浦歌無子『イバラ交』(思潮社、2013年10月07日発行)
水嶋きょうこの『繭の丘。(光の泡)』について感想を書いたとき、どこかに「裂け目」ということばがあったはずなのに見つからない--と書いた。その「裂け目」は浦歌無子『イバラ交』の中にあった。
「サヨナラココロガチルヨウニ」の最後の方に、
という行が出てくる。
なぜこの行が水嶋の詩集の中にまで割り込んでくるくらいに印象に残っているのか。今回の浦の詩集には、実は私には「裂け目」が見えなかったからである。「裂け目」が見えないからこそ、あ、浦は「裂け目」を見ているのだと思い、びっくりしたのである。
水嶋の詩は「猿飛 Ⅰ」がそうであるように、現実を描きながらも、そこに突然猿が出てくるところに「裂け目」がある。ふつう、オフィスには猿はいない。「人間」が猿になってしまうことはない。そういう「非・現実」がいわば「裂け目」としてあるのに対し、浦の場合の「裂け目」は違う。
「やっと見つけた」というように、それはなかなか見つからない。その見つからない「裂け目」と浦は向き合っている。「裂け目」を「やっと」つくりだしている。その「やっと」に浦の詩がある。
「裂け目」よりも「やっと」こそ、浦が書きたかったものだろうと思う。
いや、「やっと」なんか書きたくなかったというかもしれない。「仕方なく」書いたというかもしれない。
そうなんだよね。でも、だからこそ「やっと」が今回の詩集のキーワードである。浦の「肉体」にしっかりしみついていて、「やっと」は書かなくても浦にはわかっていることがらである。ほんとうは書く必要がない。でも、思わず書いてしまった。しかも3回も繰り返している。
「やっと」がなくても「見つけた裂け目」がなくなるわけではないし、たぶん、詩の展開(ことばの意味)を追っていくときは「やっと」を省略して読んだ方が、「意味」がすっきりするだろうなあ。
いわば、余分。
でも、その「余分(余剰)」のなかに、詩がある。「肉体」と「思想」がある。
浦の詩を私が初めて読んだのは「骨シリーズ」の詩である。私がかってに「骨シリーズ」と呼んでいるのであって、浦がそう言ったわけではないのだが。その一連の作品では「骨」の名前が次々に出てきて、それがそのまま「裂け目」だった。浦と私の「裂け目」だった。私は骨の名前なんか知らない。その知らない名前にこだわってことばを動かしていく--そのときに見える「光景」がとても新鮮だった。
その「裂け目」は、しかし浦も「裂け目」として感じていたかどうかはわからない。皮膚と筋肉(脂肪も?)に包まれた「裂け目」からいちばん遠いものだったかもしれない。いまから思うと、そんな気がする。(これは、私の「感覚の意見」。つまり、テキトウなことを書いているのであって、論理的には説明できないことがら。)
「裂け目」と書きながら、その「裂け目」はとても見えにくい。「サヨナラココロガチルヨウニ」の書き出し。
「裂け目」なんて、ないなあ。
むしろ、だらだらとどこまでもつづいている。何も考えずに書かれた学校の作文(仕方なしに原稿用紙を埋めていく作文)のようにさえ見える。
「闇にも光にも行き着くことができない」という行はちょっと「日常的」ではない、つまり「詩っぽい」けれど、ほかはまるで友達にこんなことがあったとずるずると語っているようなリズムである。
このあと詩は、
という「裂け目」のような、つまり「驚き」のある行をはさんで動いていく。
でも、
「裂け目」が見えない。少なくとも、私には見えない。
「マクドナルド、スターバックス、コクミン薬局、キンコーズ、白木屋」がどこでもあり、それが浦が見ている街かどうかわからないということもある。固有名詞が出てくるが街は固有ではない。それが「裂け目」を見えにくくする。
放火もそこから逃げる人々というのも、現実に存在すれば、「裂け目」を通り越して、もっと危険なのだけれど、そういう感じがしない。「危険」がない。どうせ、想像なのだ、空想なのだ、と安心して読んでしまっている。
「裂け目」が「裂け目」として機能していないのだ。
「どうしてこの男はわたしの耳を切り取ってくれないのだろう」という驚いていいはずのことばも、次の「ぼんやり考えている」の「ぼんやり」の中にのみこまれ、ほんとうに「ぼんやり」としたもの、衝撃のないものになってしまう。
その「ぼんやり」は読者にとってと同様、浦自身にとっても「ぼんやり」である。
私たちは(浦と私は)、まず、この
をとおして「一体」になる。同一化してしまう。「裂け目」はぜんぜん見えてこない。禁煙を考える「あなた」と買うべきバッグを考える「わたし」のあいだに「裂け目」は存在するのに、それさえも「ぼんやり」してしまう。「対象」を見失い、「考え」という運動のなかでとけあってしまう。禁煙を考えることとバッグをどれにしようかと考えること、あなたとわたしには、違いが存在しないのである。
いや、違いは、いま書いたことば通りに存在しているはずなのだが、それは、
が違った店であるはずなのに、全部集まって「街」になり、街になったとたんに「違い」がのみこまれて「ひとつ」のものになってしまうのに似ている。
どれだけ固有名詞を並べても、それは単なる「区別」の「記号」。ものが存在するのではなく、「記号」が存在するだけだから、そこには「裂け目」はない。「記号」は、思考を簡便化する(合理化する/資本主義化する)方便だからね。
ね、「裂け目」がないでしょ?
あ、「裂け目」って、つまり「現実との境目」のこと。
そこに書かれていることばは、全部「現実」として「流通」していること--ということが、このあたりまで読んでくるとわかる。
だから。
煙草が値上がりするから禁煙するかどうか、というのも「流通思考」、「ずっと使えるバッグ」というのも「流通商品」。そこには「個性」(あなた、わたし=浦)の刻印がない。みんな「流通」してしまっている。
人間の存在そのものが「流通」商品みたい。
うーん、どうしよう。
ぜんぜん「裂け目」につながらないね。
ここから、さらに浦はことばを動かす。
えっ、何これ?
わからないものに私はぶつかる。「黒く黒く/深い穴だ」。それは「手のひらいっぱい」に空いている。
わからないけれど、これが「固有」の存在だね。これが「裂け目」だね。
わからないことは、私はわからないとしか書かない。
でも、この「わからない」のなかに「わかる」もある。それは浦がその「穴」を「手のひら」に見つけているということ。
「マクドナルド、スターバックス、コクミン薬局、キンコーズ、白木屋」ではなく、自分自身の「手のひら」。「肉体」。
目で火をつける--という想像のときは、何も起きない。でも、目ではなく、実際に火をつけるとなると、マッチがいる。(ライターかもしれないが。)そして、手が動く。その瞬間にこそ、「裂け目」ができる。
「裂け目」とは浦自身の「肉体」のことなのだ。
「肉体」はだれにでもある--と思っているかもしれないけれど、そうではない。「流通する肉体」(資本主義にとって都合のいい肉体)は、そこに存在するように見えるだけ。実際に、詩人そのものの「肉体」ではない。
そういうものを見つけはじめている(やっと、見つける、という行為の中に詩を感じている)浦が、この詩集とともに生まれている、といえる。
(書き切れないので、あしたつづきを書くつもり。)
水嶋きょうこの『繭の丘。(光の泡)』について感想を書いたとき、どこかに「裂け目」ということばがあったはずなのに見つからない--と書いた。その「裂け目」は浦歌無子『イバラ交』の中にあった。
「サヨナラココロガチルヨウニ」の最後の方に、
やっと見つけた裂け目
やっと見つけた裂け目
やっと見つけた裂け目から落ちてゆけるわ
という行が出てくる。
なぜこの行が水嶋の詩集の中にまで割り込んでくるくらいに印象に残っているのか。今回の浦の詩集には、実は私には「裂け目」が見えなかったからである。「裂け目」が見えないからこそ、あ、浦は「裂け目」を見ているのだと思い、びっくりしたのである。
水嶋の詩は「猿飛 Ⅰ」がそうであるように、現実を描きながらも、そこに突然猿が出てくるところに「裂け目」がある。ふつう、オフィスには猿はいない。「人間」が猿になってしまうことはない。そういう「非・現実」がいわば「裂け目」としてあるのに対し、浦の場合の「裂け目」は違う。
「やっと見つけた」というように、それはなかなか見つからない。その見つからない「裂け目」と浦は向き合っている。「裂け目」を「やっと」つくりだしている。その「やっと」に浦の詩がある。
「裂け目」よりも「やっと」こそ、浦が書きたかったものだろうと思う。
いや、「やっと」なんか書きたくなかったというかもしれない。「仕方なく」書いたというかもしれない。
そうなんだよね。でも、だからこそ「やっと」が今回の詩集のキーワードである。浦の「肉体」にしっかりしみついていて、「やっと」は書かなくても浦にはわかっていることがらである。ほんとうは書く必要がない。でも、思わず書いてしまった。しかも3回も繰り返している。
「やっと」がなくても「見つけた裂け目」がなくなるわけではないし、たぶん、詩の展開(ことばの意味)を追っていくときは「やっと」を省略して読んだ方が、「意味」がすっきりするだろうなあ。
いわば、余分。
でも、その「余分(余剰)」のなかに、詩がある。「肉体」と「思想」がある。
浦の詩を私が初めて読んだのは「骨シリーズ」の詩である。私がかってに「骨シリーズ」と呼んでいるのであって、浦がそう言ったわけではないのだが。その一連の作品では「骨」の名前が次々に出てきて、それがそのまま「裂け目」だった。浦と私の「裂け目」だった。私は骨の名前なんか知らない。その知らない名前にこだわってことばを動かしていく--そのときに見える「光景」がとても新鮮だった。
その「裂け目」は、しかし浦も「裂け目」として感じていたかどうかはわからない。皮膚と筋肉(脂肪も?)に包まれた「裂け目」からいちばん遠いものだったかもしれない。いまから思うと、そんな気がする。(これは、私の「感覚の意見」。つまり、テキトウなことを書いているのであって、論理的には説明できないことがら。)
「裂け目」と書きながら、その「裂け目」はとても見えにくい。「サヨナラココロガチルヨウニ」の書き出し。
地下鉄の駅まで送ってもらって
降り口の階段の前であなたとわたしは
闇にも光にも行き着くことができないで
ずっと立ち話をしている
あなたは煙草が値上がりするから
禁煙をしようかどうか迷ってるとか
わたしはずっと使えるちゃんとしたバッグを買いたいんだけど
どんなのがいいかなとか
話をしているあいだじゅうわたしは街に視線をさまよわせ
「裂け目」なんて、ないなあ。
むしろ、だらだらとどこまでもつづいている。何も考えずに書かれた学校の作文(仕方なしに原稿用紙を埋めていく作文)のようにさえ見える。
「闇にも光にも行き着くことができない」という行はちょっと「日常的」ではない、つまり「詩っぽい」けれど、ほかはまるで友達にこんなことがあったとずるずると語っているようなリズムである。
このあと詩は、
目にはいったお店にかたっぱしから火をつけてゆく
という「裂け目」のような、つまり「驚き」のある行をはさんで動いていく。
でも、
マクドナルド、スターバックス、コクミン薬局、キンコーズ、白木屋
燃え上がる店内を目で追いながら
逃げまどう人々の悲鳴を耳で聴きながら
どうしてこの男はわたしの耳を切り取ってくれないのだろうと
ぼんやり考えている
「裂け目」が見えない。少なくとも、私には見えない。
「マクドナルド、スターバックス、コクミン薬局、キンコーズ、白木屋」がどこでもあり、それが浦が見ている街かどうかわからないということもある。固有名詞が出てくるが街は固有ではない。それが「裂け目」を見えにくくする。
放火もそこから逃げる人々というのも、現実に存在すれば、「裂け目」を通り越して、もっと危険なのだけれど、そういう感じがしない。「危険」がない。どうせ、想像なのだ、空想なのだ、と安心して読んでしまっている。
「裂け目」が「裂け目」として機能していないのだ。
「どうしてこの男はわたしの耳を切り取ってくれないのだろう」という驚いていいはずのことばも、次の「ぼんやり考えている」の「ぼんやり」の中にのみこまれ、ほんとうに「ぼんやり」としたもの、衝撃のないものになってしまう。
その「ぼんやり」は読者にとってと同様、浦自身にとっても「ぼんやり」である。
私たちは(浦と私は)、まず、この
ぼんやり
をとおして「一体」になる。同一化してしまう。「裂け目」はぜんぜん見えてこない。禁煙を考える「あなた」と買うべきバッグを考える「わたし」のあいだに「裂け目」は存在するのに、それさえも「ぼんやり」してしまう。「対象」を見失い、「考え」という運動のなかでとけあってしまう。禁煙を考えることとバッグをどれにしようかと考えること、あなたとわたしには、違いが存在しないのである。
いや、違いは、いま書いたことば通りに存在しているはずなのだが、それは、
マクドナルド、スターバックス、コクミン薬局、キンコーズ、白木屋
が違った店であるはずなのに、全部集まって「街」になり、街になったとたんに「違い」がのみこまれて「ひとつ」のものになってしまうのに似ている。
どれだけ固有名詞を並べても、それは単なる「区別」の「記号」。ものが存在するのではなく、「記号」が存在するだけだから、そこには「裂け目」はない。「記号」は、思考を簡便化する(合理化する/資本主義化する)方便だからね。
ベーコンレタスバーガーがマックフライポテトMサイズが
キャラメルマキアートガモカフラペチーノが
バファリンA八十錠が新ロート目薬十五ミリリットルが
鶏なんこつのから揚げが刺身五種盛り合わせが
次々と炎につつまれてゆく
ね、「裂け目」がないでしょ?
あ、「裂け目」って、つまり「現実との境目」のこと。
そこに書かれていることばは、全部「現実」として「流通」していること--ということが、このあたりまで読んでくるとわかる。
だから。
煙草が値上がりするから禁煙するかどうか、というのも「流通思考」、「ずっと使えるバッグ」というのも「流通商品」。そこには「個性」(あなた、わたし=浦)の刻印がない。みんな「流通」してしまっている。
人間の存在そのものが「流通」商品みたい。
うーん、どうしよう。
ぜんぜん「裂け目」につながらないね。
ここから、さらに浦はことばを動かす。
ハサミを渡さなければいけないんだろうか
ハサミを渡すところまでしなければわかってもらえないんだろうか
ハサミを渡したところではたしてわかってもらえるんだろうか
あなたは大きなあくびをした目に涙をためている
燃え上がるモノたちにざんぶり水をかける
少し海の匂いのする水だ
つけた火を消してゆくのもわたしの水
そんなことを繰り返しているうちに
濡れてつかなくなったマッチを持ち右のてのひらいっぱいに
穴が空いていることに気づく
黒く黒く
深い穴だ
えっ、何これ?
わからないものに私はぶつかる。「黒く黒く/深い穴だ」。それは「手のひらいっぱい」に空いている。
わからないけれど、これが「固有」の存在だね。これが「裂け目」だね。
わからないことは、私はわからないとしか書かない。
でも、この「わからない」のなかに「わかる」もある。それは浦がその「穴」を「手のひら」に見つけているということ。
「マクドナルド、スターバックス、コクミン薬局、キンコーズ、白木屋」ではなく、自分自身の「手のひら」。「肉体」。
目で火をつける--という想像のときは、何も起きない。でも、目ではなく、実際に火をつけるとなると、マッチがいる。(ライターかもしれないが。)そして、手が動く。その瞬間にこそ、「裂け目」ができる。
「裂け目」とは浦自身の「肉体」のことなのだ。
「肉体」はだれにでもある--と思っているかもしれないけれど、そうではない。「流通する肉体」(資本主義にとって都合のいい肉体)は、そこに存在するように見えるだけ。実際に、詩人そのものの「肉体」ではない。
そういうものを見つけはじめている(やっと、見つける、という行為の中に詩を感じている)浦が、この詩集とともに生まれている、といえる。
(書き切れないので、あしたつづきを書くつもり。)
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