早坂類「ゆきが幻の花になった朝」ほか(「鶺鴒通信」π秋号、2013年10月10日発行)
早坂類「ゆきが幻の花になった朝--K氏死す」は、タイトル通り故人を思い出す詩である。
このあと、故人の思い出(早坂と故人とのかかわり)が書かれ、3、4連目。季節は冬から一気に飛んで、
3連目が非常に美しいと思う。その美しさをなんといえばいいのか。私はしばらく考えた。いまも、わからないまま考えている。
ここには「著者から君への謝辞」ということばはあっても、実際に、著者が語ったことばが引用されていない。だから、それがほんとうに「うつくしい」かどうか、私には判断できない。それなのに、その「うつくしい」を信じてしまう。
「君の編んだ本」というのも、タイトルが書かれていない。それがほんとうかどうか、読者はたしかめる方法がない。それなのに、それを「事実」と信じてしまう。
ここに、ある鍵がありそうな気配がする。
具体的な謝辞がない、本のタイトルがない--というのは、「ことば」がないということである。ことばがなくて、それでは何があるのだろうか。
奇妙な言い方になるが、「君がある」。「君がいる」。それは「ひとつのいのち」という具合に早坂は言うのだけれど、まあ、「いのち」としか言いようのないものなのだろうけれど……。
私は「君」に会ったことがないのに、突然、K氏がふいにそこにいるように感じたのである。見たことのない人が、そこに見えた。ただその人が見えただけではなく、早坂がいて同時に「君」がいるときの、「場」というのか、「空気」というのか、あたたかい光のようなものが見えたのである。「君」の「いのち」というよりも「生き方」が見えたのである。
「生き方」なんていうのは--でも、見えないよね。
死んでしまった「君」だけではなく、たとえば早坂の「生き方」だって、それを「見える」とはいえない。なぜ見えないかというと……。きっと、それは動いているから。固定していない。「もの」ではなく、「こと」だからだ。動くことによって、「生き方」になる。そして「生き方」というのは、そのひとひとりというより、相手をまきこんでの「生き方」である。相手がかわれば、そのとき向き合っている人の動きもかわる。一度として同じものはないかもしれない。それでも、「同じ」と感じる何かが生き方である。
これは、ことばにしようとするとむずかしい。また、ことばにする必要のないものかもしれない。ことばではなく、動きなのだから。
「ひとつのいのちは生きのびている」と早坂は書いている。私はそれを「生き方」がまだ動いていると感じたのだ。「生き方」に触れて、早坂が「生き方」におされて、動きはじめる--その瞬間を見たように感じたのである。
「またねと君を棚へ押し戻」すのは、「生きる」のは早坂だからである。「君」は「生き方」を教えてくれた。その「方」を動かして「生きる」にするのは、実際に「肉体」をもっている早坂にしかできない。
早坂と「君」は、ことばをつかわずに、すばやくそんな交流をしたのだ。ことばをつかわずに--というのは、ことばにする必要がないからだ。ことばにしなくても、早坂には「生き方」がわかっているからだ。
この「わかっている」が美しいんだなあ、と思った。
*
馬慶珍「蟻」(財部鳥子訳)は、ある意味では、早坂の書いている世界と正反対である。公園を歩いていて、蟻を見かけ、「観察し、同時にいくばくかの事情を連想した」。その「連想」を「ことば」でどこまでも追いつづける。
早坂は実際にあるはずのことば(謝辞、タイトル)を書かなかったが、馬は実際にはないはずのことばを動かす。ことばで、そこにあるかないかわからないものを動かす。そうすると、そこに「生き方」につながるような変なものが見えてくる。ことばは、それが「ある」ことか「ない」ことかは無視して、どこまでも動く。その「動き」だけが見えてきて、「動き」が見えるのと、ほんとうは「ない」ものが「ある」に見えてしまう。
「意味」が見えてくる、といってもいいかもしれない。
自分の力ではどうすることもできない災害--天災というものがある。そういうものは人間にもあるね。で、この重なり合いのなかに「意味」があるんだけれど。それが「意味」だけだと、なんだかつまらない説教になる。
この作品が説教で終わらないのは、ことばが自分勝手に動きながら「意味」をこわす瞬間を取り込んでいるからだ。
何これ。「天より高い」って、どういうこと? 矛盾してるでしょ。その瞬間、私は、その無意味に笑ってしまう。
馬は蟻など観察していない。いや、観察したかもしれないけれど、ことばの運動に「限界」を設けていない。「観察」をはみだすことをことばに許している。ことばを観察をはみだしてまで動かしている。
だから、「観察」から「意味」が引き出されるかわりに、「観察」を突き破って、アナーキーな「無意味」が暴走する。
この瞬間が、詩、だね。
そして思うのだ。こういうアナーキーな「無意味」は単にことばで終わるはずがない。どうしたって、そのことばを動かしている馬に跳ね返ってくる。ことばが「肉体」になって、馬の「肉体」を動かしはじめる。「生き方」になる。詩は、詩人をつくりだすのである。
ということを感じた。そして、そのことをこそもっとていねいに書かなければいけないのだとも思うのだが、これは書きはじめるととても長くなる。まあ、そんなようなことなのだなあ、と思って「蟻」を読んでもらうしかないなあ。
とても楽しいことばの運動である。
早坂類「ゆきが幻の花になった朝--K氏死す」は、タイトル通り故人を思い出す詩である。
冬、梅の枝にやわらかなゆきがふって
幻の花になった朝
北の海から訃報が届く
君の時間が止まったという
このあと、故人の思い出(早坂と故人とのかかわり)が書かれ、3、4連目。季節は冬から一気に飛んで、
夏、君の編んだ本に古本屋で出会った
死後もつづく不意打ちのトラップ
著者から君への謝辞がうつくしい
このようにしてこの夏にまだひとつのいのちは生きのびている
私はそしてその先をゆかなくてもならないから
またねと君を棚へ押し戻し
風の先を見ながら、ちょっと汗を拭う
3連目が非常に美しいと思う。その美しさをなんといえばいいのか。私はしばらく考えた。いまも、わからないまま考えている。
ここには「著者から君への謝辞」ということばはあっても、実際に、著者が語ったことばが引用されていない。だから、それがほんとうに「うつくしい」かどうか、私には判断できない。それなのに、その「うつくしい」を信じてしまう。
「君の編んだ本」というのも、タイトルが書かれていない。それがほんとうかどうか、読者はたしかめる方法がない。それなのに、それを「事実」と信じてしまう。
ここに、ある鍵がありそうな気配がする。
具体的な謝辞がない、本のタイトルがない--というのは、「ことば」がないということである。ことばがなくて、それでは何があるのだろうか。
奇妙な言い方になるが、「君がある」。「君がいる」。それは「ひとつのいのち」という具合に早坂は言うのだけれど、まあ、「いのち」としか言いようのないものなのだろうけれど……。
私は「君」に会ったことがないのに、突然、K氏がふいにそこにいるように感じたのである。見たことのない人が、そこに見えた。ただその人が見えただけではなく、早坂がいて同時に「君」がいるときの、「場」というのか、「空気」というのか、あたたかい光のようなものが見えたのである。「君」の「いのち」というよりも「生き方」が見えたのである。
「生き方」なんていうのは--でも、見えないよね。
死んでしまった「君」だけではなく、たとえば早坂の「生き方」だって、それを「見える」とはいえない。なぜ見えないかというと……。きっと、それは動いているから。固定していない。「もの」ではなく、「こと」だからだ。動くことによって、「生き方」になる。そして「生き方」というのは、そのひとひとりというより、相手をまきこんでの「生き方」である。相手がかわれば、そのとき向き合っている人の動きもかわる。一度として同じものはないかもしれない。それでも、「同じ」と感じる何かが生き方である。
これは、ことばにしようとするとむずかしい。また、ことばにする必要のないものかもしれない。ことばではなく、動きなのだから。
「ひとつのいのちは生きのびている」と早坂は書いている。私はそれを「生き方」がまだ動いていると感じたのだ。「生き方」に触れて、早坂が「生き方」におされて、動きはじめる--その瞬間を見たように感じたのである。
「またねと君を棚へ押し戻」すのは、「生きる」のは早坂だからである。「君」は「生き方」を教えてくれた。その「方」を動かして「生きる」にするのは、実際に「肉体」をもっている早坂にしかできない。
早坂と「君」は、ことばをつかわずに、すばやくそんな交流をしたのだ。ことばをつかわずに--というのは、ことばにする必要がないからだ。ことばにしなくても、早坂には「生き方」がわかっているからだ。
この「わかっている」が美しいんだなあ、と思った。
*
馬慶珍「蟻」(財部鳥子訳)は、ある意味では、早坂の書いている世界と正反対である。公園を歩いていて、蟻を見かけ、「観察し、同時にいくばくかの事情を連想した」。その「連想」を「ことば」でどこまでも追いつづける。
早坂は実際にあるはずのことば(謝辞、タイトル)を書かなかったが、馬は実際にはないはずのことばを動かす。ことばで、そこにあるかないかわからないものを動かす。そうすると、そこに「生き方」につながるような変なものが見えてくる。ことばは、それが「ある」ことか「ない」ことかは無視して、どこまでも動く。その「動き」だけが見えてきて、「動き」が見えるのと、ほんとうは「ない」ものが「ある」に見えてしまう。
「意味」が見えてくる、といってもいいかもしれない。
蟻を見つめて人に踏まれるなと念じた。蟻には人がどう見えるだろうか。もし仔細に見たらおそらく天よりも高い怪物だろうか? 万一、人に踏まれて死んだら、同類の蟻たちは天災だから定められた運命だと思うだろう。
自分の力ではどうすることもできない災害--天災というものがある。そういうものは人間にもあるね。で、この重なり合いのなかに「意味」があるんだけれど。それが「意味」だけだと、なんだかつまらない説教になる。
この作品が説教で終わらないのは、ことばが自分勝手に動きながら「意味」をこわす瞬間を取り込んでいるからだ。
もし仔細に見たらおそらく天よりも高い怪物だろうか?
何これ。「天より高い」って、どういうこと? 矛盾してるでしょ。その瞬間、私は、その無意味に笑ってしまう。
馬は蟻など観察していない。いや、観察したかもしれないけれど、ことばの運動に「限界」を設けていない。「観察」をはみだすことをことばに許している。ことばを観察をはみだしてまで動かしている。
だから、「観察」から「意味」が引き出されるかわりに、「観察」を突き破って、アナーキーな「無意味」が暴走する。
この瞬間が、詩、だね。
そして思うのだ。こういうアナーキーな「無意味」は単にことばで終わるはずがない。どうしたって、そのことばを動かしている馬に跳ね返ってくる。ことばが「肉体」になって、馬の「肉体」を動かしはじめる。「生き方」になる。詩は、詩人をつくりだすのである。
ということを感じた。そして、そのことをこそもっとていねいに書かなければいけないのだとも思うのだが、これは書きはじめるととても長くなる。まあ、そんなようなことなのだなあ、と思って「蟻」を読んでもらうしかないなあ。
とても楽しいことばの運動である。
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