詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小柳玲子『簡易アパート』

2013-10-04 10:43:49 | 詩集
小柳玲子『簡易アパート』(花神社、2013年09月22日発行)

 小柳玲子『簡易アパート』の「ヘイ叔父」のなかに、次の行が出てくる。

遠くて見えないものがたくさんある
遠くなったのでよく見えるものも

 それを次のように言い換えると、この詩集の全体が浮かんでくる。

死んでしまって見えないもの(会えないひと)がたくさんいる
死んでしまったので見えること(会えるひと)がたくさんいる

 死んでしまったひとには、もちろん直接会えないけれど、記憶のなかで会うのである。死んでしまったひとを思い出す。そして、その思い出したことは直接あっていたときの感じよりも鮮明である。はっきりしないのに、はっきりしないがゆえに、ほんとうに必要な部分だけがくっきりと浮かび上がってくる。その浮かび上がってきたものは、他人からみれば何でもないようなことである。
 先の「ヘイ叔父」の詩のつづきはこんな具合。

時にあって おばあ様の手もそれである
肉付きが薄い 小さな手
一族の遺伝らしい

 「おばあ様の手」が小さい。そして、その家系の手はやはり小さい。でも、それで? いや、それだけ。問われると答えられないことのなかに、全てがある。問われて答えられることのなかには、問われて答えることができるものしかない、と逆に言ってみると、ここ耐えられなものの重要性がわかる。おばあ様の手は「肉付きが薄い 小さな手」と聞いて何もわからないひとには何を説明してもわからないし、わかるひとには説明しなくてもわかる。そして、このときの「わかる」というのは、「肉体」でわかるのである。「ことば」を介さずに「わかる」のである。「暮らし」のなかで消化されて、「肉体」になってしまっている感覚。--これは説明ができない(できるかもしれないけれど、むずかしい)し、説明をしなくてもいいものである。「肉体」を共有しないひとにはどうでもいいことなのだから。
 このへんなところ、微妙なところを動くのが小柳の詩である。
 そこに書いてあることの具体は、「他人」である私にはわからないものもある。けれどわかることもある。私が「肉体」でおぼえていることが、小柳のことばに重なるのである。ことばの「肉体」がそこで出会い、私の「肉体」のなかに小柳の「肉体」を運んできてくれる。
 「簡易宿泊施設」という作品。「解説」してしまうと、それは病院。そこには小柳の知り合いが入院していて、死ぬことを待っている。そして、小柳が見舞いにゆくと、そのひとは生きているが、入院しているとは知らなかった別の知人が先に死んでしまった、ということを知らされたりする。そのとき、変なものを見たりもする。

三階あたりで 空っぽ 開けっぱなしの部屋を見かけた
「そこはオオノさんの部屋ですよ
昨日お発ちになりました」と通りがかりの人に言われる
オオノさんて誰だったか 懐かしい名前なのに
さだかには思い出せない
簡易な炊事場の桶に箸が二本浮かんでいた 寂しかった
荒い忘れて 置いていってしまったのだろうか

 人が死んだあとの、空っぽの病室--見たことがある。そして、病院の流し場で、洗ったのか、荒い忘れたのかわからないけれど、そこに箸が浮いていたり、食器が沈んでいたりするのを見たこともある。それは直接関係がないかもしれないけれど、肉体のなかに「寂しい」という感覚といっしょに残っている。それを私は「おぼえている」。そのことを、私は小柳の「ことば」をとおして思い出す。そのとき、その「思い出す」という運動は小柳のものか、あるいは私のものかわからない。--こういう一体感を私はことばのセックスというのだけれど。ことばが交錯しながら、実は「ことば」によって引き出された「肉体」がふれあっている。
 「オオノさん」が誰か、そしてその病院がどこかわからないけれど、そこに起きている「こと」はわかる。「こと」を「肉体」がおぼえているということ--起きていることを思い出すことができとるということ、その交錯が詩の瞬間なのだ。

ずいぶん上った処で あなたが出てきた
「よかった もう発とうと思っていた」とあなたは言った
「だって三日くらいは泊まっていると言うから」
「なに言っているの もう一年以上待ったわよ」
あなたはなんだかとても幼くなって 給食袋を提げているのだった
永いお別れのための御餞別を探していると
「ここはなんにも要らないの」とあなたは言った
--匙かお箸が一つあれば
  ごはんを食べる時 手ではちょっと熱いから
「さっき下で箸が水に浮かんでいたけど」
「大野新さんの部屋よ」とあなたは言った
--あなたがなかなか来ないから
  わたしが後になってしまったじゃない

 箸、ご飯を食べる--そうやって生きる。死んでしまった人の箸は、だれもつかう人がいなくて寂しくたらいのなかに浮いている。そういうことを私はその通りに見たことはないけれど、たとえば葬儀の会食の後、洗い物が流しに置いてある。水が流れている。箸が浮いている。それは父の箸だったり、母の箸だったりする。そういうことを私の肉体はおぼえている。そのときの流しの風景、窓から入ってくる光の具合を、どう書いていいかわからないけれど(克明に書くことができたら私小説になるのだろう)、おぼえている。そのことばにならない「おぼえている」が小柳のことばによって動く。
 私の肉体のなかで動いているものは、小柳の肉体のなかで動いているものと同一ではないが、似ている。「一族の遺伝」ではなく、「人間の遺伝」のように動いていることを感じる。
 さらに。
 そのときの会話は、そのときは何気なくかわしてしまった会話である。「えっ、大野新さんはしんでしまったの?」「そうよ、わたしの方が先だと思っていたのにねえ」というような会話は、かわしている時は、一種の軽みがあって、哀しみをわすれるための笑い話のようでもあるけれど。その対話の相手が死んでしまうと、その会話のなかから、ふっと、そのひとの「人柄」のようなものが浮かんでくる。
 死んでゆくのはどんなに心細いだろう。会いたい人が何人いるだろう。その人たちとちゃんと全員に会えただろうか。小柳が見舞った客(松尾直美)の気持ちはわからないが、松尾がそのときも小柳のことを思い、軽い調子で話した--その「軽さ」にこめた人柄が「わかる」。
 その人柄は、松尾が生きていた時も感じたものだろうけれど、死んでしまうと、より強くそれを感じる。死んでしまうことで、より鮮明に実感できる。「肉体」のなかで感じることができる。おぼえているのだ。おぼえていることを、思い出すのだ。

 この詩集は肉体がおぼえていることを繰り返し思い出す--その静かな詩で構成されている。静かな哀しみの、そしてそういう具合に交流できることの静謐な喜びの詩である。追悼の詩を「喜び」というのは変かもしれないが、思い出すことができる、おぼえていることがあるというのは、やはり喜びである。





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