詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川島洋『青の成分』

2013-10-10 09:37:00 | 詩集
川島洋『青の成分』(花神社、2013年10月25日発行)

 川島洋『青の成分』を読みながら、どう書いていいかわからないけれど、ぼんやりと(ふんわりと?)、感想をきちんと書けたらおもしろいだろうなあと感じた。そして、36ページからはじまる「空き地で」を読んで、思わず家人に声をかけた。
 「この部分おもしろいよ」

  行きつ 戻りつ 飛び交うトンボ
一郎 二郎 三郎
秋子 茜 翔子
たわむれに 名前をつけてみる
だがとても追いつかない
どれがどれだか判らなくなる
見分けがつかない ということは
初めから名前が要らない
ということなのだろう

 家人が笑って、私も笑った。
 私は詩の朗読というものをしないが、思わず読んで聞かせたくなって、笑った。何が書いてあるわけではない。何か重大な「意味」が、という意味だが。なんでもないこと。忘れてしまっていいこと。でも、聞いた瞬間、笑って愉快な気持ちになる。
 私は川島洋という詩人を個人的に知らない。詩を、いままで読んだことがあるかどうかも思い出せない。けれど、この詩を読んだ瞬間、川島という人間がほんとうにいるのだと感じ、とてもうれしくなったのだ。
 この作品には、いま引用した部分の前も、後ろもあるけれど、そしてそこには「笑う」だけではない何かが書かれているのだろうけれど、まあ、いいな。ここで笑って、いい意味で、わっ、ばかみたいと感じ、とても好きになったのだ。「ばかみたい」というのは、きっと「意味」を超えている、「意味」にならないということなんだなあ。「理由」なしに好きになる--そういうとき、「ばかみたい」と思う。それは、相手をばかみたいと思うということよりも、こんなところをおもしろがるなんて、自分はばかみたいということかもしれない。
 よくわからないが、ともかく好き。
 この詩集について書くなら、ここから書きはじめようと思い、さらに読み進む。46ページで「Nさん」に出会う。
 私はここでも家人に詩を読んで聞かせるのだ。(なぜだか、声に出して読みたくなってしまうのだ。)

 無類の読書好きであったNさんは 亡くなる少し前に
枕元の奥さんに尋ねたそうです。ある世にも本はあるの
かな。本がなかったら退屈で困るなあ。尋ねられた奥さ
んはうろたえました。真剣な顔でこんな子供じみた質問
をするNさんに 何と答えればいいのか。さあ どうで
しょうね 多分あるんじゃないですか。などと思わず心
細い答え方をしてしまったそうです。何しろ永遠だよ
永遠のあいだ読み続けても読みきれないほどの本なんて
なあ と彼はまた言います。

 この詩にも、引用の前とうしろがあるが、この部分がいちばんおもしろい。おもしろいといってはいけないのかもしれないけれど、Nさんが見える。奥さんも見える。知らない人なのに、好きになってしまう。
 詩のなかに「子供じみた」ということばがあるが、さっき私が書いたことばをつかえば「ばかみたい」だよね。「ばかみたい」だから、気楽に好きになるのかなあ。何かを瞬間的に忘れて、いま、ここで起きていることに引き込まれていく。その瞬間、私は私を忘れてしまう。詩集の感想を書く、ということさえ忘れて、ああ、ここはいいなあ、と思う。
 なんだろうなあ、これは。
 ちょっと考えて、あ、これは「声」なんだ、と思った。「ことば」には「意味」がある。「音」がある。そして、いま引用した部分--赤とんぼに名前をつける、あの世に行っても本はあるかなあ、という部分は「意味」として私の肉体に入ってきたというより、「声」として入ってきたんだなあと思った。
 私は川島の声を知らないし、Nさんの声も知らない。けれど「声」が聞こえたんだ。「声」が「肉体」として、いま/ここにある。ことばの細部のつらなり、あるいはそのことばにこめられた「意味」は忘れてしまっても、きっとこの「声」は忘れないなあと思った。古い友人、長い間会ったことのない友人から電話で「声」を聞いて、瞬間的に昔の友人を思い出すように、この「声」を思い出すことがなるだろうなあと思う。
 川島は「声」の詩人なんだ。「意味」ではなく、「声」の詩人。

 そこまで思って、大急ぎで「感想」を書きはじめた。思いついたら、すぐに書いておく。詩集はまだ半分くらい残っているが、こういう「思いつき」というのは大事だからね。で、詩集の前半に引き返すと、「ロバ」「ヒバリ」「虹」のページがドッグイヤーになっている。ページを端を犬の耳みたいに追ってある。感想を書く作品の候補として、印をつけている。
 そのうちの「ヒバリ」。

空の中にヒバリがいて
しきりにさえずっている
あんまり夢中でさえずるうち
空に貼りついたまま
姿は光に溶け込んでしまったのか
声だけになり だから一層躍起になって
声を張り上げているようだ

 ここに「声」があった。「声」いがいのことも書かれているし、川島は「姿は光に溶け込んでしまったのか」という美しいイメージを書きたかったのかもしれないが。
 私はきっと、その部分は忘れる。読んですぐのときは、そこがかっこいい(詩的)と思うけれど、それは思い出せなくなっても「声」ということばがつかわれていたことを思い出すだろうなあと思った。
 川島は「声」を出し、同時に「声」を聞く詩人なのだ。「声」のなかで人と(対象と)出会い、そのことを「声」にする。詩は「ことば」で書かれているけれど、そして私はもっぱら詩を黙読するのだけれど、川島の「声」を聞いて、ああ、いいなあと思う。いいなあ。好きだなあ、と感じた。
 (つづきは、あした。「声」が聞こえた、としか私は書いていないのだが、いまはそれしか書けないのだが、なんだかわくわくしている。とっても気持ちがいい。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする