浦歌無子『イバラ交』(2)(思潮社、2013年10月07日発行)
きのう「さけめについて書いた。書きながら、どうも私はまちがったことを書いているという感じが「肉体」のなかに残りつづけた。「裂け目」というと「切断」だけれど、浦の書く「裂け目」は「切断」ではない。むしろ「接続」である。「切断」と「接続」が区切りなくつづいている。
あ、変な言い方だね。
「雨遣いのRの話」のなかほど。
少し無意味な長い引用になったような気がするが……。「無意味な」というのは、私が書きたいことは引用したあとの部分であって、その前の部分はあまり関係ないのだが、という意味である。それなのになぜ引用したかというと。
今回の裏の詩集の詩は、どの詩も不思議な「長さ」をもっている。だらだらと長いのである。ずるずるとつづいている感じがするのである。「裂け目」どころが、「裂け目」がないまま、いったいなぜこんな具合にずるずるとつながるのかというくらいにつながっていく。「ハサミ」が何回か出てくるが、そのハサミはこの詩に書いてあるようにぜんぜん切れない。切れないならハサミを書いてもしようがないのに、そのハサミが出てくるように、ことばが「無意味」につながっていく。
で、その「ずるずるとした連続(接続)」がつづいて行って、引用した「あなたの腕が」「かつてわたしの耳があったところをさわる」につながる。
この瞬間、
と「接続」のことばがそこに動いているにもかかわらず、私の「肉体」は「裂け目」に触ってしまう。
耳のあったところ、とは、「耳のないところ」である。「不在」あるいは「非・在」、どういっていいかわからないが、ないものに触る。
--ないものには、触れない。けれど、それは「肉体」にとってそうなのではなくて、「精神(意識)」にとってそうなのである。
むちゃくちゃというか、矛盾というか、非論理的なことを書いてしまっているようだが、実際に、非在(不在)に触るのは、意識ではなく、本物の手である。手で触って、そこにあるべきものがない(非在)を「肉体」で確かめるのである。
接続(触る)だけが、「裂け目」(非在)に触ることができる。
触って確かめたことを、「意識」にする。つまり「おぼえる」。
それは逆の言い方をした方がわかりやすいのかも。
「肉体」は「おぼえている」ことを「思い出す」。
「かつて私の耳があったところ」というのは、意識(精神)がおぼえているのではない。それはあくまで「肉体」がおぼえていることである。で、「肉体」はいつでもおぼえているので、そのことに対して「意識(精神)」が「違和感」をおぼえ、その「連続」に「裂け目」を持ち込む。
でも、それは「裂け目」を見せるのではなく、「あったはずだ」の「はずだ」が語るように、「確認」である。
うーん、うまく言えない。
私が言いたいのは、その「確認(はずだ)」こそが「裂け目」を浮かび上がらせる「接続」であるということ。
非在(不在)を非在(不在)としてことばで証明するとき、意識は接続し(つまり連続した「物語」として成立し)、その「物語」が「裂け目」を浮かび上がらせる。
あ、変だね。ことばのどこかが、何かが乱れているね。
強引に整えてもしようがないので、そのまま書き残しておくしかないのだが、この非在(不在)とそれを浮かび上がらせることばの運動、そのときによみがえる何か(思い出される何か/肉体がおぼえていること)が「生々しい」とき、私は、それを詩と呼ぶ。そこに詩を感じる。
そこでは「主客」が入り乱れる。「主客」が一体になる。
というのは「あなた」だが、「あなた」が「わたしの肉体」(耳の内側)で起きていることをどうして「わかる」のか。そんなことはありえない、はずである。
と、いいたいけれど。
そうではなくて、ありうるのだ。
ひとが道に倒れて呻いていたら、あ、このひとは腹が痛いのだと「わかる」ように、ひとは他人のことが「わかる」のである。他人に容易に自分の「肉体」を重ねて、自己同一化してしまう。一体になってしまう。
それが腹の痛みであろうと、「耳の内側に響く雨音」であろうと、同じなのだ。
そして、こういう「肉体の一体化」を呼び起こすことが可能な場合、それを「知っている」という。
「肉体」は何事かを「おぼえる」。そして、それを「思い出す」。「思い出す」ことができたとき、思い出し、再現できたとき、それを「知っている」という。「肉体」でおぼえたことは、忘れない。知っている、は使える(思い出すことができる)ということである。
このとき「おぼえている-思い出す-知っている(つかう)」は連続するのだが、その連続が、矛盾した言い方になるが「裂け目」を強烈に浮かび上がらせる。
「おぼえている-思い出す-知っている(つかう)」が運動として成立するのは、その運動を必要とする「切断」があるからなのだ。「切断」があるから、「おぼえている-思い出す-知っている(つかう)」という接続によって、その「裂け目」をわたるのだ。
あ、ごちゃごちゃしてきたなあ。
区別して書こうとすると、とてもめんどうだなあ。
というのが、まあ、思想(肉体)の基本的なあり方なんだろうなあ。
このごちゃごちゃにつきあえるなら、浦の詩が好きになれる。
ごちゃごちゃ、ながながと書いているのは、私が浦の詩が好き、ということなのだ。
きのう「さけめについて書いた。書きながら、どうも私はまちがったことを書いているという感じが「肉体」のなかに残りつづけた。「裂け目」というと「切断」だけれど、浦の書く「裂け目」は「切断」ではない。むしろ「接続」である。「切断」と「接続」が区切りなくつづいている。
あ、変な言い方だね。
「雨遣いのRの話」のなかほど。
無数の白い糸をずるずるひきずる指で
Rがわたしの手のひらに文字を書く
「もう僕の糸は雨にはならない」
糸はいくらでも吐きだされ
あなたの指はしらみつく糸にきりきり引っ張られひきつっている
雲のはずのあなたが蜘蛛の巣に捕らえられた虫みたいになっちゃうなんて
そんなのおかしすぎるわってほんとは笑ってしまいたかった
糸はもつれあいながらみるみるうちにあなたを包み込んでゆく
わたしは糸を切ろうとするけれど
わたしの持っているハサミではどうしてもその糸は切れない
絡みついた糸の透き間からあなたの腕が伸びてきて
かつてわたしの耳があったところを触る
わずかにあなたの指の体温が伝わってくる
「ここはうちがわでずっと雨の音が響いているような耳があったはずだ」
あなたはなくした耳のことを知っている
少し無意味な長い引用になったような気がするが……。「無意味な」というのは、私が書きたいことは引用したあとの部分であって、その前の部分はあまり関係ないのだが、という意味である。それなのになぜ引用したかというと。
今回の裏の詩集の詩は、どの詩も不思議な「長さ」をもっている。だらだらと長いのである。ずるずるとつづいている感じがするのである。「裂け目」どころが、「裂け目」がないまま、いったいなぜこんな具合にずるずるとつながるのかというくらいにつながっていく。「ハサミ」が何回か出てくるが、そのハサミはこの詩に書いてあるようにぜんぜん切れない。切れないならハサミを書いてもしようがないのに、そのハサミが出てくるように、ことばが「無意味」につながっていく。
で、その「ずるずるとした連続(接続)」がつづいて行って、引用した「あなたの腕が」「かつてわたしの耳があったところをさわる」につながる。
この瞬間、
触る
と「接続」のことばがそこに動いているにもかかわらず、私の「肉体」は「裂け目」に触ってしまう。
耳のあったところ、とは、「耳のないところ」である。「不在」あるいは「非・在」、どういっていいかわからないが、ないものに触る。
--ないものには、触れない。けれど、それは「肉体」にとってそうなのではなくて、「精神(意識)」にとってそうなのである。
むちゃくちゃというか、矛盾というか、非論理的なことを書いてしまっているようだが、実際に、非在(不在)に触るのは、意識ではなく、本物の手である。手で触って、そこにあるべきものがない(非在)を「肉体」で確かめるのである。
接続(触る)だけが、「裂け目」(非在)に触ることができる。
触って確かめたことを、「意識」にする。つまり「おぼえる」。
それは逆の言い方をした方がわかりやすいのかも。
「肉体」は「おぼえている」ことを「思い出す」。
「かつて私の耳があったところ」というのは、意識(精神)がおぼえているのではない。それはあくまで「肉体」がおぼえていることである。で、「肉体」はいつでもおぼえているので、そのことに対して「意識(精神)」が「違和感」をおぼえ、その「連続」に「裂け目」を持ち込む。
「ここはうちがわでずっと雨の音が響いているような耳があったはずだ」
でも、それは「裂け目」を見せるのではなく、「あったはずだ」の「はずだ」が語るように、「確認」である。
うーん、うまく言えない。
私が言いたいのは、その「確認(はずだ)」こそが「裂け目」を浮かび上がらせる「接続」であるということ。
非在(不在)を非在(不在)としてことばで証明するとき、意識は接続し(つまり連続した「物語」として成立し)、その「物語」が「裂け目」を浮かび上がらせる。
あ、変だね。ことばのどこかが、何かが乱れているね。
強引に整えてもしようがないので、そのまま書き残しておくしかないのだが、この非在(不在)とそれを浮かび上がらせることばの運動、そのときによみがえる何か(思い出される何か/肉体がおぼえていること)が「生々しい」とき、私は、それを詩と呼ぶ。そこに詩を感じる。
そこでは「主客」が入り乱れる。「主客」が一体になる。
「ここはうちがわでずっと雨の音が響いているような耳があったはずだ」
というのは「あなた」だが、「あなた」が「わたしの肉体」(耳の内側)で起きていることをどうして「わかる」のか。そんなことはありえない、はずである。
と、いいたいけれど。
そうではなくて、ありうるのだ。
ひとが道に倒れて呻いていたら、あ、このひとは腹が痛いのだと「わかる」ように、ひとは他人のことが「わかる」のである。他人に容易に自分の「肉体」を重ねて、自己同一化してしまう。一体になってしまう。
それが腹の痛みであろうと、「耳の内側に響く雨音」であろうと、同じなのだ。
そして、こういう「肉体の一体化」を呼び起こすことが可能な場合、それを「知っている」という。
「肉体」は何事かを「おぼえる」。そして、それを「思い出す」。「思い出す」ことができたとき、思い出し、再現できたとき、それを「知っている」という。「肉体」でおぼえたことは、忘れない。知っている、は使える(思い出すことができる)ということである。
このとき「おぼえている-思い出す-知っている(つかう)」は連続するのだが、その連続が、矛盾した言い方になるが「裂け目」を強烈に浮かび上がらせる。
「おぼえている-思い出す-知っている(つかう)」が運動として成立するのは、その運動を必要とする「切断」があるからなのだ。「切断」があるから、「おぼえている-思い出す-知っている(つかう)」という接続によって、その「裂け目」をわたるのだ。
あ、ごちゃごちゃしてきたなあ。
区別して書こうとすると、とてもめんどうだなあ。
というのが、まあ、思想(肉体)の基本的なあり方なんだろうなあ。
このごちゃごちゃにつきあえるなら、浦の詩が好きになれる。
ごちゃごちゃ、ながながと書いているのは、私が浦の詩が好き、ということなのだ。
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