詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

テーブルの上に--飯島耕一氏死去を新聞で読んだ日に

2013-10-23 20:34:15 | 
テーブルの上に--飯島耕一氏死去を新聞で読んだ日に


テーブルの上にコーヒーカップが二つ。
ショパンのピアノ曲が終わったとき、
一つには黒い水たまりが残っていてカップの縁を映している、
三日月の形に白が揺れる。
一つは干上がった底に薄焦げ茶の輪郭がはりついている。
二人だけの暮らしにもこんな違いがあるのだと知る秋

--ということばを定型詩にするにはどうすればいいだろう。

窓を開けると雨が止んだあとの空気が入ってきて
(空気を修飾することばは見つからなくて
からだのどこかが冷えていく気がした。
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ミゲル・ゴメス監督「熱波」(★★★★★)

2013-10-23 10:59:30 | 映画
ミゲル・ゴメス監督「熱波」(★★★★★)

監督 ミゲル・ゴメス 出演 テレーザ・マドルーガ、ラウラ・ソベラル、アナ・モレイラ、カルロト・コタ

 映画がはじまって数分後だろうか、不思議な映像があらわれる。老女がカジノで金を使い果たし、帰れなくなる。それを隣人の女性が迎えにゆく。「だめじゃないの」とかなんとかたしなめるのだが、それに対して老女が「夢のお告げがあった」と反論する。そのときの映像。
 テーブルに座っている。正面を向いて、老女はたんたんと語る。その背後。画面が固定しない。ぐるーっと回る。まるで老女の座っているテーブルが丸い回転床の上にある感じ。回転式展望レストランのような感じ。ほんとうは床は回っていないのだが、そういう具合に撮っている。ただし、この背景はくっきりとは見えず、ぼんやりと焦点がぼけていて、ほんとうに映し出されるのは老女の顔だけ。
 うーん、
 老女と現実がうまくかみあっていないのだが、では、どんな具合にかみあっていないのかと説明しようとするとむずかしい。「いま/ここ」に老女はいる。けれども、彼女は「いま/ここ」を生きていない。彼女が生きている「いま/ここ」と老女を迎えにきか女性の「いま/ここ」は違うのだ。
 その違いを、この不思議な映像がとらえている。
 老女を迎えに来た女性は老女話をじーっと聞いている(ふりをしている?)。カメラが正面からとらえる老女の姿が女性の視線が老女に向いていることを明確に語る。同時に、別の目で女性はカジノ全体をみまわしている。それが背景になってゆっくり動く。
 あ、私は、どっちを見たんだろうか……。
 夢のお告げを真剣に語る老女の「こころ(精神)」を見たんだろうか。それとも、「こんな与太話なんかして……」と思いながら、カジノをぼんやり見渡してしまう女性のこころを見たんだろうか。焦点は老女の顔にぴったりあっているのだが、私の意識はゆっくりまわる背景に奪われている。
 かみあわない。
 かみあわないものが、「いま/ここ」にある。かみあわないことが「いま/ここ」のすべてであるのかもしれない。
 というようなことが、その後も、たとえば隣の女性と、同僚の男性、あるいは隣の女性と老女のメイド(あるいは老女の娘)とのあいだで起きる。それを、どんな「解決」ものなしに、カメラはたんたんと映している。たんたんと--と書いたあとで、私は実は迷っている。あ、違うと感じている。映像があまりにも「がっちり」している。ゆるがない。たたいても壊れない。まるでオリベイラ監督の映像のようである。(ポルトガル映画の特徴かもしれない。がっしりとカメラは固定されていて、それに向かって役者が自分をむき出しにしてゆく--カメラは役者が闘っている。)
 で、そういうことが「第一部」で「第二部」は老女の思い出が語られる。これが、また実に不思議である。老女にはむかし、燃える恋があった。燃える恋だから、まあ、簡単に言うと不倫である。それをこの映画は役者の台詞なしで展開する。台詞がないのだけれどナレーションがある。ただし、そのナレーションは女性の声ではない。男の声である。老女の昔の恋なのに、それを語っているのは女性のはずなのに、声は男。
 カジノの老女の独白(?)のように、なにかがずれている。どちらが「ほんもの」なのか、よくわからない。どちらも「ほんもの」には違いないのだが、「ほんもの」なら、それが直接、まるごと観客(私)にぶつかってきてもいいのに、ぐい、と引き止められる。映画と私のあいだに信じられない「裂け目」がある。
 で、「裂け目」があることが、一方で、激しく私の意識を揺さぶる。「裂け目」によって気づくものがある。
 あ、これは存在しないのだ。
 これは、というのは、たとえばカジノで独白する老女の語っていることがら、たとえば激しく燃えた昔の恋。それは老女のなかにさえ存在しないのかもしれない。ただ語るということがあるだけなのだ。思い出そうとしても語れない。語ったところで、それが「いま/ここ」に存在してくれるわけではない。カジノで勝利するという夢のお告げが現実にならなかったように、過去の恋はどれだけ語っても現実には「存在」としてあらわれない。でも、その現実には存在しないもの(いま/ここに存在しないもの)が人間を動かすのである。
 この矛盾というか、この「裂け目」にはびっくりするなあ。
 まるで、悪夢である。

 まだ、私のことばにはならないのだが、そういうものがこの映画に動いている。しかも、その映画はモノクロである。現実には存在しない色。しかし、その現実には存在しない色が、現実のカラーの色よりもなまなましく肉体にせまってくる。輝かしく肉体の内部に入り込んでくる。
 「第二部」の男のナレーションにも同じような効果がある。女の思い出なのに、その思い出のなかから「女」が消えて、逆に、なまなましい「肉体」そのものが噴出してくる感じ。男の声を突き破って、「いのち」そのものの肉体が発火して動く感じ。
 あ、このことから書きはじめればよかったのかなあ。

 うーん。
 「塀の中のジュリアス・シーザー」「パルヴィス」「熱波」の3本が、私の今年のベスト3だな、と思うのだった。順序は、そのときそのときで変わるだろうけれど、見逃してはならない3本だね。
                      (2013年10月20日、KBCシネマ1)

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