詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水嶋きょうこ『繭の丘。(光の泡)』

2013-10-18 11:05:34 | 詩集
水嶋きょうこ『繭の丘。(光の泡)』(土曜美術社出版販売、2013年09月20日発行)

 私はいまとても困惑している。ことばが見つからないのだ。「裂け目」ということばがどこかにあったはずだ。それは「猿飛 Ⅰ」(42ページ)以前のどこかのページ、ある別の作品にあったはずである。これが水嶋きょうこ『繭の丘。(光の泡)』の作品のキーワードである。そのことばを中心に感想を書いていきたいのだが、何度読み返してもみつからない。私は詩を読みながら思いついたことはなんでもメモするのだが、そのメモがない。どこを探してもない。
 まるで、その「裂け目」にすべてが飲み込まれて行って、縫い合わされてしまったみたい。縫い合わされた内部に閉じ込められたみたい。
 --と書くと、私の書きたかったことになってしまうのだが、これはどういうことだろうか。「裂け目」はどこへ消えてしまったのか。(北爪満喜の帯の書き出しに「郊外は裂け目そのもの」とある。北爪も「裂け目」に注目したのだろう。--帯には傍線も、書き込みもない。私の書き込んだ「裂け目」に関することばはどこへ行ってしまったのか。ほかのページの付箋と、傍線と、書き込みは残っているのに……。「夕暮れのニュータウン」には「荒れた郊外の空間を切り裂くこともあり」という1行があり、そこにも私はしっかりと傍線を引いているのに……。)
 仕方がないから、「妄想」を書く。
 水嶋の「裂け目」は別のことばで言いなおすと、

いやになっちゃう

 である。「ガラス玉の家」には2回出てくる。(もっと出てくるかもしれないが、私は26ページと27ページの「いやになっちゃう」に傍線を引いている。)
 で、この「いやになっちゃう」を別なことばで言いなおすと、

気持ちいいんだか、悪いんだか、もう、どこにいるのかわかんない。  (26ページ)

 ということになる。「気持ちいい」と「気持ち悪い」は明らかに違う。そのあいだには明確な区別(裂け目)があるはずである。けれども、それが「わからない(区別がなくなる)」というのが水嶋にとっての「裂け目」のあり方なのだ。
 あるはずのものが見えなくなる。
 これが「いやになっちゃう」ということ。
 「気持ち悪く」て「いやになる」のではない。「気持ちよく」て(よすぎて?)「いやになる」のでもない。「どっちかわからない」から「いやになる」。
 もし、「裂け目」がなかったら、
 もし、ことばに「いい」と「悪い」の違いがなかったら、
 きっと水嶋は「いやになる」ということはない。

 「わからない」を私は「区別がない(裂け目がない)」という具合に言いなおしてみたが、水嶋自身はどう言いなおしているか。「猿飛 Ⅰ」のなかに次の行がある。

生まれ 出ようとするものと
途絶え 出ようとするものの
混ざりあう皮膜の上を
わたしは 猿と 危うく 渡っているのだと念じました        (47ページ)

 「混ざりあう」が「裂け目」のない状態、「わからない」状態であり、「いやになる」状態なのだ。「裂け目」というのは、連続したもの(A)と別の連続したもの(B)が出合ったところに存在する。それが対立するときそこに「裂け目」がある。「裂け目」によってAとBに別れて対立する(向き合う)ということが生じる。そのときの特徴として、AにしろBにしろ、それには「広がり(大きい、大きさ)」がある。
 「混ざりあう」とき、AとBに広がり(連続)とか大きさというものはない。大きさを失って、それは「混ざりあう」。それは「接続」ではないのである。果てしない「断絶」(接続の否定)が「混ざりあう」なのである。
 「現実」の「連続」が否定され(切断され)、細分化される。その結果、ありえないものが「微小」の単位で接近し合う。「混ざりあう」というのが水嶋の世界なのである。
 「猿飛 Ⅰ」は台風の近づいてきた日のオフィスの一室が舞台。田口と名づけられた男が働いている。窓から見える木々は風で揺れる。それを見ていると、田口に猿になって枝にいる……という感じで「物語」がはじまる。
 台風が近づいて生きているときの「現実」が「細分化」される。それは連続しているものだけれど、ことばでひとつひとつ描いていくと、描くたびに「現実」が細分化される。
 この描写は、

留めようとすると ぎこちなく動く自分の手足から
老木と同じ暗緑の葉擦れの音がにじみでて それは
米粒のように見える真下の風景に垂直に落ちていった     (「風子」20ページ)

 という具合に、ばらばらになる。ほんとうはつながっていたものが、内部から「にじみでる」ように細分化されて独立してしまう。ことばによる「世界」の描写は、そういう「危険」を抱え込んでいる。(それは垂直に落下する。あるいは水嶋は書いていないが上昇もするし、四方に放出されることもあるだろう。問題は、「米粒」のように小さく分裂して、「混ざり」安くなるということだ。)
 それはどこかで「連続(つながっている)」はずなのだけれど、そのひとつひとつの描写は独立して動こうとする。詩になろうとする(独立したことばが詩だからね)。連続を拒んでいる。
 そのくせ、隣り合う。
 それが進むと「混ざりあう」になるのだ。

 別の言い方をしてみよう。(付箋と書き込みが「裂け目」に飲み込まれて、封じられているので--目の悪い私は、それを探すのに手間取り、結局探し出せなかったので、余白に書き込んである「メモ」をそのまま転写しておく。目の悪い私は一日当たりの書く時間を決めているのだが、もう時間がないので……。いままで書いてきたことと、なんとなくつながる、という感じのことがらなのだが。)
 水嶋の書こうとしていることは……。
 現実を見る--それは簡単なようであって、とてもむずかしい。直に肉眼で見ているようであっても、実は想像(予想)の力で現実を見ている。現実を「予想(相反することばだが記憶ということもできる)」にあわせている。「予想(既存の知識)」で現実を制御している。
 「現実」から想像(空想)が生まれるのではない。空想(想像)、つまり知っていると思っている「偏見(既成概念/流通概念)」が現実を、その「流通する意識」にあわせてつくりあげる。「流通概念」が「現実」を歪めている。
 この「歪み」はなかなか見えない。いいかえると「裂け目」はなかなか見えない。「流通概念」はあらゆる「裂け目」をすばやくふさいでしまう。
 その「流通概念」がふさごうとする「裂け目」をもういちど切り開くのが詩なのだけれど。(裂け目をもう一度つくりだすことで現実を覚醒させるのが詩なのだけれど。)
 とするなら、その「裂け目」をどうやってつくりだすか。ほんとうの「想像力」をどうやって出現させるか。
 もう一度、先の引用をくり返そう。

生まれ 出ようとするものと
途絶え 出ようとするものの
混ざりあう皮膜の上を
わたしは 猿と 危うく 渡っているのだと念じました

 「生まれ 出ようとする」「途絶え 出ようとする」--この対立。特に「途絶え 出ようとする」という1行のなかにある、もうひとつの「対立(矛盾)」が、たぶん、重要なのだ。
 「途絶える」ものはたいてい「葬り去られる」。けれど、水嶋はそれを「葬らない」。「途絶え 出ようとする」は、水嶋のことばによって「途絶え 生まれようとする」ものに変わるのだ。途絶えるもものも生まれる。途絶えるものを生み出す。そうして、生まれ出てくるものと「混ざりあう」。「混ざりあ」わせるために、水嶋は、ことばを書く。

 --というようなことを私は書きたかった。書きたいと思いながら余白にメモをとったのだが、これから先は書かない。これから先を書いてしまえば「意味」になってしまう。「意味」になってもいいのかもしれないけれど、「裂け目」ということばの存在が見つからない以上、これから先を動いていくことばは私の「思い込み」を超えてしまう。「誤読」を超えてしまう。
 それでは詩の解放にはならないと思うから。
twins
水嶋 きょうこ
思潮社
コメント (1)
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