小笠原茂介「吹雪」ほか(「午前」4、2013年10月05日発行)
小笠原茂介「吹雪」は死んだ妻のことを(妻のまぼろし)を書いている。
「それはぼくも気にしていた」の「も」がいいなあ。
妻は死んでしまっているので、「さっき隣の奥さんの車が帰ってきて/ここでつかえていた」ということは知らない。知っているのは「ぼく」だけである。
でも。
そういことがあったら、妻は、それをとても気にする。自分の家の氷塊が道をふさぎ、となりのひとが家に帰るのに苦労している。自分の家の氷塊(といっても、それは自然現象なのだけれど)が原因というのは、自分が原因ということと同じなのだ。「ぼく」はそういうことは少し気になる。妻の方はもっと気になる。そしてなんとかしようとする。その姿が小笠原には見える。
そのときの「妻の方がもっと」という感じが小笠原の「肉体」のなかにあるので、妻が先、それから「ぼく」という意識が働き、「も」になるのだ。妻は氷塊を気にする。そして、ぼく「も」。
なんでもないことのようだけれど、ここに「生前の暮らし」がある。いっしょに生きていたときの「時間」の濃密なあたたかさがある。
「ぼく」が少ししか気にかけないことでも、つまはとても気にしてあれこれ気を配っていた。だから、眠ってしまう「ぼく」のかわりに、わざわざ妻が帰ってきたのだ。小笠原は、妻を愛しているが、その愛は、同時に妻からも帰ってくる。夫のことを愛しているから、死んでしまったのに「いま/ここ」へ帰ってきて、「ぼく」のために体を動かしている。
これは、気持ちのなかだけで起きること。だから、「ぼく」がそのことに気づけば、妻の仕事は終わった。消えていく。「私はいつもこんなふうに気を配っていたのよ、ひとりになったらつらいかもしれないけれど、私のしたぶんまで気を配ってね」と言い聞かせているようだ。その声を小笠原は聞いたのだと思う。
生きているときは、そんなことを言われたら「ぼくだって(も)気を配っているさ」と反論したかもしれない。でも、いまは反論しない。「ぼくも気づいていた」んだけれど、と小さくつぶやいている。
「も」の呼吸(声に出すときの力加減)がきっと違うね。
そういうことを感じさせる詩である。
*
尾花仙朔「秋扇霊異鈔」は、タイトルからわかるようになんだか古めかしい。現代という感じはしない。
で、内容もやっぱり古めかしい。ムジナが女に化けるなんて、ね。で、非現実的なのだけれど、
秋の扇の絵姿の
これは? やっぱり非現実的? そうでもないね。
つまり、最初の3行は、現実のムジナを描いたのか、それとも扇に描かれたムジナを描写しているのか--わからない。どっちともとれる。その「中立性(?)」のなかへことばが動いていく。そうか、「古めかしい」世界も、こんなふうに「中立性」を獲得すると、それが詩になるのだな。どっちへ進むか、それは「読者」しだい。作者にも意図はあるだろうけれど、その意図通りに読む必要はないだろう。その自分勝手に動いていこうとすることばと尾花のことばが拮抗する。勝手に読者があれこれ思わないように、ぐいとことばのリズムを整える。そのことばの落ち着きがおもしろい。
小笠原茂介「吹雪」は死んだ妻のことを(妻のまぼろし)を書いている。
眠れずにいたが
気づくと窓がしずかになっている
吹雪が止んだようだ
ベッドをでてカーテンの隙間から見おろすと
まだ未明
薄明かりの雪道より白く
なにかが うごめいている
眼を凝らすと朝子だった
夕方ぼくが道に落とした生垣の天辺の氷塊を
素手で 必死に
また乗せあげようとし
そのたびに雪の急な傾斜をともに転げ落ちる
あきらかに朝子には無理
氷塊はたくさんあるのに
まだひとつも戻されていない
---もう止めたら 風邪を引くよ
あたりは寝静まっているので
低声でも まっすぐに声はとどく
---だって さっき隣の奥さんの車が帰ってきて
ここでつかえていたわ
それはぼくも気にしていた
だから眠れずにいた
なにもいえず茫然としていると
また激しさをました吹雪のなかに
朝子は消えた
「それはぼくも気にしていた」の「も」がいいなあ。
妻は死んでしまっているので、「さっき隣の奥さんの車が帰ってきて/ここでつかえていた」ということは知らない。知っているのは「ぼく」だけである。
でも。
そういことがあったら、妻は、それをとても気にする。自分の家の氷塊が道をふさぎ、となりのひとが家に帰るのに苦労している。自分の家の氷塊(といっても、それは自然現象なのだけれど)が原因というのは、自分が原因ということと同じなのだ。「ぼく」はそういうことは少し気になる。妻の方はもっと気になる。そしてなんとかしようとする。その姿が小笠原には見える。
そのときの「妻の方がもっと」という感じが小笠原の「肉体」のなかにあるので、妻が先、それから「ぼく」という意識が働き、「も」になるのだ。妻は氷塊を気にする。そして、ぼく「も」。
なんでもないことのようだけれど、ここに「生前の暮らし」がある。いっしょに生きていたときの「時間」の濃密なあたたかさがある。
「ぼく」が少ししか気にかけないことでも、つまはとても気にしてあれこれ気を配っていた。だから、眠ってしまう「ぼく」のかわりに、わざわざ妻が帰ってきたのだ。小笠原は、妻を愛しているが、その愛は、同時に妻からも帰ってくる。夫のことを愛しているから、死んでしまったのに「いま/ここ」へ帰ってきて、「ぼく」のために体を動かしている。
これは、気持ちのなかだけで起きること。だから、「ぼく」がそのことに気づけば、妻の仕事は終わった。消えていく。「私はいつもこんなふうに気を配っていたのよ、ひとりになったらつらいかもしれないけれど、私のしたぶんまで気を配ってね」と言い聞かせているようだ。その声を小笠原は聞いたのだと思う。
生きているときは、そんなことを言われたら「ぼくだって(も)気を配っているさ」と反論したかもしれない。でも、いまは反論しない。「ぼくも気づいていた」んだけれど、と小さくつぶやいている。
「も」の呼吸(声に出すときの力加減)がきっと違うね。
そういうことを感じさせる詩である。
*
尾花仙朔「秋扇霊異鈔」は、タイトルからわかるようになんだか古めかしい。現代という感じはしない。
秋の貌を見たよ
秋の霊が女人(にょにん)の姿に化身して
彼のの原にひとりひっそり佇っている
秋の扇の絵姿の
どこか侘しく憂い気な
けれど気品の備った
かすかに頸傾けた秋の貌
眸の奥は碧(あお)く澄んだ湖(うみ)の色
で、内容もやっぱり古めかしい。ムジナが女に化けるなんて、ね。で、非現実的なのだけれど、
秋の扇の絵姿の
これは? やっぱり非現実的? そうでもないね。
つまり、最初の3行は、現実のムジナを描いたのか、それとも扇に描かれたムジナを描写しているのか--わからない。どっちともとれる。その「中立性(?)」のなかへことばが動いていく。そうか、「古めかしい」世界も、こんなふうに「中立性」を獲得すると、それが詩になるのだな。どっちへ進むか、それは「読者」しだい。作者にも意図はあるだろうけれど、その意図通りに読む必要はないだろう。その自分勝手に動いていこうとすることばと尾花のことばが拮抗する。勝手に読者があれこれ思わないように、ぐいとことばのリズムを整える。そのことばの落ち着きがおもしろい。
地中海の月 | |
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