詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「千人のオフィーリア」(21-40 )

2013-10-26 10:43:22 | 連詩「千人のオフィーリア」
                            矢ヶ崎 正
はらはらと落ち葉が舞ったようでいて
よく見ればそれは紙吹雪だった
「おめでとうございます。
あなたは地球百兆回転目の訪問者です!」
わたしは訪問者なんかじゃないと
オフィーリアは思ったが
くす玉を割って迎えられ戸惑うばかり

                            谷内修三
折鶴をほどいて平たい紙にしているのは誰?
残った折れ線を手のひらに重ね合わせているのは誰?

                            市堀 玉宗
水を売る女淋しき月の路地

                           小田 千代子
晩秋はつるべ落としにこぼれ萩 決して太らぬ月を観ている

                          キタダヒロヒコ
千人のオフィーリアは月の裏に住む王を想ふ
膝まで覆ふ草ぐさの吐く真昼のエゴイズム
彼女たちの腰骨で螺旋のやうに死ねば本望
ほそいほそい光合成が遠い手紙のなかで繰り返す
ただ千人のピカソだけが信頼を得て肖像(にがほ)を描き
はるかな場所で暴かれる日を待つてゐる

                           坂多 瑩子
恋夢見まっさらな十月抱きしめて

                           小田 千代子
箸あらう女にあたる幻夢の月の
蒼き光は胸絞るだけ

                          キタダヒロヒコ
真水で描いた月のにほひは消えやすく
うたごゑなびく女子感化院

                            山下 晴代
「尼寺って、どちらの尼寺ですの?」

                             谷内修三
瀬戸内寂聴のところだけはいやだわ。
誰にでも過去はあるけれど、
過去は物語じゃないんだもの。
ことばにとじこめられるのは、
死ぬより悲しいわ。
ことば、ことば、ことば、
word word wors
ことばはみんな嘘つきよ。

                             茸地 寒  
菜切り包丁買ひ来し夜の流星 

ロマの娘たちにまじって
その子は 浮かんでいる。それは
南禅寺の水道橋の上だったり

モネの睡蓮の池だっりした。

                               市堀玉宗
いはれたるまゝに一文字買ひしのみ

                                金子忠政
尽くそうとして過剰になる
言葉の応酬が
じとじとのうつろを編み上げる


                                田島安江
路地を抜けてすぎる
あなたの後ろ姿を
明るい陽が追っていく
明るい言葉が
あなたの影を染める

                                市堀玉宗
木漏れ日に浮かび出でたる秋の蝶

                                谷内修三
それはきのうのオフィーリア、あしたのオフィーリア
そして五年前の、百年前のオフィーリア、
十億年前は誰もいない草原で光と風に酔い、
千年先には異国の街でジュリエットになると信じていた。
それは一万日あとの憧れいづる泉式部、
三日目の雲居にかくれる紫式部のあまたある女御、

                           橋本 正秀
とめどなく落ち続ける星屑に埋もれる千人のオフィーリア。彼女らの光る眼に星屑がきらめき覆う。

                           金子忠政
かっ、と眼を見ひらいたまま
くるくる落ちていく
落ちていく
「哀しき狂乱のひと」、それも類?
すべてのオフィーリアたち
音もなく襲いかかる大気に
心砕かれ深い淵に投身していく
硬雪のようなしんたいたち
冷たくまばゆい白に輝いて
迷宮を描き降下していく
忘却の河、そう、歴史の真っ只中を

                             市堀玉宗
まぐはひの女落ちゆく銀河かな

                             矢ヶ崎 正
千人のオフィーリアには千の星
それらはみな遠い宇宙の隅々にあって
誰かしらを見守っているようだ
だがそれは ひとから見た風景であり
本当のオフィーリアを知ったことにはならない
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田中清光『夕暮れの地球から』

2013-10-26 10:33:11 | 詩集
田中清光『夕暮れの地球から』(思潮社、2013年10月10日発行)

 田中清光『夕暮れの地球から』を開いて読みはじめた瞬間、あ、詩なんだ、詩集なんだ、と思う。詩集なのだから、それがあたりまえなのだけれど……。
 ことばそのものが、詩、をしている。
 現実と向き合い、現実と交差していることば、というよりも、現実は現実でも「精神の現実」とことばが向き合っている。ことばが「精神」を反映している。「詩は志を書くもの」という定義に通じるような潔癖さがある。
 巻頭の「永劫」の書き出し。

手弱女(たおやめ)の衣もさびれ
アンドロメダをおもいうかべる夕べ
岩にしがみつくやさしいすみれよ

 「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」がいっしょに存在する「場」を私は「日常」のなかでは知らない。「手弱女の衣」の「さびれ」というものを、私は肉眼で見たこともない。
 「現実(世界)」が何かの力で内部から破壊され、その散らばった断片を見るような感じがする。--あくまで「感じ」であって、実際にそういうものを見たわけではないのだから、まあ、いいかげんな感想なのだけれど。
 で、その破壊と、さらに断片をつないでいるもの(いくつもの断片のなかから「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」を選んでくるもの)は何なのかと考えたら、そこに田中の「精神」というものがふと浮かんでくる。
 田中の精神が「現実世界」を内部から破壊し、新しく世界を造り替えようとしている。こういうことは2行目の「おもいうかべ」ということばが象徴的だが、実際にできるわけではなく、あくまで「思い浮かべ(想起)」のなかで起きることなのだが、その「想起」ということを思うと、そこに「精神」が浮かび上がってくる。
 「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」を射程とする精神。
 うーん。精神を「教養」と呼んでもいいのかもしれない。蓄積された教養がつくりだすひとつの「理想郷」と「現実」がぶつかり、「現実」を破壊し、「いま/ここ」にない新しい「宇宙」をつくろうとしている。その想像のエネルギーというもの、充満する精神の力というものを感じる。
 「教養」というものは2連目へ行くともっと前面に出てくる。

プラトンの饗宴をひらくと
そこにはソクラテスが座っていた
荒れ果てた季節のいまは
ダンテの地獄篇の丘にいるようだ
なぜダンテを読みながら
現世を徘徊しなければならないのか
問いつめれば問いつめる程
変わりつづけるものがうかぶ

 「現世」は私のことばでは「日常(現実)」になるかな?
 そういうものが一方にある。そして他方に、それとは切り離されたプラトン(ソクラテス)、ダンテのことばの世界がある。その確立されたことばは、いわば「世界」である。「ことばが世界」なのだ。それが「精神」なのだ。「確立されたことばとしての世界」が「精神」。めれは「確立されている」から「変わらない」。「現世」は「変わりつづける」が「確立された精神」は「変わらない」。
 その「精神」が「現世」と向き合うとき、「現世」は切断というより、内部から破壊されるという感じ。「変わる」ものを怒って、精神が「変わる」を中断させる。そして、新たに「確立」するのだ、世界を。
 そして、そんなふうに破壊され散らばっていく断片は、いわば破壊された内部に存在する「精神」を映す「鏡」のようなものである。

 ここには精神があるのか、精神を映す鏡があるのか--ということを、少し考えるが、うーん、脱線して、取りかえしがつかなくなってしまいそうなので、きょうは「メモ」として残しておくだけにする。

 新しく構築される世界は「精神」そのものを内部にもっていて、それが世界を統合するのだ。その荒々しい「構造」としての世界、空間をいたることろに抱え込んだ世界--いいかえると、「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」の「接続」はべったりとくっついていない。離れたままつながっている。--その「空間」の自由のようなものが詩の自由と重なるのかもしれない。だから、詩、を感じるのかもしれない。(あ、飛躍の多い、非・論理的な文章だねえ……。)

 でも、精神はなぜ、そんなことをするのだろう。「現世」を破壊して、世界を造り替えるとき、その世界は「現世」とはどう違うのか……。
 考えるとややこしいので、さらに飛躍してしまう。
 最終連。

人間の終わるところに永劫が始まる
永劫は永劫のなかにある
樹も立ったまま灰になることができるが
神神のあるく風土記から
失楽園までの道のりは長い
文人墨客に逢うのはその涯てだ

 「精神」は「永劫」と向き合うのである。「永劫」をつくりだしていくものが「精神」なのである。「永劫」とは「ことばで確立する世界」である。
 すると「現世」は「ことばで確立する世界」とは違ったもの?

 そうかもしれない。

 うーん、そういう世界、そういう世界をつくろうとする「精神(至上主義?)」は、私のいつも考えていることとは違うので、賛成したくないのだが、強いことばに引きずられるなあ。
 これは手ごわい詩だぞ、と私の「感覚の意見」は主張している。
 あしたまた考えてみよう。






夕暮れの地球から
田中 清光
思潮社
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