安水稔和『記憶の目印』(編集工房ノア、2013年10月31日発行)
安水稔和『記憶の目印』の前半に、ひらがなで書かれた短い詩がある。「九階南病棟」というタイトルでまとめられているので入院生活をかいたものと推測できる。
ことばをほんの少し動かしただけで、「意味」ががらりとかわる。--と、書いて、こういう書き方は何かが違うぞと感じる。安水はことばをほんの少し動かしただけなのか。たとえば「わたしはここにいるが/わたしはここにいるか」の「が」と「か」の違いはほんとうに少ししか違わないのか。
濁音が濁音でなくなっただけなのか。
濁音、清音と区別してしまうと、そのあいだにあるものが消えてしまう感じがする。
「きれる」「とぎれる」も「と」の存在の違いだけと考えると、そのあいだに横たわっているものが消えてしまう感じがする。
「いまも」と「いつも」も、「文字の違い」だけではない。
もちろん「文字」も違うけれど、それを「文字の違い」だけでとらえると、「合理主義(ことばの流通経済の整理の仕方)」にのみこまれてしまう。ここにかかれている詩が、ことばを「頭」で動かして、ちょっと頭脳に「刺戟」を与えるだけのものになってしまう。
この詩は、そういう詩ではない。
「文字の違い」を「頭」で整理して知的にことばを動かしているのではない。文字がかわるまでのあいだに動いているのは「頭」ではなく、「肉体(からだ)」そのものである。
「が」から「か」までの動いていくとき、「頭」では濁音か清音かの違いに明確に区別すると同時に、その移行は一瞬である。でも「肉体」はそんな具合には明瞭に区別することもできないし、すばやく動くこともできない。
この詩は全部ひらがなでかかれているが、ことばをひとつひとつ「音」にして、ゆっくりたどっていく。次のことばが「肉体」のなからか出てくるまで、それが「が」になるか、「か」になるかは、わからない。「肉体」のそのときの「調子」がそれを突然決めてしまう。「頭」で整えようとしても、それは、むり。
「むり」が見えないように安水は書いているが、ひらがな、そしてほとんど同じことばを繰り返しながら、少し動く。そしてその動きが、動いた瞬間、少しではなく、大きな違い。--ちょうど、歩けなくなった人がリハビリで新しい一歩を踏み出すような、他人からみれば何でもないことであっても、そのひとの「肉体」のなかでは大変な違いが起きている、というのに似ている。そのときの、そのひとの「肉体」のなかでのうごめきが見えるような詩である。
少しのことばの違い、ずれに、ぐいと引き込まれていく。そこに「肉体」を感じてしまう。
「たべる」の後半が大好きだ。
どんなことでも「ひとしごと」である。「ひとしごと」の「ひと」は「ひとつ」。それは「すこし」であるけれど、「おおいき(大息)」の「大きい」とぴったりかさなる。なぜか。それはすべて「ひとのしごと」だからである。「ひと」が「肉体」を動かしてすることだからである。小さいことでも大きいことでも、ひとは、そのことにかかりきりになる。全身でそれに対応する。
安水は、この詩では「全身」を書いている。「肉体」を「全身」として書いている。健康なとき「全身」という感じはなかなかわからない。何かがあって、どんな小さなことでも「全身」がかかわっていることがわかる。「全身(肉体のすべて)」をつぎこんでいることがわかる。
この「全身」という「肉体感覚」は病気(病院)を離れたときでも動いている。「街で心屈したときなど」という作品。
最終連、「人」と「私」の区別がつかなくなる。
道に倒れて誰かが腹を抱えて呻いている。こういう場面に直面すると、とっさに、あ、あのひとは腹が痛いんだと思う。自分の肉体ではないのに、他人の痛みを感じる。「肉体」が「痛み」を共有してしまう。ほんとうは痛くないけれど、痛みが「わかる」。
あの感じ。
それを安水は、人の歩く姿を見て感じる。人の歩き方が、安水の「肉体」がおぼえている何か、安水のあるときはああやって歩いた、あのときはあんなことを感じてはしゃぐように歩いた……というようなことを思い出させるのである。そのときの「感じ」そのものは他人と完全に合致しないかもしれないけれど、「肉体」は、それをつかみとってしまう。
「肉体」というのは、なんというのだろう。ことばにならない。たとえば、悲しいとかうれしいとか、こころが屈しているとか……。こころ(精神)は「ことば」をとおして、その「ことば」のなかでひとつになるのに、「肉体」はいつでも「私」と「人」。切り離されている。切り離されて、孤立しているのに、いったんその「肉体」が動くと、動きそのものはいっしょに動かなくても重なってしまう。
百メートルをボルトが9秒台で走る。それをみる時、観客は「速い」と思うと同時に、その速さを「肉体」でつかみ取る。9秒台だから速いのではない。10秒台になったとしても速いし、肉離れで途中で棄権してしまっても、ころんでしまっても、速いのだ。いや、速くはないかもしれないが--見ていて肉体がボルトになって反応してしまう。
こういう「肉体感覚」がしずかに滲んでくる詩はいいなあ。
もうひとつ、とてもおもしろい作品。「のように」。
繰り返される「のように」。つまり「比喩」。
「比喩」というのは「肉体」だとわかる。「肉体」を重ねるのだ。この詩ではうまく説明ができないが、たとえば美女を薔薇に譬える。そのとき美女の肉体と薔薇の肉体が、作者の肉体のなかで重なる。作者は美女に肉体をあわせたのか、薔薇に肉体をあわせたのかわからないけれど(区別がつかないけれど)、肉体として融合してしまう。
「夏のように暑い/夏だ」という1連目は、同義反復の、変なことばに見えるが、同義ではないのである。「頭」で考えると、同義反復になるが、そこにはことばにならない何か、比喩として言うしかない何か(ことば以前のもの)があって、そのことば以前の「肉体」を安水は「のように」ということばで引っ張りだしてきている。
これは「肉体」の力業なのである。
こういう強引な「肉体」の動きは、いいなあ。私は安水に会ったことがないが、まるで、目の前に安水がいるように感じる。「肉体」の感触を感じる。思わず、「安水さん」と肩を叩きなくなる感じ。知っている人に突然出合ったときのような感じ。
うれしいなあ。
安水稔和『記憶の目印』の前半に、ひらがなで書かれた短い詩がある。「九階南病棟」というタイトルでまとめられているので入院生活をかいたものと推測できる。
わたしはここにいるが
わたしはここにいるか
わたしはきれている
どこから
わたしはとぎれる
いつまで
*
わたしはつながれているが
いまも
わたしはつながれているか
いつも
いきがきれる
とぎれる (「ねる」の部分)
ことばをほんの少し動かしただけで、「意味」ががらりとかわる。--と、書いて、こういう書き方は何かが違うぞと感じる。安水はことばをほんの少し動かしただけなのか。たとえば「わたしはここにいるが/わたしはここにいるか」の「が」と「か」の違いはほんとうに少ししか違わないのか。
濁音が濁音でなくなっただけなのか。
濁音、清音と区別してしまうと、そのあいだにあるものが消えてしまう感じがする。
「きれる」「とぎれる」も「と」の存在の違いだけと考えると、そのあいだに横たわっているものが消えてしまう感じがする。
「いまも」と「いつも」も、「文字の違い」だけではない。
もちろん「文字」も違うけれど、それを「文字の違い」だけでとらえると、「合理主義(ことばの流通経済の整理の仕方)」にのみこまれてしまう。ここにかかれている詩が、ことばを「頭」で動かして、ちょっと頭脳に「刺戟」を与えるだけのものになってしまう。
この詩は、そういう詩ではない。
「文字の違い」を「頭」で整理して知的にことばを動かしているのではない。文字がかわるまでのあいだに動いているのは「頭」ではなく、「肉体(からだ)」そのものである。
「が」から「か」までの動いていくとき、「頭」では濁音か清音かの違いに明確に区別すると同時に、その移行は一瞬である。でも「肉体」はそんな具合には明瞭に区別することもできないし、すばやく動くこともできない。
この詩は全部ひらがなでかかれているが、ことばをひとつひとつ「音」にして、ゆっくりたどっていく。次のことばが「肉体」のなからか出てくるまで、それが「が」になるか、「か」になるかは、わからない。「肉体」のそのときの「調子」がそれを突然決めてしまう。「頭」で整えようとしても、それは、むり。
「むり」が見えないように安水は書いているが、ひらがな、そしてほとんど同じことばを繰り返しながら、少し動く。そしてその動きが、動いた瞬間、少しではなく、大きな違い。--ちょうど、歩けなくなった人がリハビリで新しい一歩を踏み出すような、他人からみれば何でもないことであっても、そのひとの「肉体」のなかでは大変な違いが起きている、というのに似ている。そのときの、そのひとの「肉体」のなかでのうごめきが見えるような詩である。
少しのことばの違い、ずれに、ぐいと引き込まれていく。そこに「肉体」を感じてしまう。
「たべる」の後半が大好きだ。
めのまえの
たべものをすこしずつ
くちにいれて
やっとのみこんで
おおいきついて
たべるのは
ひとしごと
ひとのしごと
どんなことでも「ひとしごと」である。「ひとしごと」の「ひと」は「ひとつ」。それは「すこし」であるけれど、「おおいき(大息)」の「大きい」とぴったりかさなる。なぜか。それはすべて「ひとのしごと」だからである。「ひと」が「肉体」を動かしてすることだからである。小さいことでも大きいことでも、ひとは、そのことにかかりきりになる。全身でそれに対応する。
安水は、この詩では「全身」を書いている。「肉体」を「全身」として書いている。健康なとき「全身」という感じはなかなかわからない。何かがあって、どんな小さなことでも「全身」がかかわっていることがわかる。「全身(肉体のすべて)」をつぎこんでいることがわかる。
この「全身」という「肉体感覚」は病気(病院)を離れたときでも動いている。「街で心屈したときなど」という作品。
私は道を歩くのがすきだが。
人が道を歩くのを見るのもすきだ。
男でもいい 女でもいい こどもでもいい
わきめもふらずに ゆっくりと 下をむいて。
立ちどまったり ひきかえしたり。
横切ったり 追いかけたり。
ぶつかったり しゃがみこんだり。
それでも わきめもふらずに ゆっくりと。
人が道を歩くのを見ていると。
自分が道を歩くように。
やがて ゆっくりと。
確かなものが。
最終連、「人」と「私」の区別がつかなくなる。
道に倒れて誰かが腹を抱えて呻いている。こういう場面に直面すると、とっさに、あ、あのひとは腹が痛いんだと思う。自分の肉体ではないのに、他人の痛みを感じる。「肉体」が「痛み」を共有してしまう。ほんとうは痛くないけれど、痛みが「わかる」。
あの感じ。
それを安水は、人の歩く姿を見て感じる。人の歩き方が、安水の「肉体」がおぼえている何か、安水のあるときはああやって歩いた、あのときはあんなことを感じてはしゃぐように歩いた……というようなことを思い出させるのである。そのときの「感じ」そのものは他人と完全に合致しないかもしれないけれど、「肉体」は、それをつかみとってしまう。
「肉体」というのは、なんというのだろう。ことばにならない。たとえば、悲しいとかうれしいとか、こころが屈しているとか……。こころ(精神)は「ことば」をとおして、その「ことば」のなかでひとつになるのに、「肉体」はいつでも「私」と「人」。切り離されている。切り離されて、孤立しているのに、いったんその「肉体」が動くと、動きそのものはいっしょに動かなくても重なってしまう。
百メートルをボルトが9秒台で走る。それをみる時、観客は「速い」と思うと同時に、その速さを「肉体」でつかみ取る。9秒台だから速いのではない。10秒台になったとしても速いし、肉離れで途中で棄権してしまっても、ころんでしまっても、速いのだ。いや、速くはないかもしれないが--見ていて肉体がボルトになって反応してしまう。
こういう「肉体感覚」がしずかに滲んでくる詩はいいなあ。
もうひとつ、とてもおもしろい作品。「のように」。
夏のように暑い
夏だ
石のように冷えた
石を撃つ
太陽のように立派な
太陽を抱く
骨のように清らかな
骨を拒否する
意思のように垂直な
意志だ
繰り返される「のように」。つまり「比喩」。
「比喩」というのは「肉体」だとわかる。「肉体」を重ねるのだ。この詩ではうまく説明ができないが、たとえば美女を薔薇に譬える。そのとき美女の肉体と薔薇の肉体が、作者の肉体のなかで重なる。作者は美女に肉体をあわせたのか、薔薇に肉体をあわせたのかわからないけれど(区別がつかないけれど)、肉体として融合してしまう。
「夏のように暑い/夏だ」という1連目は、同義反復の、変なことばに見えるが、同義ではないのである。「頭」で考えると、同義反復になるが、そこにはことばにならない何か、比喩として言うしかない何か(ことば以前のもの)があって、そのことば以前の「肉体」を安水は「のように」ということばで引っ張りだしてきている。
これは「肉体」の力業なのである。
こういう強引な「肉体」の動きは、いいなあ。私は安水に会ったことがないが、まるで、目の前に安水がいるように感じる。「肉体」の感触を感じる。思わず、「安水さん」と肩を叩きなくなる感じ。知っている人に突然出合ったときのような感じ。
うれしいなあ。
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