詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金堀則夫『畦放(あはなち)』

2013-10-03 09:01:28 | 詩集
金堀則夫『畦放(あはなち)』(思潮社、2013年09月01日発行)

 金堀則夫のことばは「土地」と強く結びついている。そこには「個人」を越えた時間がある。そのことばは「神話」をめざしている。そこでは「原型」としての人間が動く。土地は東西南北へひろがるというよりも、天と対話する。地下と対話する。
 「時の砂」の書き出し。

北から南へ
流れる川は天の川
天から磐船がやってきた
もののべの伝承は 川原の砂とともに
時の穴から落ちつづけて古代に入っていった
覆いかぶせた現代が 土を掘り返したとき
砂の時間が解かれていく
鍛冶が坂のわたしは待っていた
いつか、わたしの生きているこの地から出現することを

 この地を掘ることは天につながることである。地下にある本質と天にある本質が出会う場所が「地上(の土地)」であり、地下にあるものを「地上」にふさわしい形にかえるこができたとき、「私」は「私」として出現する。あたらしく誕生する。そして「神話」になる。「神話」として誕生しようとする「いのり」(欲望/本能)が金堀のことばをたぎらせている。
 こういうことばを読むと、私は「やっぱり私は百姓の子どもだなあ」と実感する。天と地下を結びつける欲望という血は私には流れていない。ことばは、「暮らしの肉体(思想)」を背負っていて、それは背負い直すことがむずかしいのかもしれない。--と書いてしまうと、まあ、私自身の自己否定になってしまうので、そういうことは避けたいのだが、感じてしまうのである。言い換えると私の育った環境と金堀のことばの運動の場が完全に分離していて、私が何を書いてもそれは、外からみた金堀であるということだ。もし、金堀とことばのセックスをするとしたら、私は「農業」と「工業」が分離する以前の古代にまで自分の肉体を掘り返さないといけない。

鉄のとろける湯から
ひのかたちができあがってきた
カミガミは火からうみ出している
わたしのひは
ひにかえっても ひにもどれない
ひはかさなって ひをかたちづくる
ひの壷を蓋しても
また燃え上がってくる
ひのひなる性(さが)
もとのところにはもどれない
                                (「火の子」)

 「もとのところにはもどれない」。変形し、変形することで誕生する。それは同じ変形を繰り返し、同じものを生産するとしても、実は「同じ」ではないということである。こういう「直進運動」は「工業」のものであり「農業」のものではない。「農業」はいつでも「もっどってこい」という。いつでも「繰り返せる」というのである。

 もっとも金堀には「農業(百姓)」の血もまじっているようである。そこに、すこし私は接触できるものを見ている。「さびらき」という詩。書き出し。

土が
空へ 地下へと育っていく
のびていく土と土が うえとさかさに
結びついている
幸。

 これは「幸」という漢字を「なぞとき」した作品である。上向きの「土」と下向きの(さかさの)「土(ひっくり返してみてください)」を「両手(=)」でつないだものが「幸」。ここには「百姓」の「いのり」がある。ただし、これは「百姓」自身の「いのり(欲望)」ではなく、漢字というものを読み書きし、さらにそれを「頭脳」で組み立て直して世界を把握し直す「古今集」以後の世界(古今集を生み出した人間の欲望/本能)である。「工業」の経験者の方が、こういう「世界観」と宥和しやすいだろう。
 私がこの部分に、そこに「土」ということばが「神話」にならずに「暮らし」になっていることに対して、「百姓」として反応するけれど、私自身の「百姓」がすでに古今集を知ってしまっているから反応するのであって、それ以前だたら反応しないだろうなあ。
 ということは、私は古今集をさらに突き破って「太古」へまで百姓として帰ることができるか、と問われていることでもある。田圃というのは一種の加工された土地だが、その加工はせいぜいが地下1メートルから2メートルくらいである。水がもらないようにするには、それぞれそれくらいですむ。それよりさらに掘り下げて「金属」の原石を掘り出すというのは百姓の仕事ではないし、その原石を強力な火の力で加工するというのも百姓の領域を越えている。
 なぜ、こういういことを書いているかというと。
 私は金堀の詩は、結局「頭」で読んでしまうということをはっきりさせたいからである。金堀のことばを自分のことばと交わらせる、そこでことばのセックスをするということは、私にとっては「頭」の問題になるのである。「なぞる」ことはできても、それを「おぼえる」ことができない。私は、金堀の詩を読むには「不適任」なのである。

 私と金堀を、「百姓」と「工業」をつないでいくものがあるとすれば、詩集のタイトルにもなっている「畦放」の世界だろうか。

米作りをしなくても
田んぼは放置できない
畦だけは受け継いでいかなければならない
畦の放棄は 神代からのおきて破り
何度も くりかえし 草を刈る
田と田の境界を侵さないように
お互い 草を刈る 生えては 草を刈る
草の根は保護しなければならない
根が畦の崩れを防護している
土をのせ 土をかため 草を生やし 草を刈る
水を囲う畦を壊さないように護ってきた

 「農業」にも「加工」の部分があるのである。それは引き継がれる「技術」である。「技術」のなかに、人とのつながりがある。思想がある。この「技術」が崩壊している、つながりがつながりとして機能しなくなってきているというのが現代の日本の農業なのだけれど、
 「畦は(略)耕作者どうしで管理する道」なのだけれど、

畦を歩きひとが 犬と散歩するひとが……
ここは道ではない と叫べば
若者は だれにむかって言っている
ここを歩いてなにが悪い
若者よ 怒鳴ったわたしが悪かったのか
悪かったらあやまろう すまなかった
もう なにも知らなくていい
もう なにもかも変わってしまったのだ
(略)
壊した水田の雑草のなかで
鎌をもつ手は 刈っても 刈っても追いつかない
脱け出せない うらぎりもののわたしは
まだここにいる

 「うらぎりもの」によって、護られているだけなのだ。そこに「いま」をこえる「時間」がある。百姓の「いま」をこえて「神話」になる方法があるのだけれど……。

水を囲う畦を壊さないように護ってきた
計り知れない年月 幾世代がつながっている
水路を埋めてもならない 樋を壊してもならない
水のながれを わが田の畦で邪魔してはならない

 この「百姓の神話」をどう復活できるか、うーん、私はもう当事者ではなくなってしまっているので、ことばは胸に響いてくるが、どうしていいのかわからない。



畦放
金堀 則夫
思潮社
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