詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中清光『夕暮れの地球から』(3)

2013-10-28 08:37:15 | 詩集
田中清光『夕暮れの地球から』(3)(思潮社、2013年10月10日発行)

 田中清光『夕暮れの地球から』を読んでいて、不思議な「しっくりこない感じ」を受ける。特に「外国」が出てこない(?)ことばが、どうもしっくりこない。
 「生命(いのち)」。

見えなかったもの
見えずにいたもの
不可逆とされていた時の流れを遡ること

未知から未知へ 人間の発生の秘密をこじ開け
どこまでも突き進もうとする人が現われたこの世
東洋人のはしくれの自分も
どうしてここに来たのか
ここに居るのか と考えさせられている

 日本語で書かれているのだけれど、日本語という感じがしない。「不可逆」とか「未知」ということばが外国語のように聞こえる。言い換えると、「意味」はわかるけれど、その「意味」が「頭」のなかでとどまってしまう。
 これは田中の問題ではなく、私の問題なのだと思う。私は「未知」とか「不可逆」ということばをつかって考えないのだと気がついた。
 変な言い方になるが、たぶん、「不可逆」だとか「未知」ということばが「名詞」であることが、私にはなじめない(しっくりこない)のだ。
 きのう読んだ

梨畑から這い出してきたトカゲが舌を出す

 この1行はとてもしっくりきたが、それは「舌を出す」という動詞(動作)のなかに「肉体」を感じたからである。
 「不可逆」「未知」も「動詞」として書かれていたなら、私は、ぐいと引き込まれたかもしれない。
 「名詞」で情報(?)を整理すると、とても「便利」である。「合理的」である。てきぱきと「こと」がかたづく。でも、それがなんといえばいいのか、「頭」で「肉体」をむりやり整えている感じがして、何か抵抗を感じる。
 あ、これは「感覚の意見」なので、ちょっとそれ以上は説明できないのであるが。
 「動詞」で語れる部分は「動詞」で語る--ということ。語ってほしいなあ、と思うる。そうすると、田中のことばは私にはもっとわかりやすいものになる。
 で。
 いま書いたことと、微妙な関係にあるのだけれど、「一滴の水」のなかに井筒俊彦のことばが引用されている。

阿頼耶識(あらやしき)の
「「無」の境位を離れて、これから百花繚乱たる
経験的事物事象の形に乱れ散ろうとする境位」の
蔵する双面性 背反性に
言葉も出たり入ったりする
その深淵とどこで通底するのか

 井筒俊彦のことばは「「無」の……」の2行なのだけれど。
 何が書いてあるかというと、私にはわからないのだけれど、それでも引きつけられる。それは「離れて」「乱れ散ろうとする」という「動詞(動作)」がきちんと書かれているからだと思う。ほかの部分は「漢語(名詞)」なのだけれど、動きは日本語。そのために、そこにひきつけられて、何が書いてあるかわからないにもかかわらず、「わかる」。
 一方、田中のことばは「動詞」であっても、「通底する」という具合に「名詞派生」の動詞であるため、
 うーん、
 「頭」では「意味」を追いかけることはできる。「意味」は「存在の底(基本)を通う(通じる)」くらいのことだろう。でも、それが「通底する」となると、「肉体」が離れていくんだなあ。「通底する」ということばは「流通言語」であって、誰でも知っていることばなんだろうけれど。(私も知っているのだけれど……。)
 で、私の「感覚的意見」は、「通底する」という便利なことばは、「阿頼耶識」というような複雑な「概念」を理解するときにはとても有効だけれど、それを「肉体」でつかみ取るのはむずかしいんじゃないかなあ、と主張するのである。私は井筒哲学を勉強したわけではないので、あくまで「感覚的意見」なのだけれど、そういう「未分化」の領域へ踏み込んでいくには、もっと、「肉体」そのものの、ねばっこい動きじゃないと、「未分化」は「分化(分節)」してしまって、なくなってしまうのではと、なんとなく思うのである。
 あ、田中はなんでも知っているんだ、「頭」でいろいろなことが整理されているのだと感じる--その感じが、なんとなく「違和感」を呼び覚ます。
 これは言い換えると、私が無知、何も知らないだけということになるのだけれど。

 で、その無知な読者からみると、「裂傷」という詩は、好きだなあ。

ヴォルスがこの世に置いて行った言葉がある
「人間は自然にとっては無用のもの」

彼の手が生み出した銅版画をみると
どこにでも繊毛が拡がりつづけ
そのつぐむ網の目には
ひとの頭の細部から 痛む神経 植物のからみあう根
存在にまつわるおびただしい根毛が蠢いている

 ヴォルスを私は知らないけれど、その銅版画を見たことがないけれど(あるかもしれないけれど、肉体がおぼえていない)、その銅版画が「見える」。つまり、「肉体」が「おぼえている」何かが、かってに動き、「いま/ここ」に存在しない版画を「思い出させる」。細かい繊毛のような線が拡がり、絡み合っている。蠢いている。ヴォルスは、そのちょっと不気味なような、暗いような何かで、整理されえない何かを具体的にあらわそうとしたのだな、と感じる。「もの」であると同時に「感じ」である、何か。「もの」と「感じ」がいっしょになっている何か、切り離せない何か。それが、「わかる」。
 これは「拡がる(拡がりつづける)」「つむぐ」「痛む」「からむ(からみあう)」「蠢く」という動詞が「肉体」を刺戟し、「肉体」が「おぼえていること」を引き出すからだね。そして、その動詞は「名詞」のように明瞭にはなりきれない何かをつかんで、「肉体」へ引き入れる。
 これは「危険」なことなのだけれど、その「危険」のなかに、美しい詩がある。--と、私の「感覚の意見」は主張する。

 田中のことばが、もっと「動詞」に近づくとき、この詩集の作品群はとても音楽的になる--とも思う。
夕暮れの地球から
田中 清光
思潮社
コメント
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