詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

甲田四郎『送信』

2013-10-02 09:00:06 | 詩集
甲田四郎『送信』(ワニ・プロダクション、2013年09月20日発行)

 甲田四郎『送信』の詩は、きのう書いた日原正彦の詩との比較で言うと「知っている」ことが、「知っている」ではなく「わかる」という段階にこだわって書かれている。言いなおすと、自分の暮らしを「知っている」に高めない。高めないというのは変かもしれないが、「意味」でととのえようとはしない。そのまま、あるがままに、ことばがどこまでついてこれるか、ことばをたたいている。鍛えている。
 「換気扇」の書き出し。

換気扇の羽根が重たそうに回りだして
ギイギイギイギイうなりだす
抗議のようである
ヒモ引っ張って止めて、また引っ張って動かす
羽根がこんどはうならずに回っている
あきらめたようである
短い平安の時にいる

 「ヒモ引っ張って止めて、また引っ張って動かす」--詩なので、ことばで書くしかないのだが、この紐をひっぱるコツは「肉体」がおぼえていることがらである。ただひっぱってはだめ。換気扇のご機嫌をうかがいながら、こんな感じ、この瞬間、ここに力を入れて……と繰り返し繰り返し、自分の「肉体」に覚え込ませた何か。そういうものがある。「あ、さすがお父さん、上手ね」ということばが交わされたりするのである。それを聞きながら換気扇は「もう、働きたくないんだよ、おれは。でも、しょうがないか、今日一日我慢して働くか」と動いている。
 ここには「意味」はない。これを「知っている」と誰かにつたえるものがない。共有する「意味」はない。ただ暮らしがあり、その暮らしを甲田は妻と共有している。

 他人の暮らしというものは--私から見て、甲田の暮らしというものは、私が「共有」するものではない。いっしょに暮らしているわけではない。「共有」するものがない、というのは「無意味」ということである。甲田の家の換気扇がギイギイうなろうが、それを甲田がどんなふうになだめすかして動かしていようが、私とは無関係である。
 それは、まあ、日原が遠くで子どもと母親が遊んでいるのを見ていることが私には「無関係」であるのと似てはいるのだが、日原はその「親子の関係」を、それから「宇宙と親子の関係(?)」に昇華して「意味」をつくりだし、それを読者につたえようとしているが--「意味」によって、読者に「関係」をせまってくるが、甲田はそんなことはしない。甲田は「意味」なんか「知らない」という。換気扇の動かし方なら「わかる」というだけなのである。「知識」による連続性を強要しないしない。「感動」を強要しない。
 で、「無意味」であるから、そこになんともいえないさっぱり感がある。笑いがある。甲田にはもうしわけないが、他人の暮らしの苦労というのは、笑ってみていられる。そして、笑いを共有するのが、なんというか、その「場」、共同体の「生き方(思想)」なのである。
 えっ、そんな引っ張り方で動くのかい? うちのは一回右の方へねじるようにしてからひっぱるんだよ。--というようなことを自慢(?)する。そんな「個別的なこと」自慢にならないでしょ? でも、自慢する。そうして「個別性」の、「個であること」の強さのようなものに帰っていく。一個の「肉体」。ここに、いま「肉体」として生きているというようなことに帰っていく。
 動きの悪い換気扇をなだめなだめつかうなどというのは、絶対に「合理主義」の「流通」にはのらない。でも、その「のらない」ということが、「流通(合理主義)」とは別のところで、「意味」を越えてつながっていく。そこから「暮らし」が生まれてくる感じがする。これが、いい。

 「個別性」を別のことばで言えば「具体」である。「私は具体で生きている」という詩がある。

コンビニのカップラーメンは一七六円だが
血圧に悪いからダメ
チェーン店の弁当屋は大音響で女の早口の歌を流している
目の奥に響きが店に入るまでは忘れていた
サケ弁一つ三九〇円、飯が小盛だと三四〇円
参入したいができない値段だ
チクワのてんぷらと何とかのフライと何とかの漬物は
血圧が上がるから捨ててサケと飯だけ食べる
女房がタマネギの味噌汁を作ることになっている

 抽象的なことは何も書いていない。抽象がないということは、「流通する意味」(共有する意味/合理化のための方法)がないということである。で、こういう「流通」にのらないことばに、どういうい「意味」があるのか。「感動」と無関係なことばに、どういう「意味」があるのか。
 うーん、これを言うのはむずかしい。
 ことばは「意味」がなくても、こんなふうに動き、存在するということがはっきりする。それが「わかる」ということに「意味」がある。「ことばの肉体」を「わかる」ことに「意味」がある。
 これは、人それぞれに「肉体」があって、その「肉体」は私の思いとは無関係に動くのだけれど、いったん動きはじめると、そこに共通するものがあることを「肉体」がわかってしまう、というところに「意味」がある。
 道に誰かが倒れていて、腹を抱えてうずくまっている。それを見ると、その痛みは自分のものではないのに、あ、腹が痛いんだと「わかる」。それに似ている。
 「コンビニのカップラーメンは一七六円」から二〇〇円出せば二四円おつりが来るということが「わかる」。サケ弁三九〇円より安いということが「わかる」。そういう具合に、どこかで考えながら値段を見ているということが「わかる」。その「わかる」を共有して「暮らしの肉体(思想)」が動く。その動き方、動かし方がわかる。
 こういうことは、「合理主義」から見ると「わかってしまう」のは困る、ということかもしれない。そんな個別性にこだわっていては、ものごとを動かすのにめんどうくさくてしようがないからね。だからこそ、まあ、そのめんどうくさいことにしがみつくことの「意味」が生まれてくる。そこから、どんどん「個別」の反逆、「個別のことば」が生まれてくるところに「意味」がある。個別にこだわっていると、突然、何かが「わかる」。「ことばの肉体」がことばを「生み出す」ために動くことがわかる。
 「ひとつから」におもしろい部分がある。和菓子はたいてい何個かセットになっているが「ひとつから、お気軽にどうぞ」と書いたビラをつくり、一個買うひとにも配慮しようということになった。そういうことのあとで、

私昔組合で言ったことがある
人がヒマだと聞けば安心するけどさ
安心したって仕方がないよな、売れなけりゃあ
すると松葉屋のじいさんが叫んだ
ちがわい人がヒマなら安心だい
自分だけヒマなら大変だい

 「流通する意味」が見落としていたものが「個別」から反撃される。「流通する意味」を「個別」が反撃する。そういう「個別」の「肉体」というのは、とても重要だと思う。こういうことばは生きつづけなければいけないのである。「知っている」ことばではなく、「わかる」ことば(肉体がおぼえていることば)だけが「流通」と戦うことができると私は信じている。

大手が来る―甲田四郎詩集
甲田四郎
潮流出版社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする