川島洋『青の成分』(2)(花神社、2013年10月25日発行)
川島洋『青の成分』の終わりの方に「さがす」(96ページ)がある。それを読んで、思い出した。コロッケの詩人だ。この詩の感想を書いた記憶がある。夕暮れ、友達と別れてから精肉店でコロッケを買う。
この「お腹の底に大きな甘い穴」がいいなあ。肉体がそのまま。川島は川島の体験を書いているのだが、まるで自分の体験を思い出すよう。私の肉体はコロッケの甘い味をおぼえている。それが空腹の胃の中に落ちる。胃が「甘い」と感じるわけではないのだが、ねえ、感じるよね。(変な言い方しかできないが……。)口の中にひろがる「甘さ」が体中にひろがる。胃だって「甘く」感じる。胃に「穴」があいたら大変だけれど、その「甘さ」の塊が、「穴」になって体中を吸収する。
甘さが体中に広がる--と書いたのに、甘さの穴に体中が吸い込まれる、と書いてしまう。矛盾しているけれど、その矛盾のなかに「ほんとう」がある。「穴」、「甘い穴」しかない。体が消える。体が消えたら穴も消えるはずなんだけれど、穴だけが残る感じ。
前回、この部分に触れたかどうかわからない。「甘い穴」に夢中になりすぎて読み落としていたかもしれない。2回目なので、ちょっと落ち着いて読むことができる。そして、気づいた。
「仕方がない」「実感だから」--これが、川島の「声」である。実感は仕方がない。嘘をつけない。この嘘をつけない「声」がいいんだなあ。正直がいいんだなあ。好きになってしまうなあ。
で、その正直のまわりに、別の「声」もある。というのは、少し奇妙な言い方になるが。
これは鍵括弧の中に入っていないけれど、おばさんの「声」。「ことば」でも「意味」でもないよ。おばさんが、少年の川島にかけた「声」。あ、昔は、「意味」を超えてひとがひとに声をかけた。その声のなかで、声が育っていく。
思いついたまま、声が出る。それは「意味」ではない。もちろん意味ないんだけれど、意味じゃなくて「よろこび」。コロッケ一個をこんなふうに「声」にできる。肉体の中から「ことば」ではなく「声」がわいてくる。あふれてくる。ことばをつなげれば「意味」になるけれど、描写になるけれど、関係ないね。
それは、おばさんの「はい 男爵一個 熱いよ!」に対する返事なのだ。声に出さないけれど、返事。会話。おしゃべり。声に出さないけれど、きっと聞こえている。毎日、同じことばだけれど聞こえる。だから、毎日同じことばをくり返す「はい 男爵一個 熱いよ!」
同じことしか言えない。仕方がない。それが実感だから。それが生活だから。くり返すことで、どんどん正直になっていく。正直が積み重なって、それが「真実」になっていく。「幸福」になっていく。
口には出されないけれど、「声」になってしまうものがある。「ロバ」。これは10ページ、最初の方の詩。ほんとうは、きょうはこの詩から書きはじめるつもりだったのだが、詩集の残りを読んだら、コロッケから書きたくなってしまった。--で、行きつ、もどりつ、「ロバ」。
これは、しんみりした声だね。サラリーマンの悲哀を感じる。思わず、ロバに自分の姿を重ね合わせて、サラリーマンの悲哀なんて書いてしまうのだけれど--肉体がおぼえている何かが引き出される。
「もっと強く引っぱって下さい」というような「声」を聞いたことを「肉体」がおぼえている。それは「状況」が違うのだけれど、そのときの「声」の調子。何かを命じられたときの声の響き。言う方も仕方がないのかもしれないけれど、聞く方も仕方がないね。そして、「これくらいか/これでいいのか」。あ、これはロバに言っているのではないね。自分に言っている。自分の肉体に言っている。ロバと自分が一体になっている。
コロッケ屋のおばさんと「一体」になったような幸福はないけれど、ここにも正直があるね。無理をしない正直。仕方がないという正直。「仕方がない」から、しみじみ。
「仕方がない」は「頭」でおぼえるのではなく、「肉体」でおぼえる何かだなあ、と思い出す。「肉体」の抵抗感--ロバを引っぱって動かすときの、なんというか、ある区切りを少しだけ超える感じ。それ以下でも、それ以上でもダメ。これは、ことばではなく、「肉体のコツ」だね。
そういうものの積み重ねが川島の「声」のなかにあるなあ。
(あすも、もう少し書くかも……。)
川島洋『青の成分』の終わりの方に「さがす」(96ページ)がある。それを読んで、思い出した。コロッケの詩人だ。この詩の感想を書いた記憶がある。夕暮れ、友達と別れてから精肉店でコロッケを買う。
白い割烹着のおばさんがいる
十円玉三枚
それが一個のコロッケにふくらんで
紙袋にひょいと入れられる
はい 男爵一個 熱いよ!
手をのばして受け取る僕
紙袋から手のひらに伝わってくるあったかさ
コロッケだ 揚げたての ほかほかの
こんがり かりかり 茶色のコロモの
それをひと口かじるとき
お腹の底に大きな甘い穴
この「お腹の底に大きな甘い穴」がいいなあ。肉体がそのまま。川島は川島の体験を書いているのだが、まるで自分の体験を思い出すよう。私の肉体はコロッケの甘い味をおぼえている。それが空腹の胃の中に落ちる。胃が「甘い」と感じるわけではないのだが、ねえ、感じるよね。(変な言い方しかできないが……。)口の中にひろがる「甘さ」が体中にひろがる。胃だって「甘く」感じる。胃に「穴」があいたら大変だけれど、その「甘さ」の塊が、「穴」になって体中を吸収する。
甘さが体中に広がる--と書いたのに、甘さの穴に体中が吸い込まれる、と書いてしまう。矛盾しているけれど、その矛盾のなかに「ほんとう」がある。「穴」、「甘い穴」しかない。体が消える。体が消えたら穴も消えるはずなんだけれど、穴だけが残る感じ。
空腹にコロッケ
それが幸福だなんて
なんだか こっけい
でも仕方がないのだ 実感だから
前回、この部分に触れたかどうかわからない。「甘い穴」に夢中になりすぎて読み落としていたかもしれない。2回目なので、ちょっと落ち着いて読むことができる。そして、気づいた。
「仕方がない」「実感だから」--これが、川島の「声」である。実感は仕方がない。嘘をつけない。この嘘をつけない「声」がいいんだなあ。正直がいいんだなあ。好きになってしまうなあ。
で、その正直のまわりに、別の「声」もある。というのは、少し奇妙な言い方になるが。
はい 男爵一個 熱いよ!
これは鍵括弧の中に入っていないけれど、おばさんの「声」。「ことば」でも「意味」でもないよ。おばさんが、少年の川島にかけた「声」。あ、昔は、「意味」を超えてひとがひとに声をかけた。その声のなかで、声が育っていく。
コロッケだ 揚げたての ほかほかの
こんがり かりかり 茶色のコロモの
思いついたまま、声が出る。それは「意味」ではない。もちろん意味ないんだけれど、意味じゃなくて「よろこび」。コロッケ一個をこんなふうに「声」にできる。肉体の中から「ことば」ではなく「声」がわいてくる。あふれてくる。ことばをつなげれば「意味」になるけれど、描写になるけれど、関係ないね。
それは、おばさんの「はい 男爵一個 熱いよ!」に対する返事なのだ。声に出さないけれど、返事。会話。おしゃべり。声に出さないけれど、きっと聞こえている。毎日、同じことばだけれど聞こえる。だから、毎日同じことばをくり返す「はい 男爵一個 熱いよ!」
同じことしか言えない。仕方がない。それが実感だから。それが生活だから。くり返すことで、どんどん正直になっていく。正直が積み重なって、それが「真実」になっていく。「幸福」になっていく。
口には出されないけれど、「声」になってしまうものがある。「ロバ」。これは10ページ、最初の方の詩。ほんとうは、きょうはこの詩から書きはじめるつもりだったのだが、詩集の残りを読んだら、コロッケから書きたくなってしまった。--で、行きつ、もどりつ、「ロバ」。
ロバの背に子供をのぼらせて
手綱を引いた
すぐにロバは立ち止まった
もっと強く引っぱって下さい と
係のひとが言う
ロバをとぼとぼあるかせるための
強い力とは これくらいか
これでいいのか ロバよ
これは、しんみりした声だね。サラリーマンの悲哀を感じる。思わず、ロバに自分の姿を重ね合わせて、サラリーマンの悲哀なんて書いてしまうのだけれど--肉体がおぼえている何かが引き出される。
「もっと強く引っぱって下さい」というような「声」を聞いたことを「肉体」がおぼえている。それは「状況」が違うのだけれど、そのときの「声」の調子。何かを命じられたときの声の響き。言う方も仕方がないのかもしれないけれど、聞く方も仕方がないね。そして、「これくらいか/これでいいのか」。あ、これはロバに言っているのではないね。自分に言っている。自分の肉体に言っている。ロバと自分が一体になっている。
コロッケ屋のおばさんと「一体」になったような幸福はないけれど、ここにも正直があるね。無理をしない正直。仕方がないという正直。「仕方がない」から、しみじみ。
「仕方がない」は「頭」でおぼえるのではなく、「肉体」でおぼえる何かだなあ、と思い出す。「肉体」の抵抗感--ロバを引っぱって動かすときの、なんというか、ある区切りを少しだけ超える感じ。それ以下でも、それ以上でもダメ。これは、ことばではなく、「肉体のコツ」だね。
そういうものの積み重ねが川島の「声」のなかにあるなあ。
(あすも、もう少し書くかも……。)
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