詩に登場するが、その雪が私にはよくわからなかった。
 私は北陸の山の中で育ったので、雪にはなじみがある。11月23日の勤労感謝の日に、学校ではストーブを取り付ける。すると雪が降りはじめる。雪は5月の連休のころまで根雪として残っている。私はそのころよく風邪をひき、背戸の根雪を氷枕につかった。
 私は北海道(札幌)の雪を知らないから、阿部の描く雪になじめないのかもしれないが、雪になじめないというのは、私の体験のなかでは初めてである。先日、トルコ映画「沈黙の夜」を見たが、ラストシーンは朝の地面につもったうっすらとした雪。その地面が透けるか透けないかの感じにも肉体は反応する。つまり、そこから「意味」が自然にわきあがってくる。春先に旅行したときダブリンとスペインで雪を見た。雪に降られた。その雪は北陸の雪とはまったく違うけれど、肉体はすぐになじんだ。--私は雪が大好きだが、阿部の描く雪には肉体が反応しない。
 なぜだろうか、と考えた。阿部は雪を肉体ではなく、「頭(知識)」でつかんでいるのではないかと思った。私は「頭」で雪を考えたことがないので、どうしても「一体感」を感じることができないのだと思った。
 それは「あけび」の比喩に出会ったとき、確信にかわった。私は山育ちなので、自分が遊んだ山のどこに、いつ、どれくらいのあけびができるかまだおぼえている。そして友人といっしょにあけびをとったことや、食べながら話したこと(猥談)なども肉体に食い込んでいる。阿部はあけびを自分でとって食べた経験はあるのだろうか。肉体で知っているのだろうか。見て知っているだけなのではないか、と疑問に思った。
 阿部は「知っている」ことを書いている。肉体がおぼえていることを書いているのではない、と私は感じだ。私は「知っている」ことを、あまり信じない。「知っている」ことがつかえるようになるには時間がかかる。でも「おぼえている」ことならいつでもつかえる。私は「おぼえている」ことを基本に、他者と向き合う。
 「おぼえている」ことと「知っている」ことは、私の考え方では、まじりあわない。融合しない。

(2)「ミクロ→全体、というヴェクトル」いう問題。
 私は、そういう視点に疑問を感じている。全体を構想し、その全体像によってなにごとかを判断するという方法に疑問をもっている。たまたま、そういう感じで感想を書くことがあるかもしれないが、それは「方便」。書き終わった瞬間、あ、嘘をついてしまったんじゃないかなと不安になる。
 私はむしろ「矛盾」に注目して、その「矛盾」を「止揚」し新たな「全体」を構築するのではなく、「矛盾」を解体し(全体を解体し)、「矛盾以前」の「混沌(カオス)」で「一体」になることを欲望している。混沌のなかにある、ことば以前のことば、それを動かす力に出会いたいと思っている。
 私は、iPS細胞のように、何にでも変化しうるエネルギーの「基本形」の場で「一体」を欲望している。それぞれのことばのなかにある「iPS細胞」を探している。
 これは、ある作品を読んで、自分の肉体をほどいていって、「肉体以前」のところまでいけたときに、偶然、あ、これだな、と感じるもの。それに出会えれば、ことばは自然に動きだす。どんな全体にでもなることができると私は信じている。4つかえる」エネルギーを探している。
 「頭」のなか、「知っていること」を探しても、そういうものは見つからない。
 アガンベンやベンヤミンのことを阿部は書いているが、それは阿部の書いた「雪」とどういう関係があるのだろうか。アガンベンとベンヤミンが雪をめぐってことばをかわし、あけびは男根の比喩であるとでも言っているのだろうか。
 私はテストを受ける「学生」ではないので、「知っている」ことなどには興味がない。「知らないのか」と批判されても(ばかにされても)、「はい、知りません」というだけ。必要ならおぼえるし、必要でないと思えばそのまま。
 だいたい「知っている」ことが「肉体」になるまでに、どれくらい時間がかかるか予想もつかない。私は「知っている」こと、「知っている」を積み上げてつくられた「全体」というものに非常に疑問をもっている。

(3)マッチョ思想について。
 私はマッチョ思想を「知っている」ことを中心にした自己補強だと感じている。
 私は西洋哲学にはなじみがないが、唯一、信じていることばがある。ボーボワール。「女は女に生まれるのではない。女につくられるのだ。」20世紀の思想で、これだけが現実を動かした。現実になった。マルクスさえ破綻したが、ボーボワールは破綻しなかった。男女平等があたりまえになった。人間存在は「概念」によって補強され、その概念が社会を構築する。ボーボワールはこれに異議を唱えた。
 男とは何か。セックスでは女をリードし(支配し)、女に快楽を与える。そうできるのが「男」。--これは実際に一対一のセックスから自然発生したもの、それぞれの肉体がその場に応じてみつけだした自分なりの答えではなく、ひとつの「概念」である。そんなものを捨てて、一対一で「一体化」すれば、それがセックスである。
 「知っている」こと(父親から、あるいは男性優位の社会から教えられたこと)を頼りに行動すること、それがマッチョ思想の始まり。
 同じように、男女関係だけではなく、あらゆることがらに対して、「知識」を自分の存在証明にして行動することを私は「マッチョ思想」と呼んでいる。「知の体系」を「マッチョ思想」と呼んでいる。そういうものを壊して、その場に応じて、そのときそのときの関係をつくっていく--そういうことを場当たり的な生き方と一般に否定的にいうけれど、その「場当たり」をこなせる力を私は信じていて、それを指向している。
 そのために「矛盾」をみつけ、その矛盾を手がかりに「混沌」へことばを掘り下げていこうとしている。
 阿部とは、基本的な立場が違うのである。

(4)宣伝について。
 宣伝というのは、基本的に不都合なことは隠し、都合のいいことだけを知らせるという嘘(方便)である。そこには「一体感」はない。私のブログはいったい何人が読んでいるかわからないが、読者が非常に少ない。というより、ある作品の感想を書くと、その筆者が読むかどうかという感じである。阿部もそういう一人ではないかと私は感じている。私は「頭」で書かれたことばは大嫌い、ことばの肉体とセックスしたい、一体になりたいといつも書いている。セックスなのだから、やりたいことがあわなければ、「それ嫌い」というだけである。ブログを読んでいて、「それ嫌い」と言われたのなら、「あ、これは嫌いか」だけじゃない? 私はこれは嫌いだけれど、どうぞ読んでくださいと宣伝するなんて、私にはできない。
 もし私のブログに取り上げた詩人以外の読者がいたと仮定しての話だけれど。
 そういうひとが私の感想を読んで、谷内がおもしろいと書いているものはつまらないものばっかり。こんなに否定するならほんとうはおもしろいんじゃない、と思うかもしれない。
 ひとのこころなんて勝手気まま。きょう好きと言っていても、明日は大嫌いというかもしれない。
 私自身の体験を言っても、ある詩人の詩が大嫌いだった。詩集を読む度に大嫌い、気持ちが悪いと書いていたのだが、知らない内に肉体が気持ち悪さになじんでしまったのか、あ、これ、気持ちいい、好きだなあと感じるようになった人がいる。肉体もこころも、つづけていけば変わる。
 「宣伝」が働きかける嘘ではなく、肉体が自分で見つけ出す本能の「ほんとう」。それに出会うまで続けることができるかどうかだけ。

*



ネットでみつけたアケビの画像。皮の色はいろいろあるが、もっと紫色っぽいものが一般的か。
食べごろになると(熟れると)、写真のように皮がぱっくりと割れ、中の実が見える。
これから男性の下半身を想像する感覚は、私にはわからない。
私は俗な人間なので、バナナなら男性の下半身を連想するが。


ふる雪のむこう
阿部 嘉昭
思潮社
コメント (2)
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佐藤裕子『母系譜』

2013-10-08 10:50:20 | 詩集
佐藤裕子『母系譜』(阿吽塾、2013年08月13日発行)

 佐藤裕子『母系譜』には仰天した。こんな例えがいいのかどうかわからないが、都はるみの「うなり節」をはじめて聞いたときのような感じ。こんな声がどこから出てくる? 何に感動しているのかわからないが、真似してみたい、という欲望がわいてくる。
 この「真似してみたい」という欲望を引き出すもの、わけもわからず欲望(本能)が反応してしまうもの--私は、こういうものを信じている。

 で、どう書いていこうか。わからない。私はもともと何も考えずに書きはじめる。びっくりして都はるみの「うなり声」を真似してみるのと同じである。その結果がどうなるか、予想していないし、ほんとうに考えることすらしていない。(だから、こうやって考えが動きはじめるのを待っている。)
 何に驚くかと言えば、その奇妙な形式に。
 詩の本文は奇妙な(古くさい/泉鏡花あたりがやりそうな)飾りで縁取られている。そのなかに、詩集の後半なのだが、1行の文字数が24字のことばがずーっとつづいている。いわば「定型詩」。なぜ、24字? まあ、こんなことはわからない。たぶん佐藤のことばが24字に適していたということだろう。ここに佐藤の肉体のリズムがある、--と仮定して先へ進む。(このリズムは、私にはなかなか厳しいので、すぐには取り組めないのである。)
 その1行1行を読みはじめると、これも変な感じなのである。変、としか言いようがない。「意味」があるのかないのか、わからない。都はるみの「うなり節」に意味があるのかないのか、わからないのと同じである。私は目が悪い。そして、私のワープロは佐藤がつかっている漢字をそのまま引用することがむずかしいので(佐藤の漢字には私には読めない文字もある)、申し訳ないが、それが「最良の部分」であるかどうかではなく、「引用しやすい部分」を引用して、思ったことを書いてみる。(引用できないややこしい漢字の登場する部分の方が佐藤らしいとは思うのだが、そこに佐藤の「肉体」を私は感じるのだが、仕方がない……。)
 「リフレイン」の129 -130 ページ。

抱擁は弱点を抉り会話は要所を避け許し合う野辺海辺
水を切り出す斧が雫も漏らさず捧げる群青領域の肌理
疵が昂ぶる縫合の岸知る筈ない単語が翻るいつ何処で
昏睡する借り腹で擬死を保つ株は空を幾層か削った茜
汐に傷んだ喉を降り身代わりの贄に呪を及ぼす魔除け
白骨で流れ着く馬を駆り花嫁が始めて振り返る宴の要
仮装を解けば消える憧憬凝視する眼は眼蓋に描いた目
舞踏靴は無重力感光した像を振り落とさず走馬灯回れ
ひたひた歌発条で撥ね休符天地が覆る真青な澱み冴え
産卵の祝祭を煽る早鐘鱗雲一刷き火の粉銀の箔導火線
放心を搦める真珠母色酩酊するのは重心がずれた尾鰭 
麝香の蠱惑で屈む稚魚何を湛え何を喩え撓んで行く背
手を伸べるほど遠離る掴む水を含み嚥み下す切れ切れ
毛髪に縢られた空白を鉛色した死斑で埋め塞がる海面

 このことばの連続から「意味」を引き出すのはむずかしいけれど、「意味」というのはいい加減なものだから。
 たとえば、
 1行目の「海辺」から2行目の「水」への連絡、「群青」への連絡、さらには2行目の「斧」から3行目の「疵」「縫合」、3行目の「疵/縫合」から4行目の「昏睡」「擬死」、以下何行目かの指摘は省略するが、「身代わり」「生贄」「魔除け」「白骨」「花嫁」「仮装」「舞踏」「休符」「産卵」「祝祭」「真珠」「酩酊」「尾鰭」「稚魚」「死斑」「埋め塞がる海面」とつないで行くと、海を舞台にした出産から死までの「祝祭」が見える。その「海」を現実の海ではなく「世界」の比喩と読み取ることもできる。
 婚姻(花嫁)、出産、死とつづく人生は「祝祭」であり、祝祭であるかぎりは、そこに「魔」もしのびこむ。あるいは「人生」につきものの魔を取り除く方法として婚姻、出産という祝祭があるのだが、死によってしかそれは完結しない。
 そういうことがイメージを分断しながら、同時に接続する形で展開されている。
 という具合に、要約して(阿部嘉昭のことばで言えばミクロ→全体を構想して)語ることもできるが、こんな要約(意味)というものは言った者勝ちで、どうにでもなる。

 で、そういう「意味」は、どうでもよくて--「意味」というのは勝手な妄想であって。
 このことばの運動の奥にあるのは、ことばを接続したい、それも切断した状態にある者を接続したい、あるいは接続することで「いま/ここ」に流通する接続を無効にしたい(切断したい)という欲望である。
 なぜ切断と接続という矛盾したことを同時にしたいのか。
 詩とは、かけ離れたものの偶然の出会いだからである。切断されたもの(かけ離れたもの、ミシンとこうもり傘)を接続する(手術台の上で出会わせる)と、それが詩になる。出会うはずのないものの出会いを目撃すると、目撃者のなかで「流通概念」が崩壊する。砕け散る。そのときの爆発が詩である。「流通概念(常識)」が詩に、美が生まれる。死と生の結合。
 こういう「意味」も、まあ、でっち上げの類。私は書きながら、こういう「意味」を信じてはいない。
 ここにあるのは欲望。定義不要の欲望。都はるみの「うなり節」と同じである。こんな声が出せる。声をだすときの、都はるみにしかわからない「喉の快感」。
 都はるみにしか「わからない」と書いたが、これは実は嘘。だれにでも「わかる」。そして、その「わかる」というのは、たとえば道に誰かが倒れて呻いているのを見ると、あ、このひとは腹が痛いのだと「わかる」ときの「わかる」に似ている。ひとの痛みが実際に自分の「肉体」に移ってくるわけではない。肉体がおぼえていることが、思い出されて「わかる」のである。肉体がおぼえていることを思い出す--それを「わかる」という。
 おぼえたばかりのことばをつかって、何か空想(でたらめなことば)を押し広げる。ことばがどんどん「いま/ここ」からかけ離れて行く。「いま/ここ」を違ったものにしてしまう。そのとき、「肉体」のなかで「わくわく/どきどき」がひろがる。その快感を佐藤はおぼえていて、それを解放するようにことばを動かしている。
 そして、(というか、でも……といえばいいのか)。
 ことばはどんなにでたらめを書いてみても、私がさっき「意味」をくみ取るふりをして捏造したように、「意味」が押し寄せてくる。どんな「意味」でも押しつけることができる。
 だからこそ。
 佐藤は、それをはねつけるように、破壊するように、新しいことばを次々に接続する。だれも思いつかないことばの接続を、だれも書かなかったことばの連続をつづけたい。その欲望、その本能のなかに、ことばに対する「放心」がある。「夢中のいのり」のようなものがある。(いのり--ということばには、「意味」があるから、私のつかい方はまちがっているのだが、ほかのことばが思いつかない。)
 この本能の愉悦、欲望の愉悦は、都はるみの「うなり節」と同じように、それをそっくりそのまま真似してみないと、自分の「肉体」ではおぼえられない。佐藤の愉悦を心底味わうには、佐藤と同じ詩を書くしかないのだが、それを書けない私は、都はるみを始めて聞いたときのように、ただただびっくりした!というしかない。

 詩の完成度(?)という点で言えば、高いとは言えないと思うけれど、それは私の肉体が佐藤の肉体に追いつけないからそう思うだけのことかもしれない。で、その「つまずき」は、私の場合、「リズム」。佐藤のことばのリズム、体言止めの多さが、私には物足りない。もっとうねるように連続すると、もっとおもしろくなる。
 先に引用した部分で言えば、

手を伸べるほど遠離る掴む水を含み嚥み下す切れ切れ

 という行は「手を伸べるほど遠離る/掴む水を含み嚥み下す切れ切れ」と「分断」を挿入できるのかもしれないけれど、遠く離れる水をつかみ飲みくだすという感じでも読むことができ、そこに「動詞」の存在がおおきく働く。
 そうすると、「肉体」がもっと近づく。
 「動詞」の持続力(連続性)がつよくなると、文体に粘着力がでてきて、もっと肉体を刺戟する。
 そういうことを私は期待するけれど、こんなものは単なる私の期待にすぎず(体力の衰えた人間が若い人の動きがうらやましくて、嫉妬でケチをつけているようなものだから)、気にする必要はない。ただ私は書いてみただけ。佐藤は、私の思いとは関係なく、勝手に(自由に、という方が正しいかも)変わっていくだろう。とても楽しみ。

 まだ部数が残っているかどうかわからないが、私の知らない発行所なので(店頭で買えるかどうかわからないので)、住所を書いておく。
阿吽塾 北海道北見市川東31-29 (電話 0157-32-9120)


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