川島洋『青の成分』(3)(花神社、2013年10月25日発行)
「虹」という作品も美しい。
1連目で「立っている」虹が、2連目で「壁に寄りかかる」。どっちがほんとう? いや、そんな質問は、いまむりやりこさえたものであって、読んだ瞬間、「立っている」ではなく「寄りかかる」に私は惹かれたのだと思い出す。1連目に「立っている」ということばが書いてあるのは最初気づかなかった。こうやって引用して、あ、最初は立っていたのだ、と思い出した。1連目を忘れるくらい「壁に寄りかかる」が印象的なのだ。その虹を私は見たわけではないのに、まるでいま/ここでその虹を見ているように、「寄りかかる」ひ引っぱられる。
虹、ではなく、自分自身が壁に寄りかかりたかったことを思い出すのだ。立っていたくないなあ。少しでも寄りかかっていたい。何となく、休みたい。それは(私はたばこを吸うわけではないが、吸ったことはないが)、地下の喫煙場所へ行って、しばらく休憩--というような気分にとても合う。「肉体」が、そのことばに同調してしまう。
そのとき、私は川島なのか、あるいは虹なのか。
--というのは、私の感想であって、川島は単純に「私は虹を見ているのか」あるいは「見られている虹が私なのか」ということになる。区別がつかない。「一体」になっている。直感的に、そう思う。
その直感を誘うように、3連目が動いていく。
「一服」する。たばこを吸う、という意味もあるけれど、そこから派生しているのかもしれないけれど、休憩する(休む)という意味もある。壁に寄りかかって、たばこを吸って、だらしなく(?)、休む。そうすると、
あ、また虹が「立っている」。元気に回復している。元気といっても、はつらつというのではないけれどね。その、静かな「肉体」のなかにある、ことば以前の動きがとてもいいなあ。
「ぶどうの食べ方」と「壷」もいいなあ。
「ぶどうの食べ方」は突然ぶどうが食べたいと思った川島が「いまどこかの食卓で ぶどうを食べているひとがある」と電車のなかで思い、家に帰ってが寝静まったあともぶどうのことを考えている。
あるいはもう 私自身がぶどうの粒になっているのかもしれない。
この自分と対象とが「一体」になる感覚--それが川島の詩を貫いている。あの「コロッケ」(あ、タイトルは「コロッケ」ではなかったが……私は「コロッケ」と書いてしまう)の「甘い穴」のような感じだなあ。区別がつかない。「精神」がではなく「肉体」が区別がなくなる。
そのとき、そこに「声」が虹のように立ち上がる。あざやかさに、息をのむように。
なんて書いてしまうと、変なものになってしまうけれど。
でも、そういう感じだなあ。
「一体感」がいい。
と書けば、もう「壷」について書かなくてもいい感じ。川島は「壷」を描くことで「壷」そのものになってしまう。「壷にとどかない」という悲しい「声」さえ、壷と一体になった川島の「声」に聞こえる。
「虹」という作品も美しい。
地下の喫煙場所に下りる外階段
踊り場の壁に あざやかな虹が立っている
(どこかのガラスがプリズムになっているのだ)
先月までは見なかった
冬の 昼前の陽射しとともに
虹はやって来て 少しのあいだ
壁に寄りかかるのであるらしい
1連目で「立っている」虹が、2連目で「壁に寄りかかる」。どっちがほんとう? いや、そんな質問は、いまむりやりこさえたものであって、読んだ瞬間、「立っている」ではなく「寄りかかる」に私は惹かれたのだと思い出す。1連目に「立っている」ということばが書いてあるのは最初気づかなかった。こうやって引用して、あ、最初は立っていたのだ、と思い出した。1連目を忘れるくらい「壁に寄りかかる」が印象的なのだ。その虹を私は見たわけではないのに、まるでいま/ここでその虹を見ているように、「寄りかかる」ひ引っぱられる。
虹、ではなく、自分自身が壁に寄りかかりたかったことを思い出すのだ。立っていたくないなあ。少しでも寄りかかっていたい。何となく、休みたい。それは(私はたばこを吸うわけではないが、吸ったことはないが)、地下の喫煙場所へ行って、しばらく休憩--というような気分にとても合う。「肉体」が、そのことばに同調してしまう。
そのとき、私は川島なのか、あるいは虹なのか。
--というのは、私の感想であって、川島は単純に「私は虹を見ているのか」あるいは「見られている虹が私なのか」ということになる。区別がつかない。「一体」になっている。直感的に、そう思う。
その直感を誘うように、3連目が動いていく。
一服 という名の時間が
静かに喉を通過してゆくあいだ
煙につれて視線がわずかに仰向く
その先に立っている
一枚のタオルのようにくっきりした虹
「一服」する。たばこを吸う、という意味もあるけれど、そこから派生しているのかもしれないけれど、休憩する(休む)という意味もある。壁に寄りかかって、たばこを吸って、だらしなく(?)、休む。そうすると、
その先に立っている
あ、また虹が「立っている」。元気に回復している。元気といっても、はつらつというのではないけれどね。その、静かな「肉体」のなかにある、ことば以前の動きがとてもいいなあ。
「ぶどうの食べ方」と「壷」もいいなあ。
「ぶどうの食べ方」は突然ぶどうが食べたいと思った川島が「いまどこかの食卓で ぶどうを食べているひとがある」と電車のなかで思い、家に帰ってが寝静まったあともぶどうのことを考えている。
あるいはもう 私自身がぶどうの粒になっているのかもしれない。
この自分と対象とが「一体」になる感覚--それが川島の詩を貫いている。あの「コロッケ」(あ、タイトルは「コロッケ」ではなかったが……私は「コロッケ」と書いてしまう)の「甘い穴」のような感じだなあ。区別がつかない。「精神」がではなく「肉体」が区別がなくなる。
そのとき、そこに「声」が虹のように立ち上がる。あざやかさに、息をのむように。
なんて書いてしまうと、変なものになってしまうけれど。
でも、そういう感じだなあ。
「一体感」がいい。
と書けば、もう「壷」について書かなくてもいい感じ。川島は「壷」を描くことで「壷」そのものになってしまう。「壷にとどかない」という悲しい「声」さえ、壷と一体になった川島の「声」に聞こえる。
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