詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中清光『夕暮れの地球から』(2)

2013-10-27 12:12:56 | 詩集
田中清光『夕暮れの地球から』(2)(思潮社、2013年10月10日発行)

 田中の「精神至上主義(教養主義)」は少し西脇順三郎に似ている。「永劫」ということばなんかが出てくるから余計にそう感じるのかもしれないが。そういう「精神的(抽象的?)」なことばのほかにも、たとえば、行の転換の仕方が西脇を感じさせる。
 「夕暮れの地球から」の2連目。

弔辞を読みに武蔵野へ帰ろうとする
もう秋は深いがいつまでも悲歌を書いているわけにもゆくまい
凋落のながれの止まらないなかを
近代人は犬のように走っきた
亡びる前なのか
もうおそい ということばかりの
この世なのに
ケヤキの枝葉の音
自然は人間を作り人間を亡ぼす

 「ケヤキ(自然)」を導入し、非情の美を刻み込む。このことばの運動が西脇を感じさせるのだけれど、ちょっと違う。この「ちょっとの違い」を「感覚の意見」で言いなおすと、「音楽」が違う。
 西脇のことばには「音楽」があり、その「音楽」が「肉体」を感じさせる。ことばを発する喜び、喉なのか、舌なのか、口蓋なのか、鼻腔なのか、あるいは耳の螺旋階段なのかわからないけれど、何かしら「肉体」を喜ばせるものがあって、私は「意味」を忘れてしまうのだけれど、田中の詩の場合、どうも「意味」が残る。
 3連目。

自然の法則に人間は苦しむ
古代人にはじまる隔世遺伝をかかえて
実験のまぼろしに憑かれた人びとよ
地獄の季節もいつのまにか過ぎゆき
ボードレールの亡霊はどの辺りに立っているのか
フォートリエの苦苦しい不安な顔の絵にも前世紀の清算をできずにいる

 「地獄の季節」(ランボー)とボードレールが近すぎる。近いなら近いで「近く」をもっと濃密にすれば違ってくるかもしれないけれど、そこからフォートリエ(絵画)へ移行し「苦苦しい不安」とつないでしまうと、ランボーもボードレールも「意味」になってしまう。
 ことばは「意味」を書くものなのかもしれないけれど。
 うーん、と私は立ち止まってしまう。
 でも、その次の連は、私は好きなのだ。

梨畑から這い出してきたトカゲが舌を出す
江戸川の崖のほとり
白秋も荷風も寝ころんでいたろう
芳醇な江戸の酒に酔ってしまったまま--
セザンヌのくるしみは何よりも山と樹に向けられた
植物的な植物の隠語を調べていて八幡の藪知らずに迷い込む
デカルトがいつもおそれた時間に
手紙が届けられてくるが
女たちから
接ぎ木してもらって生きてきたわれら

 まず「トカゲ」。これがおもしろいのは、その爬虫類という生き物の存在自体を超えて、「舌を出す」という動詞があるからだ。動詞/動作によって、トカゲが「人間」の肉体を刺戟する。トカゲなのにトカゲを超える。人間の動きが重なる。そこへ白秋、荷風が現れるのだけれど、そこにも「寝ころんで」という動詞(動作)がある。
 「意味」ではなく、「運動」があるのだ。運動というのはリズムがある。リズムがあるところには「音楽」の始まりがある。
 セザンヌの行も「向けられた」という動詞(動作)によって、それはセザンヌだけのものではなく、セザンヌを見た人のものになる。私たちは「意味」に自分を重ねるのではない。そこに生きて動いている人に、自分の「肉体」を重ねる。
 「苦しみを」「山と樹に向けられた(向けた)」ということばも「苦しみ」が感情(精神?)であるにもかかわらず「向ける」という別の動詞(苦しみを苦しむ、という動詞とは別なもの)のなかで動かすとき、感情(精神)以外のものも動いて、それが人間を救うのだ。「意味」ではなく、「運動」。
 で、そういう「運動」がはじまると、ことばも知らず知らず「運動」のなかに音楽がしのびこんでくる。音楽を生み出してしまうのかもしれない。「植物的な植物」というのはあまりにも西脇的音韻だが、「八幡の藪知らず」の「や」の繰り返しは、「声」が笑うね。うれしいなあ。
 「デカルト」以後は、また「意味」になるので、ちょっと窮屈だなあ、と感じるけれど。

 あ、感想がばらばらだね。
 田中のことばには「精神」が主導になって動く部分と、それを「肉体」がぐいと押さえ込む部分があって、私は、その「肉体」がもっと前に出てくるとおもしろいのになあ、と思う。
 (きょうは中途半端な書き方になったので、あす、もう少し書くかも……。)




夕暮れの地球から
田中 清光
思潮社
コメント
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