詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田島安江「半島の向こうに」

2013-10-20 15:33:21 | 現代詩講座
田島安江「半島の向こうに」(「現代詩講座」@リードカフェ、2013年10月16日)

 「蛇口」という今日テーマで作品を持ち寄った。田島安江の「半島の向こうに」が相互評でも好評だった。

半島の向うに        田島安江

異国の言葉が行き交う市場
おばさんが素手でつかむ魚がまな板の上ではねる
魚は理不尽に横たえられ
抵抗むなしくぐさりと包丁を突き立てられる
たしかに先ほどまではあの海で泳いでいた
海はどこまでも海で
広げた手のひらに水のぬくもりも受けていて
魚は死に、わたしは生きる

秋はそこまで来ている

魚は鱗をはぎ取られてもまだ生きていて
魚の目がまっすぐ私を見る
それをわたしは正視していて
魚の最後の言葉を聞こうとしていて
わたしだっていつかは
魚がいるその場所に
寝かせられているかもしれなくて

半島の向うに湾が広がっている
その巨大な蛇口から噴き出す水が
すべてを消し去ろうとしている
魚が生きた証も
わたしが生きてここに立っていることも

魚吐いた何かがが
蛇口から滴る水滴のように
魚のその泣き声が
今はまだわたしの心に届いている
次の一瞬にはきっと声も消える
魚は切り刻まれて
無惨に目の前に並ぶ
その潔さをわたしは一切れずつ口にする
魚はもう声を出さないけれど
わたしのなかにすっきりと収まっていく

秋はもうすぐそこだ

 そのとき出た感想は
<受講生1>最初から最後まで魚と私ことがていねいに書かれている。
      生き物に対する畏れ、敬意があらわれていてすごい。
<受講生2>半島の歴史が横たわっているので魚の世界に奥行きがある。
      4連目が印象的。
<受講生3>5連目が好き。
      魚ということばが多いのだけれど気にならなかった。それが不思議。
<受講生4>題名がいい。半島を自分の眼で見ている。
<受講生5>こころの底にことばがしっかり落ちてくる。
      ことばの魔術師なのだけれど、技巧に走らないのがいい。

 この感想のなかで私が注目したのは「魚ということばが多いのだけれど気にならなかった」というもの。
 なぜ、気にならなかったのだろう。
<受講生4>魚の「述語」が違う。魚は魚ではないのかなあ、と思う。
      魚と自分が重なってくる。
<受講生3>ずーっと魚と対峙している。向き合っている。
谷内    魚という対象と私がどこかで「同一化」している。
      魚と自分が重なるというのは、そういうことだと思うけれど、
      その関係を田島さんはどんなことばで言っているかなあ。
<受講生2>「魚のその泣き声が
      今はまだわたしの心に届いている」
      この「心に届いている」。心に届くから自分と重なる。
谷内    ほかにはない?
      田島さんは書くときに気づいていないけれど、ここが田島さんらしい、
      そういうことばはないかな。

 なかなか私のもとめている(?)ことばが出てこなかったのだけれど。
 私は、

魚の目がまっすぐ私を見る
それをわたしは正視していて

 この2行に出てくる「まっすぐに私を見る」「正視して」が田島らしいと思う。田島の肉体(思想)だと思う。「まっすぐ」は「正」ということばで繰り返され、「見る」は「視」で繰り返される。ただ「まっすぐ」に「見る」なら「直視」ということばもあるが、田島は「正視」をいう。「直(じか)に」というより「正しく」見ることをこころがけているのだろう。大事なことを、ひとは繰り返していうものである。それだけはつたえたいという思いがことばを繰り返させるのである。
 受講生の感想のなかに「技巧的ではない」というものがあったが、「まっすぐ」だから「技巧」と感じないのだと思う。
 この「まっすぐ」「正しく」はいま書いたように「直に」とも似通うところがある。で、そう思って読み返すと。

おばさんが素手でつかむ魚がまな板の上ではねる

 の「素手で」が「直に」である。手袋をはめて間接的に、ではなく「素手で」直につかむ。「直に」ということばせ書かれていないけれど、田島はそれを無意識に動かしていると私は感じる。
 「直に」魚に触れると、その触れた魚と手が結びついて、区別が一瞬、つかなくなる。そういう「一体感」のようなものがあるから、

抵抗むなしくぐさりと包丁を突き立てられる

 という魚の様子が、魚ではなくまるで「自分」のことのように感じられる。自分の「肉体」に包丁が突きたてられたように痛みを感じる。
 おばさんと魚が「直に(素手で)」接するのを見たとき、田島はおばさんにもなれば魚にもなっている。おばさんになって素手で魚をつかんで、その魚に突きたてられる包丁の痛みを魚になって感じている。
 「直に」対象に接してしまうとこういう「混乱(混沌/矛盾)」が起きる。だからこそ、それを「まっすぐ」に見つめなおそう、「正視」しようとするのだが、そうすればそうするほど一体感が強くなる。ますます矛盾して、論理的に説明しようとすると、さっき魚をつかんだのはおばさんといったじゃないか、なぜおばさんと魚が一体にならなずに魚と田島が一体になってしまうのか、おかしいじゃないか--という「反論」が成り立つのだけれど。
 あ、そういう混乱が、詩なのだ、としか私には言えない。
 おばさん、魚、田島の関係は「頭」で整理すると面倒くさくなるが、実際に魚をさばくひとを見ていて、自分が魚をさばく人なのか、さばかれる魚なのかわからないまま、その両方を「肉体」で感じてしまうということは、確かにあるのだ。
 こういう不思議な一体感があるから、

魚のその泣き声が
今はまだわたしの心に届いている

 という行も生まれる。
 ね、「魚の泣き声」って聞いたことある? 私はないのだけれど、聞いたことがないけれど、そのことばが動きだすまでに、田島と魚が一体になっていしまっていると感じているので、泣き声が聞こえてしまう。人間が泣くように、魚も泣くのだと信じてしまっている。そして、その泣き声が聞こえたような気がする。


詩集 遠いサバンナ
田島 安江
書肆侃侃房
コメント
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