松尾静明「秋の終わりに」ほか(「折々の」29、2013年07月01日発行)
詩はむずかしいなあ、と思うのは、たとえば松尾静明「秋の終わりに」のような詩を読んだとき。
あ、だんだん消えていくトンボ。おもしろいなあ、と思ったら、
なんだ、薄らいでいくのはと「秋の陽」か。そうだったのか。まあ、それは常識的なことがらだね。でも、その常識的なこと(流通イメージ)も行替えのあるかないかだけで、驚きが違う。
そして、「そうだったのか」も単純な「そうだったのか」ではなくなる。
「薄らいでいくトンボ(死にゆくトンボ?)」と「薄らいでいく秋の陽」が重なる。どちらでもいい。いや、松尾が書いているのは、文法的には「秋の陽」だからこそ、そうではなく、トンポに肩入れ(?)したくなる。トンボの気持ちを読みたくなる。
というのは、松尾も同じなのだろう。松尾の場合は「読みたくなる」ではなく「書きたくなる」だけれど。そのどちらにしな、ここでは不思議な「一体化」が起きている。秋の陽のことを書いてあるけれど、それにトンボが重なる。
だから、それが自然に、
松尾がしらずしらずトンボになってしまっている。これはいいなあ。松尾がしらずしらずにトンボになるように、私も知らず知らずにトンボになって考え込んでしまう。
ここまでは、非常によくわかる。
詩は、たぶん、ここまででいいのだと思う。でも、書いているひとは、それではちょっと不安。自分の思っていることをほんとうに書き切ることができたのか--これで私の不安が伝わるのか……。
で、どうしてもそれを説明してしまう。それが以下の部分。
「老いた男」は松尾の自画像かもしれない。トンボだけでは何か人間を描いた感じがしないので、どうしても人間を書き加えてしまう。「痩せた」人参、「歪んだ」牛蒡--その形容詞も「老いた」と同じく自画像に重なる。
うーん、これでは、あたりまえの抒情詩、「流通詩」になってしまう。
さらに、そこに「思惟」という「理性」を持ち込むことで「感情」を洗い流し、抒情を洗練させたような気持ちになる。
これが、いけない。
「頭」が詩のなかで一人歩きをしてしまうと、せっかくの詩(ものの手触り、ものの個性)が消えて、抽象化した「意味」になってしまう。
最後の連、もう詩の前半にいたトンボはどこにもいないし、「老いた男」もいない。そこには「思惟」という抽象的な、どこまでも「流通」していく「意味」だけが取り残される。
こうなってしまうところに「現代詩」のむずかしさがある。
最初の3連だけならとてもおもしろいのに。もっともっと何か言いたくなる。勝手に「誤読」してつけくわえたくなる。その「誤読」したいという私の気持ちを、そのあとのことばが奪って行ってしまう。
いや、松尾がそういうことばを書きたい気持ちはわかるが、詩は、書いた詩人のものではないのだ。そのことばを読み、そのことばを必要としている者のものなのだ。
なんてことは、いうのは簡単で、実際に実行するのはむずかしいんだけれど。
少し違うのだけれど、八木真央「未来」についても、あることを思った。
その「人生」(人ではないのだから、「牛生」?)を思うとき、そこに八木の「人生」が二重写しになる。そしてその「二重性」のなかに「意味」が生まれる。「意味」とは違った存在を結びつける「ひとつの考え方」なのである。牛と人間は違う。けれども、生まれて働いて死んでいく--という「一生」を思い描くとき、生から死までの「共通項」が「意味」として動きはじめる。
それはそれでいいのだけれど。働いて死んでいくだけの「人生」の悲しみというのは、それはそれで書かなければならないことなのだけれど。
ちょっと視点を変えて、
という具合に、ほんとうはありえないかもしれないことを、ありうることとしてことばで動かしていった方がおもしろいのでは?
「人生(牛生)」が限定されているとしたら(限定されているからこそ)、ことばでそれを突き破って、別の角度から世界をみればおもしろいのになあ、と思う。
詩人が書きたいこと(書こうとしたこと)と、それを「誤読」したいひととの思いは違うのである。
詩はむずかしいなあ、と思うのは、たとえば松尾静明「秋の終わりに」のような詩を読んだとき。
木杭の先にとまってトンボが
裸木の肌をつたって薄らいでいく
あ、だんだん消えていくトンボ。おもしろいなあ、と思ったら、
木杭の先にとまってトンボが
裸木の肌をつたって薄らいでいく
秋の終わりの陽を見ている
なんだ、薄らいでいくのはと「秋の陽」か。そうだったのか。まあ、それは常識的なことがらだね。でも、その常識的なこと(流通イメージ)も行替えのあるかないかだけで、驚きが違う。
そして、「そうだったのか」も単純な「そうだったのか」ではなくなる。
「薄らいでいくトンボ(死にゆくトンボ?)」と「薄らいでいく秋の陽」が重なる。どちらでもいい。いや、松尾が書いているのは、文法的には「秋の陽」だからこそ、そうではなく、トンポに肩入れ(?)したくなる。トンボの気持ちを読みたくなる。
というのは、松尾も同じなのだろう。松尾の場合は「読みたくなる」ではなく「書きたくなる」だけれど。そのどちらにしな、ここでは不思議な「一体化」が起きている。秋の陽のことを書いてあるけれど、それにトンボが重なる。
だから、それが自然に、
ふと
トンボは 身震いをする
--どうして ここなのか
羽に 肌寒さが纏わりついてくる
--どうして この位置なのか
松尾がしらずしらずトンボになってしまっている。これはいいなあ。松尾がしらずしらずにトンボになるように、私も知らず知らずにトンボになって考え込んでしまう。
ここまでは、非常によくわかる。
詩は、たぶん、ここまででいいのだと思う。でも、書いているひとは、それではちょっと不安。自分の思っていることをほんとうに書き切ることができたのか--これで私の不安が伝わるのか……。
で、どうしてもそれを説明してしまう。それが以下の部分。
木杭の先から
農道の降っていく老いた男の姿が見える
痩せた人参と 歪んだ牛蒡を提げて
ゆるい風のように歩いていく
ふいに
確かに 先ほどまで そこに居たのに 男は
夕暮れの村の底へ掻き消えた
トンボは
急いで そこを飛び立つ
見えない思惟を持つもののその思惟に
からまれてしまう前に
そして
見えない思惟を持つものが
己の思惟がもつ酷たらしさに気づいて
どうしようもなく身悶えて
季節を変えていく前に
「老いた男」は松尾の自画像かもしれない。トンボだけでは何か人間を描いた感じがしないので、どうしても人間を書き加えてしまう。「痩せた」人参、「歪んだ」牛蒡--その形容詞も「老いた」と同じく自画像に重なる。
うーん、これでは、あたりまえの抒情詩、「流通詩」になってしまう。
さらに、そこに「思惟」という「理性」を持ち込むことで「感情」を洗い流し、抒情を洗練させたような気持ちになる。
これが、いけない。
「頭」が詩のなかで一人歩きをしてしまうと、せっかくの詩(ものの手触り、ものの個性)が消えて、抽象化した「意味」になってしまう。
最後の連、もう詩の前半にいたトンボはどこにもいないし、「老いた男」もいない。そこには「思惟」という抽象的な、どこまでも「流通」していく「意味」だけが取り残される。
こうなってしまうところに「現代詩」のむずかしさがある。
最初の3連だけならとてもおもしろいのに。もっともっと何か言いたくなる。勝手に「誤読」してつけくわえたくなる。その「誤読」したいという私の気持ちを、そのあとのことばが奪って行ってしまう。
いや、松尾がそういうことばを書きたい気持ちはわかるが、詩は、書いた詩人のものではないのだ。そのことばを読み、そのことばを必要としている者のものなのだ。
なんてことは、いうのは簡単で、実際に実行するのはむずかしいんだけれど。
少し違うのだけれど、八木真央「未来」についても、あることを思った。
テレビで 牛の群れが草を食んでいる
スーパーの店頭で 二割引かれて消滅する未来が
待っているとも知らずに
だらしなく唾液を滴らせ
平たい人生を 下顎を捻じりながら
咀嚼している
その「人生」(人ではないのだから、「牛生」?)を思うとき、そこに八木の「人生」が二重写しになる。そしてその「二重性」のなかに「意味」が生まれる。「意味」とは違った存在を結びつける「ひとつの考え方」なのである。牛と人間は違う。けれども、生まれて働いて死んでいく--という「一生」を思い描くとき、生から死までの「共通項」が「意味」として動きはじめる。
それはそれでいいのだけれど。働いて死んでいくだけの「人生」の悲しみというのは、それはそれで書かなければならないことなのだけれど。
ちょっと視点を変えて、
テレビで 牛の群れが草を食んでいる
スーパーの店頭で 二割引かれて消滅する未来が
待っているとを知って(知り尽くして)
という具合に、ほんとうはありえないかもしれないことを、ありうることとしてことばで動かしていった方がおもしろいのでは?
「人生(牛生)」が限定されているとしたら(限定されているからこそ)、ことばでそれを突き破って、別の角度から世界をみればおもしろいのになあ、と思う。
詩人が書きたいこと(書こうとしたこと)と、それを「誤読」したいひととの思いは違うのである。
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