内田良介『海と書物』(2)(思潮社、2013年10月01日発行)
一昨日の日記で最後に引用した「傍線」はとても美しい作品だ。
「光」とは「意味」かもしれない。かつては気づかなかった「意味」が見える。「意味」は「闇」ではなく、「光」。それは人間を導いてくれる。深淵(闇)から、人間が生きるべき場所へと。 「ひと筋の光がさしている」というしっかりした比喩の力がある。
その詩のなかの火か名のように。
書物を読んで、そういう一瞬を感じるときがある。自分ではわけのわからなかったなにかが、その筆者のことばを潜り抜けることで、あ、こういうことだったのか、といままでとは違った場所を案内してくれる。
いいね。
そういうことは人生においては何度も起きる。しかし、それはそのまま「持続」するとはかぎらない。
2連目。
傍線を引いたことを思い出せない。どんな「光」を見て、傍線を引いたのか、思い出せない。
それは、どこへ行ってしまったのか。自分自身の「肉体」になってしまったのか。でも、自分自身の「肉体」になるということは、それを「おぼえる」(いつでも「つかえる」)ということだから、何か違うね。
こういうことは、内田にかぎらず多くのひとが経験することであるかもしれない。私自身も、そういうことがよくある。あれ、この傍線、何のために引いたのかなあ。どうしてこの行に感心したのかなあ……。そういうことが。
このあと、詩は「忘れてはならない多くのことを/きっと忘れているだろう」「そのとき(傍線を引いたとき--谷内・補註)何を感じたのだろう/もしかして我知らず/異神の声を聞いたのではないか」というようなことばを動き、
後半。
という美しい美しい美し美しい1行がある。
あるとき傍線を引かれ、気がつけば忘れ去られている1行。それは「滅ぶべきもの」だったのだ。忘れ去られたのではない。滅んでいったのだ。しかし、そういう「滅び」を生きるものも、最初から「滅び」をめざしているわけではないだろう。「滅ぶ」ことなど知らずに、それはあるとき「目覚めた」のである。
この「滅びる」とういことを知らずに「目覚める」という運動の「かなしさ」のなかに抒情のすべてがあるのかもしれない。その「目覚め」が滅びるという自分の運命を知らないように、その目覚めに気づいたとき、内田も「滅びの運命」などしらず、生きる何かを感じ、他からこそ「傍線」を引いた。そのとき、傍線をひかれたことばと内田は「一体」であった。そして、その「一体」のまま、ことばも、そのことばによって目覚めた内田も滅んだ……。そのことが、深淵に射し込んできたひと筋の光のようにくっきりと見える。それが「抒情」である。
「滅びの目覚め」が、いま「目覚める」のである。
これは「矛盾」だけれど、矛盾だから、詩。
「滅びが目覚め」、「目覚めが滅びる」がくり返される。どちらになるか、それはそのつど比喩になってあらわれるだけである「目覚め」の喪失は「そのつど違った比喩になるしかない」ものである。
あ、何を書いているのかなあ。ことばが上滑りしている。ことばはかってに論理(意味)をつくってしまうという危険に満ちている。
ということは別にして。
この詩集を読むと不思議な気持ちになる。読み進めば読み進むほど、「もの」が消えていく感じがする。そして「意味」があらわれてる感じがする。「意味」というのは「抒情」なのだけれど。内田は抒情詩を書いている、ということだけが静かに浮かび上がり、でも具体的な「もの」としては何を書いたのかなあ、ということがわからなくなる。
これは「海と書物」の書き出しの連だが、内田の書いているのは「書物」ではなくて、「ことば」そのものだけという感じがする。「もの」の存在がすべて消えて抽象化し、「もの」がすべて滅びて消えてしまい、抒情だけが残る--ということをめざしたことばの運動なのかもしれないけれど。
一昨日の日記で最後に引用した「傍線」はとても美しい作品だ。
埃をかぶった古い書物の
黄ばんだ頁をめくる
何度読んでも理解できなかった
そそり立つ一行の深淵に
ひと筋の光がさしている
「光」とは「意味」かもしれない。かつては気づかなかった「意味」が見える。「意味」は「闇」ではなく、「光」。それは人間を導いてくれる。深淵(闇)から、人間が生きるべき場所へと。 「ひと筋の光がさしている」というしっかりした比喩の力がある。
その詩のなかの火か名のように。
書物を読んで、そういう一瞬を感じるときがある。自分ではわけのわからなかったなにかが、その筆者のことばを潜り抜けることで、あ、こういうことだったのか、といままでとは違った場所を案内してくれる。
いいね。
そういうことは人生においては何度も起きる。しかし、それはそのまま「持続」するとはかぎらない。
2連目。
読んだはずのない数行に
引かれていた傍線と
消え欠けた書き込み
それは確かに私の字体なのに
そのことをどうしても思い出せない
傍線を引いたことを思い出せない。どんな「光」を見て、傍線を引いたのか、思い出せない。
それは、どこへ行ってしまったのか。自分自身の「肉体」になってしまったのか。でも、自分自身の「肉体」になるということは、それを「おぼえる」(いつでも「つかえる」)ということだから、何か違うね。
こういうことは、内田にかぎらず多くのひとが経験することであるかもしれない。私自身も、そういうことがよくある。あれ、この傍線、何のために引いたのかなあ。どうしてこの行に感心したのかなあ……。そういうことが。
このあと、詩は「忘れてはならない多くのことを/きっと忘れているだろう」「そのとき(傍線を引いたとき--谷内・補註)何を感じたのだろう/もしかして我知らず/異神の声を聞いたのではないか」というようなことばを動き、
後半。
滅ぶべきものはいつ目覚めたのだろう
という美しい美しい美し美しい1行がある。
あるとき傍線を引かれ、気がつけば忘れ去られている1行。それは「滅ぶべきもの」だったのだ。忘れ去られたのではない。滅んでいったのだ。しかし、そういう「滅び」を生きるものも、最初から「滅び」をめざしているわけではないだろう。「滅ぶ」ことなど知らずに、それはあるとき「目覚めた」のである。
この「滅びる」とういことを知らずに「目覚める」という運動の「かなしさ」のなかに抒情のすべてがあるのかもしれない。その「目覚め」が滅びるという自分の運命を知らないように、その目覚めに気づいたとき、内田も「滅びの運命」などしらず、生きる何かを感じ、他からこそ「傍線」を引いた。そのとき、傍線をひかれたことばと内田は「一体」であった。そして、その「一体」のまま、ことばも、そのことばによって目覚めた内田も滅んだ……。そのことが、深淵に射し込んできたひと筋の光のようにくっきりと見える。それが「抒情」である。
「滅びの目覚め」が、いま「目覚める」のである。
これは「矛盾」だけれど、矛盾だから、詩。
「滅びが目覚め」、「目覚めが滅びる」がくり返される。どちらになるか、それはそのつど比喩になってあらわれるだけである「目覚め」の喪失は「そのつど違った比喩になるしかない」ものである。
あ、何を書いているのかなあ。ことばが上滑りしている。ことばはかってに論理(意味)をつくってしまうという危険に満ちている。
ということは別にして。
この詩集を読むと不思議な気持ちになる。読み進めば読み進むほど、「もの」が消えていく感じがする。そして「意味」があらわれてる感じがする。「意味」というのは「抒情」なのだけれど。内田は抒情詩を書いている、ということだけが静かに浮かび上がり、でも具体的な「もの」としては何を書いたのかなあ、ということがわからなくなる。
わたしは風と樹木と海によって
編まれた一冊の書物である
これは「海と書物」の書き出しの連だが、内田の書いているのは「書物」ではなくて、「ことば」そのものだけという感じがする。「もの」の存在がすべて消えて抽象化し、「もの」がすべて滅びて消えてしまい、抒情だけが残る--ということをめざしたことばの運動なのかもしれないけれど。
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