黒田ナオ『夜鯨を待って』(BookWay、2013年07月31日発行)
きのう、阿部嘉昭『ふる雪のむこう』(思潮社)の感想を書いたとき、マッチョ思想について書いた。私の考えているマッチョ思想の定義は、たぶん多くのひとの定義とは異なるだろう。私は、簡単にいってしまうと、たとえば現代西洋哲学(デリダとかドゥルーズとか……)の「哲学用語」をそのまま自分の文体のなかに持ち込んできて、それを頼りにことばを動かすことを言う。阿部の詩にそういうものが直接出てくるわけではないが、どこか「頭」で知ったものを持ち込んでいる感じが残っていて、それを私はマッチョ思想と読んだのである。だから、というのはとても変かもしれないけれど、生活ぶりだけを見ているとマッチョと言っていいような池井昌樹の詩は、逆にマッチョとは無縁である。池井は「頭」で知ったものを詩のなかには持ち込まない。あくまで「肉体」の必然性だけでことばを動かしている。
多くの女性詩人も、当然ながらマッチョとは無縁なのだけれど、ときおり、マッチョ詩人があらわれる。亡くなってしまったひとを例に挙げるのは申し訳ない気がするが、新井豊美はその典型である。『イスロマニア』のときは女性らしかったけれど、だんだんマッチョ思想がでてきて、私はそれがなじめなかった。「女性詩」について語られたことばは、特に、そういう感じがした。「肉体」でつかみとったものというよりも、男の書いたものを読んで、「学習」してつかんだものを利用しながら、「いま/ここ」へ侵入していく感じがなじめなかった。
阿部の作品の前に感想を書いた三井葉子の場合、もちろん「学習」はしているのだけれど、「頭」で「借りてきた」という感じがしない。「頭」を忘れて(?)、「肉体」でつかみなおしている。「教養」が「本」の活字として見えてくるのではなく、「暮らし」そのものとして隠れている。活字として見えてくるものはわかりやすく、暮らしとして隠れているものはわかりにくいけれど、そのわかりにくいものの方が私は安心できる。活字として見えてくるものは、なんというか「あれ、そんなことも知らないの」ということばといっしょに現実を強引にねじまげていく「権力」の動きに似ている。何年か前、国の予算編成に「スキーム」ということばが突然つかわれたときのようなことを思い出しながら私は書いているのだが……。
長い長い脱線、はじまる前からの逸脱になってしまったが。
きょう感想を書く黒田ナオ『夜鯨を待って』はマッチョ思想とは関係がない。そういうことばは、どこか遠くにある。見えないところにある。そして、そこには私にはわからないものが、平然として(悠然として?)、動いている。
「土曜日の午後」という作品。
キリン。わかりません。私も室内プールで泳ぐことがあるが、そこにキリンがやってくることはありません。水泳帽をかぶったキリンは動物園でも見たことがありません。
でもね。
私にはわかります。わかりません、と書いた後にわかりますと書いてしまうのは矛盾しているけれど。これ、いいなあ、と感じてしまう。この、「いいなあ」という感じ、ほかのことばで言いなおすことができないのだけれど、この「いいなあ」が「わかる」。「いいなあ」という気持ちが「肉体」のなかに入っていく。
黒田が実際に見ているのは「キリンのようなひと」なのかもしれない。(私の泳いでいるプールには、カバさんとカマキリさんがいる。それは体型と泳ぎのスタイルからそう呼んでいるだけのことだけれど。)
でも。
そうではなく、私にはキリンが見える。
室内プールなんて、水深が1・2メートルくらいだから、キリンの足はついてしまうのだけれど、それでも泳いでいるキリンが見える。プールはキリンのまわりだけ突然水深10メートルくらいにかわっていて、そこをキリンが泳いでいる。首を高く突き出して、犬掻きみたいに「足をかきまわし」ながら。
この「見える」が「わかる」。
私は「目」ではなく「肉目(わざと、こう書いています)」でキリンを見る。それは私の「肉体」のなかにある「目」がおぼえていることが、いま、キリンの形になってよみがえってきているということ。「肉体」のなかにある「目」なので、それは「肉体」のなかで手や足や、皮膚にもつながっている。どこまでが「目」とはいえない、「肉体」全体で「見る」。それを「肉目」で「見る」と私は言う。
私はキリンが泳ぐところを見たことがないが、ほかの動物が泳ぐのを見たことがある。犬を海や川で泳がせて遊ぶのも大好きだ。そして、その動物の(哺乳類の)泳ぐときの感じ、肉体の動きだけではなく、そのまわりにできる水の皺のやわらかな感じも、おぼえている。それは「目」の記憶というだけではなく、私自身が泳ぐときの「肉体」が味わう水の感触をふくめての「おぼえている」である。
その「肉体」が「おぼえている」あれこれが、「肉体」の奥からよみがえってきて、「キリン」になって泳ぎはじめる。黒田の詩は、基本的にはキリンが泳ぐのを見ているかもしれないけれど、「キリンが泳いでいた」と書いた瞬間に、そのキリンは黒田自身であある。黒田はキリンになっている。同時に、それを読む私もキリンになっている。
黒田も私も人間なのに、キリンに「なる」。その「なる」が「肉体」のなかで起きることを、私は「わかる」というのである。また、こういう瞬間を、「ことばの肉体がセックスする」とも言うのである。すべての区別がなくなり、非現実が起きる。現実から逸脱して(エクスタシー)、いままで知らなかった何かを一気に獲得する。その獲得したものに「意味」はない。いや、「意味」はあるかもしれないが、すぐには「意味」として語ることができない。それは「肉体」の奥にしまいこまれるだけである。それを「肉体」でおぼえるだけである。いつか、何かのきっかけで、それがもう一度肉体を破ってでてきたとき、それは「意味」になる。それまでは、何がなんだかわからない。わからないけれど、この一瞬は気持ちがいい。
こういう、わからない何か(流通言語をつかって説明できない--頭に納得させようとすると、どれだけことばを費やせばいいのか見当がつかない何か)、わからないけれど気持ちがいい何か、セックスの快感のように、そうかこういうものが「肉体」の奥にあるのだな、「肉体」はここに書いてあることとつながっているのだなと感じることばが詩集のなかに何回か出てくる。
こういうことばを総称して、私は「非・マッチョ思想(非・マッチョ肉体)」と考えている。--と、強引に、書き出しに結びつけておこう。
そういう美しい部分をもう少し引用しよう。
2行目の「こみ上げてきて」がいいなあ。土がにおうのではなく、自分の肉体が土になっている。
「一匹の蝶をしまっている」も好きだなあ。
あ、蝶のドクンドクンを聞きながら、心臓がひとつになる。--そこに至るまでの、ていねいな描写。無垢な正直さ。肉体の純粋さがある。
うれしいなあ、こいういう詩は。
きのう、阿部嘉昭『ふる雪のむこう』(思潮社)の感想を書いたとき、マッチョ思想について書いた。私の考えているマッチョ思想の定義は、たぶん多くのひとの定義とは異なるだろう。私は、簡単にいってしまうと、たとえば現代西洋哲学(デリダとかドゥルーズとか……)の「哲学用語」をそのまま自分の文体のなかに持ち込んできて、それを頼りにことばを動かすことを言う。阿部の詩にそういうものが直接出てくるわけではないが、どこか「頭」で知ったものを持ち込んでいる感じが残っていて、それを私はマッチョ思想と読んだのである。だから、というのはとても変かもしれないけれど、生活ぶりだけを見ているとマッチョと言っていいような池井昌樹の詩は、逆にマッチョとは無縁である。池井は「頭」で知ったものを詩のなかには持ち込まない。あくまで「肉体」の必然性だけでことばを動かしている。
多くの女性詩人も、当然ながらマッチョとは無縁なのだけれど、ときおり、マッチョ詩人があらわれる。亡くなってしまったひとを例に挙げるのは申し訳ない気がするが、新井豊美はその典型である。『イスロマニア』のときは女性らしかったけれど、だんだんマッチョ思想がでてきて、私はそれがなじめなかった。「女性詩」について語られたことばは、特に、そういう感じがした。「肉体」でつかみとったものというよりも、男の書いたものを読んで、「学習」してつかんだものを利用しながら、「いま/ここ」へ侵入していく感じがなじめなかった。
阿部の作品の前に感想を書いた三井葉子の場合、もちろん「学習」はしているのだけれど、「頭」で「借りてきた」という感じがしない。「頭」を忘れて(?)、「肉体」でつかみなおしている。「教養」が「本」の活字として見えてくるのではなく、「暮らし」そのものとして隠れている。活字として見えてくるものはわかりやすく、暮らしとして隠れているものはわかりにくいけれど、そのわかりにくいものの方が私は安心できる。活字として見えてくるものは、なんというか「あれ、そんなことも知らないの」ということばといっしょに現実を強引にねじまげていく「権力」の動きに似ている。何年か前、国の予算編成に「スキーム」ということばが突然つかわれたときのようなことを思い出しながら私は書いているのだが……。
長い長い脱線、はじまる前からの逸脱になってしまったが。
きょう感想を書く黒田ナオ『夜鯨を待って』はマッチョ思想とは関係がない。そういうことばは、どこか遠くにある。見えないところにある。そして、そこには私にはわからないものが、平然として(悠然として?)、動いている。
「土曜日の午後」という作品。
室内プールのなか
声だけが反響して
目に見えない子供たちが
にぎやかに跳ねまわっている
透明な天井から射し込んでくる
光の音楽に合わせて
一匹のキリンが泳いでいた
白とブルーの水泳帽をかぶり
足をかきまわし
二十五メートルプールを
行ったり来たり
行ったり来たり
見えない子供たちと
人間の子供たちの間を
すり抜けながら泳いでいく
キリン。わかりません。私も室内プールで泳ぐことがあるが、そこにキリンがやってくることはありません。水泳帽をかぶったキリンは動物園でも見たことがありません。
でもね。
私にはわかります。わかりません、と書いた後にわかりますと書いてしまうのは矛盾しているけれど。これ、いいなあ、と感じてしまう。この、「いいなあ」という感じ、ほかのことばで言いなおすことができないのだけれど、この「いいなあ」が「わかる」。「いいなあ」という気持ちが「肉体」のなかに入っていく。
黒田が実際に見ているのは「キリンのようなひと」なのかもしれない。(私の泳いでいるプールには、カバさんとカマキリさんがいる。それは体型と泳ぎのスタイルからそう呼んでいるだけのことだけれど。)
でも。
そうではなく、私にはキリンが見える。
室内プールなんて、水深が1・2メートルくらいだから、キリンの足はついてしまうのだけれど、それでも泳いでいるキリンが見える。プールはキリンのまわりだけ突然水深10メートルくらいにかわっていて、そこをキリンが泳いでいる。首を高く突き出して、犬掻きみたいに「足をかきまわし」ながら。
この「見える」が「わかる」。
私は「目」ではなく「肉目(わざと、こう書いています)」でキリンを見る。それは私の「肉体」のなかにある「目」がおぼえていることが、いま、キリンの形になってよみがえってきているということ。「肉体」のなかにある「目」なので、それは「肉体」のなかで手や足や、皮膚にもつながっている。どこまでが「目」とはいえない、「肉体」全体で「見る」。それを「肉目」で「見る」と私は言う。
私はキリンが泳ぐところを見たことがないが、ほかの動物が泳ぐのを見たことがある。犬を海や川で泳がせて遊ぶのも大好きだ。そして、その動物の(哺乳類の)泳ぐときの感じ、肉体の動きだけではなく、そのまわりにできる水の皺のやわらかな感じも、おぼえている。それは「目」の記憶というだけではなく、私自身が泳ぐときの「肉体」が味わう水の感触をふくめての「おぼえている」である。
その「肉体」が「おぼえている」あれこれが、「肉体」の奥からよみがえってきて、「キリン」になって泳ぎはじめる。黒田の詩は、基本的にはキリンが泳ぐのを見ているかもしれないけれど、「キリンが泳いでいた」と書いた瞬間に、そのキリンは黒田自身であある。黒田はキリンになっている。同時に、それを読む私もキリンになっている。
黒田も私も人間なのに、キリンに「なる」。その「なる」が「肉体」のなかで起きることを、私は「わかる」というのである。また、こういう瞬間を、「ことばの肉体がセックスする」とも言うのである。すべての区別がなくなり、非現実が起きる。現実から逸脱して(エクスタシー)、いままで知らなかった何かを一気に獲得する。その獲得したものに「意味」はない。いや、「意味」はあるかもしれないが、すぐには「意味」として語ることができない。それは「肉体」の奥にしまいこまれるだけである。それを「肉体」でおぼえるだけである。いつか、何かのきっかけで、それがもう一度肉体を破ってでてきたとき、それは「意味」になる。それまでは、何がなんだかわからない。わからないけれど、この一瞬は気持ちがいい。
こういう、わからない何か(流通言語をつかって説明できない--頭に納得させようとすると、どれだけことばを費やせばいいのか見当がつかない何か)、わからないけれど気持ちがいい何か、セックスの快感のように、そうかこういうものが「肉体」の奥にあるのだな、「肉体」はここに書いてあることとつながっているのだなと感じることばが詩集のなかに何回か出てくる。
こういうことばを総称して、私は「非・マッチョ思想(非・マッチョ肉体)」と考えている。--と、強引に、書き出しに結びつけておこう。
そういう美しい部分をもう少し引用しよう。
もうすぐ雨が降ってきそうな曇り日は
土の匂いがこみ上げてきて
とても懐かしい人が
すぐそばまで
来てくれているような気がします
(「曇り日の気配」)
2行目の「こみ上げてきて」がいいなあ。土がにおうのではなく、自分の肉体が土になっている。
「一匹の蝶をしまっている」も好きだなあ。
冷蔵庫の奥に私は
一匹の蝶をしまっている
透明なジャムの空き瓶の中
蝶はいつもうっとりと眠っている
レモンイエローの羽を合わせて
真夜中
家族みんなが
ぐっすり眠り込んでいるのを確かめると
私は真っ暗な台所で
ぶーんと静かに唸り声をあげる
冷蔵庫のドアを開き
干からびたチーズや納豆のパックを
そっと押しのけて
ジャムの空き瓶を取り出し
固く閉じた瓶の蓋をまわす
すると蝶はゆっくりと目を覚まし
レモンイエローの羽をひろげて
静かに瓶をぬけ出し
暗い台所の天井あたりを
ほのかに光りながら
はたりはたり飛びまわる
私は背中を
冷たい壁におしつけて
パジャマ姿のまま腕を組み
じーっといつまでもひとり
蝶を見あげていた
ドクンドクンという
聞こえるはずもない
自分自身の
心臓の音を聞きながら
あ、蝶のドクンドクンを聞きながら、心臓がひとつになる。--そこに至るまでの、ていねいな描写。無垢な正直さ。肉体の純粋さがある。
うれしいなあ、こいういう詩は。
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