内田良介『海と書物』(思潮社、2013年10月01日発行)
内田良介『海と書物』はとても静かで抒情的な詩集である。--と、思わず私は書いてしまうのだが、抒情とは何だろうか。
「潮騒」の書き出し。
2連目の「意味」。そのことばと抒情は関係があるように思える。
「意味」は1連目の最後の行の「名を失い」ということばと向き合っているように思える。「名を失」っても、「もの」はある(存在する)。そのとき、その「もの」の「意味」もなくなっているような気がする。そして、意味を失った不安定な感じ(喪失感)が抒情のひとつであるような気がする。
「名を失」うことを、内田は「しがらみから解き放たれて」と書いている。「しがらみ」を関係と言い換えてみようか。名前を失うことは関係から解き放たれること(関係を失うこと)であり、関係を失うということは自分の「位置」を失うことである。それは「意味」を失うことと同じような感じかもしれない。
だから、抒情は「名前を失うこと」「意味を失うこと」関係がある。
と、少し書いただけでわかることがある。
私のことばは「意味」をもとめて動き回る。「意味」が動き回っているのかもしれない。ことばが動き回るというよりも。そして、その動き回る「意味」は「失われた意味」なのだと思う。
--と、書くと。
何か矛盾してしまう。堂々巡りになる。でも、この矛盾と堂々巡りがきっとこの詩の「深み」なのだ。
内田の詩のなかでは、「私」は名前を失う。それは「私の意味」を失うということ。「私」が「関係(社会)」のなかで、孤立する。孤立しても、「意味」はなくても、内田は存在する。
その「意味」は? 内田を他人とつなぎとめる「関係」ではなく、内田自身が孤立してもなお内田であることの意味は?
このとき、「意味」は「関係」ではなく、「存在(存在すること)」と結びついている。「社会の関係」から切断されて、「私(内田)」がただ「存在すること」と結びつけられて思考されている。それは、なんといえばいいのだろう。一種の「存在論」と結びついているといえばいいのかな? 「存在するとは何か」を考えているのかもしれない。
「存在するとは何か、どういうことか」ということのなかに「ほんとうの意味」(みつけなければならない意味)がある。
あ、また堂々巡りだ。
「意味」を探す動きが、新しい名前を探すという方向に向かうとき、あるいは失われた名前(失われた意味)を、「存在論」を基盤にして考えるとき、それは抒情になる。
うーん、こういう書き方はよくないね。
わたしのことばは「意味(論理)」を偽装している。ことばは書きつらねるとどんな「論理」にでもなることができる。そして、その「論理(意味)」は、「頭」で生まれるのだけれど、「頭」を裏切る。ほんとうに見つけなければならないことを隠してしまう。わかったような「論理」を補強するために動き、動いている内に、それを信じてしまう。
失われた名前(自分の存在を示す刻印)を、行動として探すのではなく、存在論を思考することばとして探すとき、不在と存在が拮抗し、その緊迫感のなかで悲しく佇むのが抒情である--などと、でっちあげてしまう。
いや、これは内田がそういうことをでっちあげているというのではなく、内田のことばをうまく追いきれない私(谷内)がでっちあげているだけのことなのだけれど、こういうでっち上げは論理の不十分さを隠すために、どうしてもキザでかっこよくなる。「詩」っぽくなるなあ。
と、また脱線してしまった。
でも、私の、この奇妙な「脱線」(論理の捏造)のなかに、何か抒情と関係するものがある。存在しないはずのものを「論理の捏造」によってつくりだしてしまうことと関係しているように思う。
で、何をつくりだすか、というと。
感情だね。悲しみの感情。敗北する感情がつくりだされ、それによって「頭」が動かなくなる。
もちろんこれを、失われた感情の回路を「頭」が復元し、その回路をたどることを存在論の根拠とする--それを抒情と呼ぶ、と言いなおすこともできる。
えっ、どこが言い直しかって?
どこでもない。多々、そんなふうにことばをつないで、そこに「論理(意味)」を偽装してみただけなんだけれど、私は。
そういう奇妙な動きを誘い込む力が、内田の詩にはある。私が頭が悪くて、感じていることを論理的にかたれないだけなのかもしれないけれど。
何を書いているのかなあ。私も、よくわからない。
だから、詩にもどる。内田が書いていることばそのものを、もう一度読んでみる。
3連目を飛ばして、4連目。
「不死」ということばに、私はつまずいた。そこで、はた、と考えた。
1連目の最終行「名を失いしがらみから解き放たれて」というとき、「私」は「私」ではない。「私」をつなぎとめる「関係」は「名」ととも消えてしまっている。では、「私は私ではない」と自覚するとき、内田は何を発見するのか。
「人間」である。むき出しの、無防備の、なまの人間。全てから切断されて、孤立して、それでも存在する「人間」。それに、どういう意味があるのか。「存在論」として、内田は自問するのである。
その答えになるかどうかはわからないが、そのとき内田が引き寄せたのは「不死」ということば。これは生身の「人間」の対極にある。「人間」というものは「死ぬ」存在である。死ななかったら「人間」ではない。
ここに激しい矛盾--つまり、読み解かなければならない「思想」の核がある。
人間は死ぬ存在である。しかし、人間は同時に不死をもとめる生き物である。--このとき「不死」は「肉体」ではない。「肉体」ではない何か。これを定義することはむずかしい。ときどき、それは「精神」と呼ばれる。(私は、この肉体と精神の二元論が、どうも嘘くさく感じられて嫌なのだが……。)
関係を否定され(しがらみから解き放たれる、追放を、そういうふうに呼ぶこともできるだろう)、孤立する「肉体」。そのとき「精神」も孤立しているのだが、「精神」は孤立したまま「肉体」を超える。もし、そのときひとりの「肉体」に限定される精神ではなく、多くの人に共有される精神になれば、精神は生き残ることができる。
そんな、まぼろし。
このまぼろしは、自分自身で呼んでしまって、勝手にもう一度敗北することが抒情かもしれない勝ち残る精神ではなく、敗北するという、永遠になくならない精神のとして生き残る。そういうものを目指すのが抒情詩かもしれない。
あれっ、また、書きすぎて、私が考えていること以外が暴走し、「かっこ」をつける。「かっこいいだろう」と言い張る。 いやだね、ことばの暴走は。「頭」で考えると、どうしてもこうなってしまう。
うーん、うまく言えないのだが。
内田の詩を読んでいると、読み進めば読み進むほど、作品の個別性が消えて、静かな抒情という「意味」だけがあらわれてくる。それは全体が抒情によって統一されているということなのだけれど、「意味」があらわれて「もの(存在の手触り)」が消えるというのは、ちょっと困るなあ、と思う。
何が困るのか、まだ私には言えないけれど。
という3行も、とても美しいのだけれど、何か抒情ということばでひとくくりしてしまうと、ほかの抒情と区別がなくなるようで、こわい。
あす、もう一度読み直してみようかな。
内田良介『海と書物』はとても静かで抒情的な詩集である。--と、思わず私は書いてしまうのだが、抒情とは何だろうか。
「潮騒」の書き出し。
樫の木は風に揺れていた
堤防の向こうには海が広がっていた
空には雲が流れ
私は佇んでいた
名を失いしがらみから解き放たれて
驚きのあまり
問わずにはいられなかった
そのように在ることの意味を
世界は静まりかえり
欠けた彫像のように青ざめた
2連目の「意味」。そのことばと抒情は関係があるように思える。
「意味」は1連目の最後の行の「名を失い」ということばと向き合っているように思える。「名を失」っても、「もの」はある(存在する)。そのとき、その「もの」の「意味」もなくなっているような気がする。そして、意味を失った不安定な感じ(喪失感)が抒情のひとつであるような気がする。
「名を失」うことを、内田は「しがらみから解き放たれて」と書いている。「しがらみ」を関係と言い換えてみようか。名前を失うことは関係から解き放たれること(関係を失うこと)であり、関係を失うということは自分の「位置」を失うことである。それは「意味」を失うことと同じような感じかもしれない。
だから、抒情は「名前を失うこと」「意味を失うこと」関係がある。
と、少し書いただけでわかることがある。
私のことばは「意味」をもとめて動き回る。「意味」が動き回っているのかもしれない。ことばが動き回るというよりも。そして、その動き回る「意味」は「失われた意味」なのだと思う。
--と、書くと。
何か矛盾してしまう。堂々巡りになる。でも、この矛盾と堂々巡りがきっとこの詩の「深み」なのだ。
内田の詩のなかでは、「私」は名前を失う。それは「私の意味」を失うということ。「私」が「関係(社会)」のなかで、孤立する。孤立しても、「意味」はなくても、内田は存在する。
その「意味」は? 内田を他人とつなぎとめる「関係」ではなく、内田自身が孤立してもなお内田であることの意味は?
このとき、「意味」は「関係」ではなく、「存在(存在すること)」と結びついている。「社会の関係」から切断されて、「私(内田)」がただ「存在すること」と結びつけられて思考されている。それは、なんといえばいいのだろう。一種の「存在論」と結びついているといえばいいのかな? 「存在するとは何か」を考えているのかもしれない。
「存在するとは何か、どういうことか」ということのなかに「ほんとうの意味」(みつけなければならない意味)がある。
あ、また堂々巡りだ。
「意味」を探す動きが、新しい名前を探すという方向に向かうとき、あるいは失われた名前(失われた意味)を、「存在論」を基盤にして考えるとき、それは抒情になる。
うーん、こういう書き方はよくないね。
わたしのことばは「意味(論理)」を偽装している。ことばは書きつらねるとどんな「論理」にでもなることができる。そして、その「論理(意味)」は、「頭」で生まれるのだけれど、「頭」を裏切る。ほんとうに見つけなければならないことを隠してしまう。わかったような「論理」を補強するために動き、動いている内に、それを信じてしまう。
失われた名前(自分の存在を示す刻印)を、行動として探すのではなく、存在論を思考することばとして探すとき、不在と存在が拮抗し、その緊迫感のなかで悲しく佇むのが抒情である--などと、でっちあげてしまう。
いや、これは内田がそういうことをでっちあげているというのではなく、内田のことばをうまく追いきれない私(谷内)がでっちあげているだけのことなのだけれど、こういうでっち上げは論理の不十分さを隠すために、どうしてもキザでかっこよくなる。「詩」っぽくなるなあ。
と、また脱線してしまった。
でも、私の、この奇妙な「脱線」(論理の捏造)のなかに、何か抒情と関係するものがある。存在しないはずのものを「論理の捏造」によってつくりだしてしまうことと関係しているように思う。
で、何をつくりだすか、というと。
感情だね。悲しみの感情。敗北する感情がつくりだされ、それによって「頭」が動かなくなる。
もちろんこれを、失われた感情の回路を「頭」が復元し、その回路をたどることを存在論の根拠とする--それを抒情と呼ぶ、と言いなおすこともできる。
えっ、どこが言い直しかって?
どこでもない。多々、そんなふうにことばをつないで、そこに「論理(意味)」を偽装してみただけなんだけれど、私は。
そういう奇妙な動きを誘い込む力が、内田の詩にはある。私が頭が悪くて、感じていることを論理的にかたれないだけなのかもしれないけれど。
何を書いているのかなあ。私も、よくわからない。
だから、詩にもどる。内田が書いていることばそのものを、もう一度読んでみる。
3連目を飛ばして、4連目。
もとめ続けていた不死は
ふり返ればどこにもない
語りによって 悲しみによって
遠く隔てられながら
かなわぬ帰郷を夢見ていた
「不死」ということばに、私はつまずいた。そこで、はた、と考えた。
1連目の最終行「名を失いしがらみから解き放たれて」というとき、「私」は「私」ではない。「私」をつなぎとめる「関係」は「名」ととも消えてしまっている。では、「私は私ではない」と自覚するとき、内田は何を発見するのか。
「人間」である。むき出しの、無防備の、なまの人間。全てから切断されて、孤立して、それでも存在する「人間」。それに、どういう意味があるのか。「存在論」として、内田は自問するのである。
その答えになるかどうかはわからないが、そのとき内田が引き寄せたのは「不死」ということば。これは生身の「人間」の対極にある。「人間」というものは「死ぬ」存在である。死ななかったら「人間」ではない。
ここに激しい矛盾--つまり、読み解かなければならない「思想」の核がある。
人間は死ぬ存在である。しかし、人間は同時に不死をもとめる生き物である。--このとき「不死」は「肉体」ではない。「肉体」ではない何か。これを定義することはむずかしい。ときどき、それは「精神」と呼ばれる。(私は、この肉体と精神の二元論が、どうも嘘くさく感じられて嫌なのだが……。)
関係を否定され(しがらみから解き放たれる、追放を、そういうふうに呼ぶこともできるだろう)、孤立する「肉体」。そのとき「精神」も孤立しているのだが、「精神」は孤立したまま「肉体」を超える。もし、そのときひとりの「肉体」に限定される精神ではなく、多くの人に共有される精神になれば、精神は生き残ることができる。
そんな、まぼろし。
このまぼろしは、自分自身で呼んでしまって、勝手にもう一度敗北することが抒情かもしれない勝ち残る精神ではなく、敗北するという、永遠になくならない精神のとして生き残る。そういうものを目指すのが抒情詩かもしれない。
あれっ、また、書きすぎて、私が考えていること以外が暴走し、「かっこ」をつける。「かっこいいだろう」と言い張る。 いやだね、ことばの暴走は。「頭」で考えると、どうしてもこうなってしまう。
うーん、うまく言えないのだが。
内田の詩を読んでいると、読み進めば読み進むほど、作品の個別性が消えて、静かな抒情という「意味」だけがあらわれてくる。それは全体が抒情によって統一されているということなのだけれど、「意味」があらわれて「もの(存在の手触り)」が消えるというのは、ちょっと困るなあ、と思う。
何が困るのか、まだ私には言えないけれど。
何度読んでも理解できなかった
そそり立つ一行の深淵に
ひと筋の光がさしている (「傍線」)
という3行も、とても美しいのだけれど、何か抒情ということばでひとくくりしてしまうと、ほかの抒情と区別がなくなるようで、こわい。
あす、もう一度読み直してみようかな。
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