詩と「マッチョ思想」の関係(阿部嘉昭の場合)
私は阿部嘉昭『ふる雪のむこう』に「マッチョ思想」が感じられる、と書いた。私のいう「マッチョ思想」とは「流通概念(既成概念)」を流用し「頭」でことばを動かすという態度である。自分の肉体で考えるのではなく、他人の考えたことば(社会に流通していることば)を借りて、その「流通している考え」で「頭」を補強すること。「権威主義」にも通じる。
これに対して、阿部は、
と定義している。
私の考えとは正反対である。私は、「自己のみを基準とした」ことばを「詩」と定義している。それは「前近代的」であるかどうかはわからないが、個人の直接性がある。「近代/現代」というもので武装していない無防備がある。
私は阿部の定義する「マチズモ」で阿部の詩に「マッチョ思想」が感じられると書いたのではない。むしろ逆である。「自己のみを基準」とせず、「権威(流通する概念/流通を獲得した概念)」と「頭」で判断しているものを流用し、寄りかかり、ことばを動かしているから、それを「マッチョ思想」と呼んだのである。別な言い方をすると、「流通している他人の思想」で武装することを「マッチョ思想」と呼んだのである。
女は男に従っていれば幸福である--というような「流通概念」で女性に向き合う人間を「マッチョ思想」の持ち主という。その考え方は、その人が、ひとりの大切な人間と向き合うことで、手探りでみつけだした指針ではなく、彼が育ってきた過程で聞かされてきた「流通概念」である。そういうものが感じられるとき、私はそのひとの考えを「マッチョ思想」と呼ぶ。その人が、自分だけの肉体で、いま目の前にいる女性との関係で作り上げてきた考え方なら、それがどんな関係であれ、それを私は「マッチョ思想」とは言わない。その考えに私は与することはしないが、それが個人的なもの、個性であるかぎりは「詩」であると思う。
で、これから書くことは「矛盾」に見えるかもしれないけれど、阿部の詩集のことばよりも、私に対する阿部のことば・批判の方が私には「詩」に感じられる。そこには「マッチョ思想」としか呼べないものがあふれかえっている。こんなに「マッチョ思想」を書きながら、自分を少しも「マッチョ」と感じていないのは、「マッチョ」が「肉体」になってしまっているからである。「流通/権威」と自分を同一化し、そこに安住し、その「権威」を押しつける。
これは、笑える。
『ふる雪のむこう』を読んだときは、阿部のことばに「マッチョ思想」を予感したのだが、その後の発言は「マッチョ思想」と私が呼んでいるものそのものである。(繰り返しておくが、それは阿部が「マチズモ」と呼んでいるものとは違う。阿部は、自分の行動を「マチズモ」の対極にあると考えている。)
私が阿部のことばから感じる「マッチョ思想」。
笑いすぎて、阿部のことを大好きになってしまった。詩集よりも、はるかにおもしろい。阿部って、こんなに生き生きとした人間だったのだ。
思想の定義はさまざまだから……。
この文章を読んでいるひとが、私と阿部の「マッチョ思想(マチズム)」のどちらを自分自身の立場とするか、私は何も言わない。「スタンス」の違いは大切である。「スタンス」が違う、ということろからしか出発できないからね。
私は阿部の文章に大笑いしたが、その笑いが不謹慎と思うひともいるかもしれないけれど、まあ、以下のようなこと。(かなり長いよ。)
(1)
でも、詩の舞台は大学だっけ? 学生や教授がでてきたっけ? そこに大学に関することばが重要な位置を占めていたっけ?
学生のことばであろうと、高校生のことばであろうと、大学以外の職場で働いているひとのことばであろうと、それは詩にとっては関係がない。肩書を取り払って「無防備」にして、そこに書かれていることばと向き合うというのが、私の方法だけれど、これは「前近代的」であり、「暴力的」なのか。
いいなあ、この「肩書」こそがその人の価値。詩の価値は「肩書」によって保証される。「マッチョ思想」そのものだねえ。
私は「ことば」に「肉体」を感じたとき、それを詩と呼ぶのだけれど、阿部は「肉体」を覆い隠す「肩書」を発見したときに、それを「詩」と呼ぶんだね。
阿部にとっては「裸の肉体」は「前近代的」で「暴力的」、「肩書」が人間の「核心」、「基本」。そういう意味では、「肩書」こそが阿部の「肉体」である。阿部は、いつでも自分が「大学教授」であることを意識している。無意識に。つまり、それが意識とは思わないくらいに、「肉体」そのものとして「実感」している。
前回引用した阿部の発言には「博士課程」のひとが登場したし、また別のことろでは、「大学の教員」が阿部の詩の雪を認めてくれたと書いているが、「大学教授」や「博士課程」のひとが言えば、それが阿部の作品を正しく評価したことになるのかな?
大学教授の書いていることばだから、それは尊敬されるべきである--という感じの「権威主義」がそこにある。こういう「権威主義」を私は「マッチョ思想」と呼ぶ。でも、もちろん、阿部はそう呼んでいないよ。「権威主義」を「マッチョ思想」とは反対のもと信じきっている。
(2)
現代詩手帖の「今年の収穫」のアンケートの「回答権」なんて、あったのか。知らなかった。それをもっているか「剥奪された」かは、詩を読むこと、詩への感想と関連しているのか。知らなかった。
でもさあ、その「回答権」とやらは、どうやったら獲得できるのかな?
阿部はたぶん、こう考える。いい詩集を出し、いい評論を書いて、「現代詩手帖」の編集部が、あるひとを詩人・批評家と認定したら、その「回答権利」を与えられる。それをもっていることは詩人・批評家のステータスなのだ。「回答権」は「大学教授」の肩書のように、詩人にとって不可欠なものなのである。
谷内と違って、阿部は「回答権」をもっている。だから阿部の方が正しくて、権利をもたない谷内が阿部の詩に対して批判めいたことを書くのは暴力的。いわば、下克上ということになるのかな? 「現代詩手帖」編集部の認定したヒエラルキーを否定することは許されない。「現代詩手帖」編集部のつくっているヒエラルキーの、どこにだれが位置するか。それを判断して詩を読むべきである、詩集の感想の有効性を判断すべきである。すごいなあ、この「権利」に対する感覚は。「権威」に対する信望は。
こういう「権威主義」(権威への寄りかかり)を私は「マッチョ思想」と呼ぶのだけれど、阿部は逆。そういう「権威主義」に組み込まれていない人間は「前近代的」。
「権威」のヒエラルキーは、「今年の収穫」に収録されかどうかも関係するようだね。
「今年の収穫」の掲載基準が何か私は知らないけれど、アンケートの回答もそのひとつなのかな? だから「回答権」を剥奪された谷内に詩集を送っても自分の作品に一票(?)が入るわけではない、だからやめよう。むだである。
うーん、この「功利主義」はわかりやすくっていいなあ。「合理主義/資本主義」にぴったり合う。
「合理主義/権威主義」から落ちこぼれた谷内は、「前近代的」で「暴力的」だからである。「大学教授」の肩書を持ち、「権威主義」の一員になっている阿部のいうことを聞きなさい、というのが阿部の主張のようだけれど。
拍手,拍手,拍手。(爆笑、爆笑、爆笑)
こんなわかりやすい「マッチョ思想」は、とても貴重だ。「マッチョ思想」が「頭」からあふれだして、全身にみなぎっている。「マッチョ思想」が「肉体」になってしまっている。「マッチョ思想」が阿部にとっての「肉体」だから、「頭」で考える「思想」はまた別なもの。「マッチョ」とは無縁の、とっても高尚なもの、ということなんだろうなあ。
そして高尚なことを考えられない谷内こそが「マチズム」を具現化している、ということなんだね。
(3)
私の感想を読むことで、いったい、詩集の売れ行きがどうかわったのかなあ。
私はよくわからない。だいたい、私が「この詩集にはマッチョ思想が感じられる」と書いた詩集って、阿部の詩集以外の、どの作品があるのかなあ。具体的な例を阿部が書いてないので、なんとも判断しようがないけれど。ブログをちょっと見てみたら、私は詩集の感想を1554回書いている。同人誌などの詩の感想を1241回書いている。私のブログへのコメントは非常に少ないけれど、そうか、私はのべ2千人以上のひとの作品の「逆パブ」(これって、何語?)をしてきたのか。それでみんな怒ってコメントを書き込まないのか。
まあ、これは阿部が具体的に何人と書いていないから、よくわからない。阿部が何人のひとから「私も谷内の感想の犠牲者です」と言われたのかわからないけれど。
それよりも、「マッチョ思想」という点で私が問題にしたいのは「詩書出版の版元のみなさま(思潮社、土曜美術のかた)」という呼び掛け、名指し。なぜ、阿部が自分自身でしないのかな? 谷内のこの発言は、この詩集の「逆パブ」になっている。だから、今後詩集を送ってはいけない、となぜ言わないんだろう。
あ、そうか。阿部は、「私は思潮社、土曜美術社のひととも連携できる」、そういう「信頼を得ている」ということを強調したいんだね。知り合いがいる。詩集出版について「権威」をもっている会社ひとと知り合い。だから、阿部にも「権威」がある、ということをいいたいんだね。同時に、そういう「権威」の力を借りて、「権威」とは無関係に感想を書いている私を批判しようとしているんだね。
「権威」あるものが「権威を持たない谷内(アンケートの回答権を剥奪されている)」を批判し、「権威を持たない谷内」を閉め出すことは、「権威」をもっている人間を守るために必要不可欠のことである。
ほう。「権威を持たない谷内」のひとことが、そんなに阿部の「権威」を傷つける? 私は「権威」なんて知らないからよくわからないけれど、なんだか「権威」ってひ弱だね。だから、「権威」が集合して「権威主義」で武装し、「権威」以下のものを「前近代的、暴力的」と宣伝するのだね。
いやあ、「マッチョ思想」の根幹がますます見えてくる。
うれしいなあ。阿部がいらいらして怒りまくっている姿が見える。かわいいなあ。好きだなあ。こういう単純な行動は、がき大将だってしないなあ。
他人を動員し(子分を、ではないところが、がき大将とは違うが)、行動を組織化する、組織で気に食わないものを排除する。その、あくまでも「体制(権威)」を必要とするところが、私に言わせれば「マッチョ思想」なのだけれど、阿部にとっては、そういう組織化は「近代的/現代的(前近代ではない)」という証拠であり、「現代的」だから「マチズム」とは無縁ということなんだね。
阿部の「非・マチズム」は私からみると「マッチョ思想」そのものであり、それがどんどん肥大していっているのをみると、興奮してしまう。この「マッチョ思想」どこまで暴走するかなあ。
どきどき、わくわく、はらはら。
先に書いたことと関係するけれど、「彼の記事を精査し、とりあげられたいろんなひとの苦衷を、そのひとの立場に立って顧慮していただければ」というのは、--いやあ、すばらしい。私は興奮してしまった。
私の詩に対する感想は2千篇を超えるのだけれど、全部読んでもらえたんですね。そして、私がだれそれを傷つけているということを阿部は確認してくれたんですね。私は、だれも読まない(読んでいない)と思っていたので、び、び、び、びっくり。
でも、そうなら、具体的にここが「逆パブ」になっていると指摘して、教えてほしい。それを知り合いの「版元」の思潮社、土曜美術社のひとに送るだけではなく、私のブログに批判コメントを書いてほしいなあ。(私の読むことのできない阿部のフェイスブックのタイムラインでもいいけれど--それでは、私は読めないからね。あ、ついでに書くと、自分の発言を隠しておいて、他人を批判するというのも私の考えでは「マッチョ思想」なんだけれどね)。そうすれば、多くの読者にすぐに阿部の主張の正しさがわかるのに。どうしてしないのかな? 出し惜しみ? 「権威」は安売りしない?
もし阿部が、私とは違って、2千人(2千篇)の作品を、それにふさわしい文章で評価しつづけるなら、そして、その結果、詩集のすばらしさに気づいた読者が詩集を次々に買うことになるなら。そして多くの詩人が阿部に感謝のコメントを寄せ、また出版社も利益が上がるだろうから阿部への尊敬が増すだろう。やっぱり、批評は阿部にかぎる。谷内なんかじゃだめ、ということになり、阿部の「権威」は一段とアップする。
これって、とってもいい方法じゃない? 阿部にとっても、詩を書くひとにとっても、出版社にとってもいいことで、一石二鳥どころか一石三鳥だね。どうして、そうてないのかな? それとも、もうしている?
でも、私の見方では、阿部はそういうことはしないなあ。
「精査」を「権威」に頼ってしまう。阿部の「精査」よりも版元の「精査」の方が「権威」があるということかな? あるいは、そんな「雑用」は版元にやらせておけばいい。阿部はもっと「権威」ある仕事に専念する、ということかな?
自分では何もしない。他人に頼って、他人のやったことを自分の「手柄」のように語る。こういうことを「マッチョ思想」と呼ぶ。自分で、きちんと対処できないことを他人に頼ってしまう。
(4)
「狂人」か。「アタマのわるい性格異常者」と、前には書いていたなあ。
「狂人」だから「警察に訴える」か。ぜひ、そうしてもらいたい。「警察」を私は単純に「権力」とは思わないけれど、ここにも自分でできることはしないで、他人の力に頼る阿部の姿勢が見えるね。
警察による「検閲」の復活、権力による言論の統制。--これは「マッチョ思想」の最大のものだね。一般的には「マッチョ思想」とは別の表現で批判していると思うけれど、私からは「マッチョ思想」に見える。「流通する概念」を利用して自分(体制)を補強すること。(体制に「人格」としてとらえて言うのだけれど。)
それは別にして。というか、ちょっと別なことを私は思ったのだけれど。
この言論の自由の時代に、筆者の気に入らない感想を書いたからといって警察につかまるなんてかっこよくない? そうなってみたいなあ。そして最高裁まで争って、無罪を訴えながら死んで行くなんて、かっこよくない? そういうこと、ぜひ、やってみたいなあ。私は「前近代的」な人間なので、そういう「妄想」を抱いてしまう。
私は阿部を批判するよりも、もう一歩進んで、言論弾圧機関と闘ってみたいなあ。かっこいいだろうなあ。その闘いの場に阿部が登場してきて、「私は大学教授である。詩の出版社の思潮社、土曜美術社に知り合いがいる。現代詩手帖の年鑑の収穫のアンケートに対する回答権をもっている」ということを根拠に、私を批判するのをぜひみたい。
私はうれしくて、法廷で大笑いするだろうなあ。「阿部さん、かっこいい。マッチョむき出しのところが、だれよりも輝いている」と自分の立場を忘れて、叫んでしまいそう。
私は、「警察権力」まで利用しようとする「マッチョ思想」を初めて知った。まぶしくて、目がくらみそう。
それはそれとして。
そこまで阿部の発言が正しいのなら。
「狂人の某氏が」云々。これは、卑怯な言い方だね。なぜ「狂人の谷内が」と書かないのだろう。「私は谷内と特定していない。某氏としか書いていない。某氏を谷内と読むのはそのひとの勝って(誤読)」とでもいうつもりなのかな?
そういう逃げ道をつくっておいて、批判を展開するのも「マッチョ思想」だなあ。
私は他人を批判するときは、明確にそのひとの「名前」をあげる。ほかのひとを批判していると誤読されると困るからだ。
阿部は大学教授である。同じ肩書(大学教)の人物が自分の詩をほめている。現代詩手帖のアンケートへの回答権をもっている。授思潮社、土曜美術社に知り合いがいる。一方、谷内はアタマのわるい性格異常者であり、狂人である。--この対比で自分の詩を擁護する姿勢。
これは、まあ、「マッチョ思想」以外のなにものでもないね。こんな生き生きと暴走するマッチョは、ほんとうに、はじめてみる。
初めて読む過激な詩のように、興奮してしまう。ながながと反応(ことばを射精)してしまう。
ながながとした射精のあとでも、興奮がおさまらなくて……。
「暴力的な決めつけブログを書いた某氏への返答に、断章型の思想家として、ベンヤミン-アガンベンの系譜をヒントとして出した。それをも無教養な彼は、アカデミズムの誇示、と意味を曲解してしまったようだ。ぼくは「敵に塩」のつもりだったのに、代わりに「ブタに真珠」の成句をおもいだす次第をしいられたのだった。」
ということばもあったなあ、と思い出した。
私は「大学教授」ではないので「無教養」。実は、これを私は売り物にしています。「無教養」を「無防備」と言い換えてだけれど。
それはさておき、「敵に塩」はともかく、自分のしたこと、それに対する相手の反応を「ブタに真珠」って、いいなあ。「マッチョ思想」だなあ。ブタが谷内で真珠が阿部、ですね。さすがに教養があるなあ。
私の感覚では、「豚に真珠」ということばは、言うとしても「第三者」が言うことであって、当事者か言うことではないのだけれど、「大学教授」の阿部が言うのだから、私の感覚が「狂人(アタマのわるい性格異常)」のせいだね。
*
あ、まだ、何か漏れそう。
よっぽど興奮して、うれしかったみたいだ。私の「肉体」は。
「マチズム礼賛(阿部嘉昭論)」でも書きたいくらい。
*
札幌の雪について。
阿部は、
「詩作者・詩論家・大学教員のT・Kさん」がそう書いたということはわかるが、それは、私が疑問を感じた部分の行をさして、そういったのだろうか。その点が不明なので、私には、何のために阿部がこの私信を引用しているのかわからない。
阿部は阿部の書いている雪が「肉体」で体験したことの証拠にころんだことも書いてある、というが、ころべばそれが「肉体のことば」として反映されると単純に考えているのだろうか。
視点を転換して、一つ例を書く。私が感じた「雪」について。阿部の作品ではない。テオ・アンゲロプロスの映画「旅芸人の記録」。ギリシャ映画である。そこには雪が出てくる。えっ、ギリシャって、プラトンの世界、エーゲ海の陽光の世界じゃないのか。雪なんか降るのか……。私はとても驚いてしまった。それが雪とは信じられなかった。
ところが。
雪がやんで、抜かるんだ道を旅芸人が歩くシーンで、私は雪を見た。雪は降っていない。道路がぬかるんでいて、その道路のしめった色は冬空を映している。冬空の色が地面にまで下りてきている。そして、その空と道路のあいだ、人間が歩いている「空間」に冷たくしめった空気が残っている。肌触りがある。その湿気と肌触りも、汚れた道路に映っている。
あ、これは見たことがある。もちろんギリシャで、ではない。私はそういう道と空と空気の関係を自分の故郷で見たことがある。九州へ来てからも、似たものは見たことがある。そうか、雪というのは、単に降ってくるものだけが雪ではなく、空気全体が雪なのだ。そう把握しているテオ・アンゲロプロスを感じた。テオ・アンゲロプロスの「雪」を雪そのものの描写ではなく、空気の描写で実感し、そこで私はテオ・アンゲロプロスと「一体」になる。雪と「一体」になる。
そういうことが、阿部のことばでは起きない。
「詩作者・詩論家・大学教員のT・Kさん」が阿部のどの詩の、どのことばに、書いている感想を感じたのか。それがわからない。私は「詩作者・詩論家・大学教員のT・Kさん」によって反論されたとは感じない。あ、そうだね、とは感じない。もっと具体的に、どのことば、どの行というものを知りたい。
私はいつでも、どのことば、どの行から、何を感じたか書く。
「これまでの彼の記事を精査し、とりあげられたいろんなひとの苦衷を、そのひとの立場に立って顧慮していただければ」というような、抽象的なことばなら、逆も簡単に言える。
私は阿部嘉昭『ふる雪のむこう』に「マッチョ思想」が感じられる、と書いた。私のいう「マッチョ思想」とは「流通概念(既成概念)」を流用し「頭」でことばを動かすという態度である。自分の肉体で考えるのではなく、他人の考えたことば(社会に流通していることば)を借りて、その「流通している考え」で「頭」を補強すること。「権威主義」にも通じる。
これに対して、阿部は、
自己のみを基準にした前近代的批評の、救いがたい迷妄・暴力性・マチズモだ
と定義している。
私の考えとは正反対である。私は、「自己のみを基準とした」ことばを「詩」と定義している。それは「前近代的」であるかどうかはわからないが、個人の直接性がある。「近代/現代」というもので武装していない無防備がある。
私は阿部の定義する「マチズモ」で阿部の詩に「マッチョ思想」が感じられると書いたのではない。むしろ逆である。「自己のみを基準」とせず、「権威(流通する概念/流通を獲得した概念)」と「頭」で判断しているものを流用し、寄りかかり、ことばを動かしているから、それを「マッチョ思想」と呼んだのである。別な言い方をすると、「流通している他人の思想」で武装することを「マッチョ思想」と呼んだのである。
女は男に従っていれば幸福である--というような「流通概念」で女性に向き合う人間を「マッチョ思想」の持ち主という。その考え方は、その人が、ひとりの大切な人間と向き合うことで、手探りでみつけだした指針ではなく、彼が育ってきた過程で聞かされてきた「流通概念」である。そういうものが感じられるとき、私はそのひとの考えを「マッチョ思想」と呼ぶ。その人が、自分だけの肉体で、いま目の前にいる女性との関係で作り上げてきた考え方なら、それがどんな関係であれ、それを私は「マッチョ思想」とは言わない。その考えに私は与することはしないが、それが個人的なもの、個性であるかぎりは「詩」であると思う。
自己のみを基準にした、救いがたい迷妄・暴力性をもったことば--それが詩である。
で、これから書くことは「矛盾」に見えるかもしれないけれど、阿部の詩集のことばよりも、私に対する阿部のことば・批判の方が私には「詩」に感じられる。そこには「マッチョ思想」としか呼べないものがあふれかえっている。こんなに「マッチョ思想」を書きながら、自分を少しも「マッチョ」と感じていないのは、「マッチョ」が「肉体」になってしまっているからである。「流通/権威」と自分を同一化し、そこに安住し、その「権威」を押しつける。
これは、笑える。
『ふる雪のむこう』を読んだときは、阿部のことばに「マッチョ思想」を予感したのだが、その後の発言は「マッチョ思想」と私が呼んでいるものそのものである。(繰り返しておくが、それは阿部が「マチズモ」と呼んでいるものとは違う。阿部は、自分の行動を「マチズモ」の対極にあると考えている。)
私が阿部のことばから感じる「マッチョ思想」。
笑いすぎて、阿部のことを大好きになってしまった。詩集よりも、はるかにおもしろい。阿部って、こんなに生き生きとした人間だったのだ。
思想の定義はさまざまだから……。
この文章を読んでいるひとが、私と阿部の「マッチョ思想(マチズム)」のどちらを自分自身の立場とするか、私は何も言わない。「スタンス」の違いは大切である。「スタンス」が違う、ということろからしか出発できないからね。
私は阿部の文章に大笑いしたが、その笑いが不謹慎と思うひともいるかもしれないけれど、まあ、以下のようなこと。(かなり長いよ。)
(1)
「上記の欄にしめした悪意のひとは、たぶんぼくが大学の教員であることそのものが気にくわないのだとおもう。」阿部が大学の教員であることと、詩と関係があったのか。詩を読むとき、阿部が大学教授であることを考慮しなければいけないんだね。大学教授が書いているから、高尚で美しい世界なんだ。その高尚さを保証するのが「大学教授」という肩書。その肩書があるかぎり、詩は「正しい」。
でも、詩の舞台は大学だっけ? 学生や教授がでてきたっけ? そこに大学に関することばが重要な位置を占めていたっけ?
学生のことばであろうと、高校生のことばであろうと、大学以外の職場で働いているひとのことばであろうと、それは詩にとっては関係がない。肩書を取り払って「無防備」にして、そこに書かれていることばと向き合うというのが、私の方法だけれど、これは「前近代的」であり、「暴力的」なのか。
いいなあ、この「肩書」こそがその人の価値。詩の価値は「肩書」によって保証される。「マッチョ思想」そのものだねえ。
私は「ことば」に「肉体」を感じたとき、それを詩と呼ぶのだけれど、阿部は「肉体」を覆い隠す「肩書」を発見したときに、それを「詩」と呼ぶんだね。
阿部にとっては「裸の肉体」は「前近代的」で「暴力的」、「肩書」が人間の「核心」、「基本」。そういう意味では、「肩書」こそが阿部の「肉体」である。阿部は、いつでも自分が「大学教授」であることを意識している。無意識に。つまり、それが意識とは思わないくらいに、「肉体」そのものとして「実感」している。
前回引用した阿部の発言には「博士課程」のひとが登場したし、また別のことろでは、「大学の教員」が阿部の詩の雪を認めてくれたと書いているが、「大学教授」や「博士課程」のひとが言えば、それが阿部の作品を正しく評価したことになるのかな?
大学教授の書いていることばだから、それは尊敬されるべきである--という感じの「権威主義」がそこにある。こういう「権威主義」を私は「マッチョ思想」と呼ぶ。でも、もちろん、阿部はそう呼んでいないよ。「権威主義」を「マッチョ思想」とは反対のもと信じきっている。
(2)
「「詩手帖」年鑑号の今年の収穫アンケートをみたら、谷内氏、もう回答権を剥奪されてたんですね。となるとまずは、事あるごとに、谷内に詩集・同人誌を送るな、と知り合いに親切に助言しつづける「草の根」運動をするしかありません。みなさんもご同調を。」
現代詩手帖の「今年の収穫」のアンケートの「回答権」なんて、あったのか。知らなかった。それをもっているか「剥奪された」かは、詩を読むこと、詩への感想と関連しているのか。知らなかった。
でもさあ、その「回答権」とやらは、どうやったら獲得できるのかな?
阿部はたぶん、こう考える。いい詩集を出し、いい評論を書いて、「現代詩手帖」の編集部が、あるひとを詩人・批評家と認定したら、その「回答権利」を与えられる。それをもっていることは詩人・批評家のステータスなのだ。「回答権」は「大学教授」の肩書のように、詩人にとって不可欠なものなのである。
谷内と違って、阿部は「回答権」をもっている。だから阿部の方が正しくて、権利をもたない谷内が阿部の詩に対して批判めいたことを書くのは暴力的。いわば、下克上ということになるのかな? 「現代詩手帖」編集部の認定したヒエラルキーを否定することは許されない。「現代詩手帖」編集部のつくっているヒエラルキーの、どこにだれが位置するか。それを判断して詩を読むべきである、詩集の感想の有効性を判断すべきである。すごいなあ、この「権利」に対する感覚は。「権威」に対する信望は。
こういう「権威主義」(権威への寄りかかり)を私は「マッチョ思想」と呼ぶのだけれど、阿部は逆。そういう「権威主義」に組み込まれていない人間は「前近代的」。
「権威」のヒエラルキーは、「今年の収穫」に収録されかどうかも関係するようだね。
「今年の収穫」の掲載基準が何か私は知らないけれど、アンケートの回答もそのひとつなのかな? だから「回答権」を剥奪された谷内に詩集を送っても自分の作品に一票(?)が入るわけではない、だからやめよう。むだである。
うーん、この「功利主義」はわかりやすくっていいなあ。「合理主義/資本主義」にぴったり合う。
「合理主義/権威主義」から落ちこぼれた谷内は、「前近代的」で「暴力的」だからである。「大学教授」の肩書を持ち、「権威主義」の一員になっている阿部のいうことを聞きなさい、というのが阿部の主張のようだけれど。
拍手,拍手,拍手。(爆笑、爆笑、爆笑)
こんなわかりやすい「マッチョ思想」は、とても貴重だ。「マッチョ思想」が「頭」からあふれだして、全身にみなぎっている。「マッチョ思想」が「肉体」になってしまっている。「マッチョ思想」が阿部にとっての「肉体」だから、「頭」で考える「思想」はまた別なもの。「マッチョ」とは無縁の、とっても高尚なもの、ということなんだろうなあ。
そして高尚なことを考えられない谷内こそが「マチズム」を具現化している、ということなんだね。
(3)
「詩書出版の版元のみなさま、逆パブがこわい、ということで、著者のみなさまに谷内氏への詩集送付をやめるよう、ぜひご進言していただきたいとおもいます。それで彼のネタも半減するはずなので。これまでご迷惑をお感じになられた経験があるなら、とうぜんのことだとおもいます。」「詩的浄化のための当然の対抗手段だとおもいます。だからすごく真面目な主張です。思潮社、土曜美術のかたはぼくのこのポストをご覧になるとおもいますが、その他の版元へはぜひお付き合いのある「あなた」の勇気がかかわっています。これまでの彼の記事を精査し、とりあげられたいろんなひとの苦衷を、そのひとの立場に立って顧慮していただければ。なにしろ澄んできれいな、詩の批評だけを読みたいのです」
私の感想を読むことで、いったい、詩集の売れ行きがどうかわったのかなあ。
私はよくわからない。だいたい、私が「この詩集にはマッチョ思想が感じられる」と書いた詩集って、阿部の詩集以外の、どの作品があるのかなあ。具体的な例を阿部が書いてないので、なんとも判断しようがないけれど。ブログをちょっと見てみたら、私は詩集の感想を1554回書いている。同人誌などの詩の感想を1241回書いている。私のブログへのコメントは非常に少ないけれど、そうか、私はのべ2千人以上のひとの作品の「逆パブ」(これって、何語?)をしてきたのか。それでみんな怒ってコメントを書き込まないのか。
まあ、これは阿部が具体的に何人と書いていないから、よくわからない。阿部が何人のひとから「私も谷内の感想の犠牲者です」と言われたのかわからないけれど。
それよりも、「マッチョ思想」という点で私が問題にしたいのは「詩書出版の版元のみなさま(思潮社、土曜美術のかた)」という呼び掛け、名指し。なぜ、阿部が自分自身でしないのかな? 谷内のこの発言は、この詩集の「逆パブ」になっている。だから、今後詩集を送ってはいけない、となぜ言わないんだろう。
あ、そうか。阿部は、「私は思潮社、土曜美術社のひととも連携できる」、そういう「信頼を得ている」ということを強調したいんだね。知り合いがいる。詩集出版について「権威」をもっている会社ひとと知り合い。だから、阿部にも「権威」がある、ということをいいたいんだね。同時に、そういう「権威」の力を借りて、「権威」とは無関係に感想を書いている私を批判しようとしているんだね。
「権威」あるものが「権威を持たない谷内(アンケートの回答権を剥奪されている)」を批判し、「権威を持たない谷内」を閉め出すことは、「権威」をもっている人間を守るために必要不可欠のことである。
ほう。「権威を持たない谷内」のひとことが、そんなに阿部の「権威」を傷つける? 私は「権威」なんて知らないからよくわからないけれど、なんだか「権威」ってひ弱だね。だから、「権威」が集合して「権威主義」で武装し、「権威」以下のものを「前近代的、暴力的」と宣伝するのだね。
いやあ、「マッチョ思想」の根幹がますます見えてくる。
うれしいなあ。阿部がいらいらして怒りまくっている姿が見える。かわいいなあ。好きだなあ。こういう単純な行動は、がき大将だってしないなあ。
他人を動員し(子分を、ではないところが、がき大将とは違うが)、行動を組織化する、組織で気に食わないものを排除する。その、あくまでも「体制(権威)」を必要とするところが、私に言わせれば「マッチョ思想」なのだけれど、阿部にとっては、そういう組織化は「近代的/現代的(前近代ではない)」という証拠であり、「現代的」だから「マチズム」とは無縁ということなんだね。
阿部の「非・マチズム」は私からみると「マッチョ思想」そのものであり、それがどんどん肥大していっているのをみると、興奮してしまう。この「マッチョ思想」どこまで暴走するかなあ。
どきどき、わくわく、はらはら。
先に書いたことと関係するけれど、「彼の記事を精査し、とりあげられたいろんなひとの苦衷を、そのひとの立場に立って顧慮していただければ」というのは、--いやあ、すばらしい。私は興奮してしまった。
私の詩に対する感想は2千篇を超えるのだけれど、全部読んでもらえたんですね。そして、私がだれそれを傷つけているということを阿部は確認してくれたんですね。私は、だれも読まない(読んでいない)と思っていたので、び、び、び、びっくり。
でも、そうなら、具体的にここが「逆パブ」になっていると指摘して、教えてほしい。それを知り合いの「版元」の思潮社、土曜美術社のひとに送るだけではなく、私のブログに批判コメントを書いてほしいなあ。(私の読むことのできない阿部のフェイスブックのタイムラインでもいいけれど--それでは、私は読めないからね。あ、ついでに書くと、自分の発言を隠しておいて、他人を批判するというのも私の考えでは「マッチョ思想」なんだけれどね)。そうすれば、多くの読者にすぐに阿部の主張の正しさがわかるのに。どうしてしないのかな? 出し惜しみ? 「権威」は安売りしない?
もし阿部が、私とは違って、2千人(2千篇)の作品を、それにふさわしい文章で評価しつづけるなら、そして、その結果、詩集のすばらしさに気づいた読者が詩集を次々に買うことになるなら。そして多くの詩人が阿部に感謝のコメントを寄せ、また出版社も利益が上がるだろうから阿部への尊敬が増すだろう。やっぱり、批評は阿部にかぎる。谷内なんかじゃだめ、ということになり、阿部の「権威」は一段とアップする。
これって、とってもいい方法じゃない? 阿部にとっても、詩を書くひとにとっても、出版社にとってもいいことで、一石二鳥どころか一石三鳥だね。どうして、そうてないのかな? それとも、もうしている?
でも、私の見方では、阿部はそういうことはしないなあ。
「精査」を「権威」に頼ってしまう。阿部の「精査」よりも版元の「精査」の方が「権威」があるということかな? あるいは、そんな「雑用」は版元にやらせておけばいい。阿部はもっと「権威」ある仕事に専念する、ということかな?
自分では何もしない。他人に頼って、他人のやったことを自分の「手柄」のように語る。こういうことを「マッチョ思想」と呼ぶ。自分で、きちんと対処できないことを他人に頼ってしまう。
(4)
「ブログに好き放題に書かれた… うざったくて、スクロールで流し見しただけだけど、悪意に凝りかたまった狂人としかおもえない。これって、もしかすると、警察に訴えるべき案件かもしれない。」「狂人の某氏が、ぼくの詩の雪はアタマで書いている、と悪意をもって一方的に裁断した」
「狂人」か。「アタマのわるい性格異常者」と、前には書いていたなあ。
「狂人」だから「警察に訴える」か。ぜひ、そうしてもらいたい。「警察」を私は単純に「権力」とは思わないけれど、ここにも自分でできることはしないで、他人の力に頼る阿部の姿勢が見えるね。
警察による「検閲」の復活、権力による言論の統制。--これは「マッチョ思想」の最大のものだね。一般的には「マッチョ思想」とは別の表現で批判していると思うけれど、私からは「マッチョ思想」に見える。「流通する概念」を利用して自分(体制)を補強すること。(体制に「人格」としてとらえて言うのだけれど。)
それは別にして。というか、ちょっと別なことを私は思ったのだけれど。
この言論の自由の時代に、筆者の気に入らない感想を書いたからといって警察につかまるなんてかっこよくない? そうなってみたいなあ。そして最高裁まで争って、無罪を訴えながら死んで行くなんて、かっこよくない? そういうこと、ぜひ、やってみたいなあ。私は「前近代的」な人間なので、そういう「妄想」を抱いてしまう。
私は阿部を批判するよりも、もう一歩進んで、言論弾圧機関と闘ってみたいなあ。かっこいいだろうなあ。その闘いの場に阿部が登場してきて、「私は大学教授である。詩の出版社の思潮社、土曜美術社に知り合いがいる。現代詩手帖の年鑑の収穫のアンケートに対する回答権をもっている」ということを根拠に、私を批判するのをぜひみたい。
私はうれしくて、法廷で大笑いするだろうなあ。「阿部さん、かっこいい。マッチョむき出しのところが、だれよりも輝いている」と自分の立場を忘れて、叫んでしまいそう。
私は、「警察権力」まで利用しようとする「マッチョ思想」を初めて知った。まぶしくて、目がくらみそう。
それはそれとして。
そこまで阿部の発言が正しいのなら。
「狂人の某氏が」云々。これは、卑怯な言い方だね。なぜ「狂人の谷内が」と書かないのだろう。「私は谷内と特定していない。某氏としか書いていない。某氏を谷内と読むのはそのひとの勝って(誤読)」とでもいうつもりなのかな?
そういう逃げ道をつくっておいて、批判を展開するのも「マッチョ思想」だなあ。
私は他人を批判するときは、明確にそのひとの「名前」をあげる。ほかのひとを批判していると誤読されると困るからだ。
阿部は大学教授である。同じ肩書(大学教)の人物が自分の詩をほめている。現代詩手帖のアンケートへの回答権をもっている。授思潮社、土曜美術社に知り合いがいる。一方、谷内はアタマのわるい性格異常者であり、狂人である。--この対比で自分の詩を擁護する姿勢。
これは、まあ、「マッチョ思想」以外のなにものでもないね。こんな生き生きと暴走するマッチョは、ほんとうに、はじめてみる。
初めて読む過激な詩のように、興奮してしまう。ながながと反応(ことばを射精)してしまう。
ながながとした射精のあとでも、興奮がおさまらなくて……。
「暴力的な決めつけブログを書いた某氏への返答に、断章型の思想家として、ベンヤミン-アガンベンの系譜をヒントとして出した。それをも無教養な彼は、アカデミズムの誇示、と意味を曲解してしまったようだ。ぼくは「敵に塩」のつもりだったのに、代わりに「ブタに真珠」の成句をおもいだす次第をしいられたのだった。」
ということばもあったなあ、と思い出した。
私は「大学教授」ではないので「無教養」。実は、これを私は売り物にしています。「無教養」を「無防備」と言い換えてだけれど。
それはさておき、「敵に塩」はともかく、自分のしたこと、それに対する相手の反応を「ブタに真珠」って、いいなあ。「マッチョ思想」だなあ。ブタが谷内で真珠が阿部、ですね。さすがに教養があるなあ。
私の感覚では、「豚に真珠」ということばは、言うとしても「第三者」が言うことであって、当事者か言うことではないのだけれど、「大学教授」の阿部が言うのだから、私の感覚が「狂人(アタマのわるい性格異常)」のせいだね。
*
あ、まだ、何か漏れそう。
よっぽど興奮して、うれしかったみたいだ。私の「肉体」は。
「マチズム礼賛(阿部嘉昭論)」でも書きたいくらい。
*
札幌の雪について。
阿部は、
と書いている。
「札幌に生を享けて、いまも札幌にいらっしゃる詩作者・詩論家・大学教員のT・Kさん(わかるひとにはこの書き方でもわかるとおもう)。
《阿部さんの作品に接して、自分がどのような土地に生きているのかあらためて感じました。裸体を見つめられているような気もします。もちろんこれは、詩集が「むこう」を指向していていることを前提としたうえでの即時的な感想です》。
つまりまさに札幌「ご専門」のひとに、雪のレアリテのご承認を受けた、ということになる。」
「詩作者・詩論家・大学教員のT・Kさん」がそう書いたということはわかるが、それは、私が疑問を感じた部分の行をさして、そういったのだろうか。その点が不明なので、私には、何のために阿部がこの私信を引用しているのかわからない。
阿部は阿部の書いている雪が「肉体」で体験したことの証拠にころんだことも書いてある、というが、ころべばそれが「肉体のことば」として反映されると単純に考えているのだろうか。
視点を転換して、一つ例を書く。私が感じた「雪」について。阿部の作品ではない。テオ・アンゲロプロスの映画「旅芸人の記録」。ギリシャ映画である。そこには雪が出てくる。えっ、ギリシャって、プラトンの世界、エーゲ海の陽光の世界じゃないのか。雪なんか降るのか……。私はとても驚いてしまった。それが雪とは信じられなかった。
ところが。
雪がやんで、抜かるんだ道を旅芸人が歩くシーンで、私は雪を見た。雪は降っていない。道路がぬかるんでいて、その道路のしめった色は冬空を映している。冬空の色が地面にまで下りてきている。そして、その空と道路のあいだ、人間が歩いている「空間」に冷たくしめった空気が残っている。肌触りがある。その湿気と肌触りも、汚れた道路に映っている。
あ、これは見たことがある。もちろんギリシャで、ではない。私はそういう道と空と空気の関係を自分の故郷で見たことがある。九州へ来てからも、似たものは見たことがある。そうか、雪というのは、単に降ってくるものだけが雪ではなく、空気全体が雪なのだ。そう把握しているテオ・アンゲロプロスを感じた。テオ・アンゲロプロスの「雪」を雪そのものの描写ではなく、空気の描写で実感し、そこで私はテオ・アンゲロプロスと「一体」になる。雪と「一体」になる。
そういうことが、阿部のことばでは起きない。
「詩作者・詩論家・大学教員のT・Kさん」が阿部のどの詩の、どのことばに、書いている感想を感じたのか。それがわからない。私は「詩作者・詩論家・大学教員のT・Kさん」によって反論されたとは感じない。あ、そうだね、とは感じない。もっと具体的に、どのことば、どの行というものを知りたい。
私はいつでも、どのことば、どの行から、何を感じたか書く。
「これまでの彼の記事を精査し、とりあげられたいろんなひとの苦衷を、そのひとの立場に立って顧慮していただければ」というような、抽象的なことばなら、逆も簡単に言える。
ふる雪のむこう | |
阿部 嘉昭 | |
思潮社 |