「マッチョ思想」とは何か(阿部嘉昭と私のスタンスの違い)
以下の文面は知人がFBの阿部嘉昭のタイムラインにある文章を私に転写してくれたものである。阿部の発言は、私には見えない設定になっているので知らなかった。(阿部の発言にある「うえの詩篇」は転写されていなかった。)
いくつかの疑問点を書いておく。
アタマのわるい性格異常者からのネット上の攻撃がつづいている。火に油をそそいだぼく自身がわるい。それと、いかに卑劣な誘導とラべリングがあろうとも、書かれていることの出鱈目は自明、ともはや沈黙するしかない。けれども恵贈された詩集の逆パブを平気で書いて居直るそのマチズモは、みなの恐怖の的なのではないだろうか。こういう「書
きっぱなし」のことばの暴力にはどう対処すればいいのだろう。当事者とはいえバカにみえてしまうので、おなじ土俵にあがることも控えるしかない。粘着質のそのひとは、冷笑ぎみに土俵をさしだしているけれども。ともあれ精神衛生にわるいので、FB上の友人関係を切らせていただいた。もうそのひとのサイトもみないだろう。
昨日は敬愛するおふたりから、詩集送付の礼状がきた。岩佐なをさんと柿沼徹さん。双方の文面に懇切で胸をうつ賛辞がならぶ。そこではぼくの詩集のことばのしずかさと、かれらのことばのしずかさが「似ている」。やはりこれが正常だろうと、きもちを持ち直した。FBでも励ましのメールをいろいろいだだいた。ありがとうございます。
うえの詩篇は飲み屋で博士課程のI川さんがこれまでかたったことを、ぼくなりにコラージュしたもの。そのI川さんにもなぐさめられた。」
「ちなみに、ぼくは鎌倉の「山そだち」なので、友だちと一緒にあけびをもいで、よく食べた。ひらいている箇所をさらにひらき、種のまざったやわらかくしろい部分を舌でこそげる。それから、種をはきだしつつ、果肉をのどにながす。うすいあまさに、なにか薬のような味がくわわる。整腸剤の味に似ている、とみなでかたりあったものだ。
あけびは緑がかったふかい灰色に、むらさきが不気味に兆す。割れていることは不吉だが、それが女性器に似ているとはおもわない。むろん小学生当時は女性器など知らない。
現在もあけびにもっとなにか中性的なもの--死と生の中間的なものをかんじる。あけびの実りも縊死にみえたのだった」
(1)マッチョ思想の問題。
阿部と私では「マッチョ思想」に対する定義が違っている。前回書いた「スタンス」が違うように。どういう違いがあるかを検討せずに「マッチョ思想」について書いてもしようがない。
阿部は「恵贈された詩集の逆パブを平気で書いて居直るそのマチズモ」と書いている。ここからわかることは、「恵贈された詩集の逆パブを平気で書」くこと、さらにそれに対する阿部からの批判に「居直る」ことを、阿部が「マチズモ」と呼んでいることがわかる。簡単に言いなおすと、非礼と感じる態度をとることを「マチズモ」と呼んでいるように見受けられる。詩集を頂いたら感謝するべき、その詩集の宣伝をすべきであって、疑問を書いてはいけないということかもしれない。もう少し言いなおすと、相手の立場(自分の立場)を考慮に入れずに自分の考えを正直に言うことをさしているように見受けられる。詩集を頂いたのなら、頂いたひとは感謝と称賛をすべきという考えが、その奥にあるのかもしれない。
私が阿部の詩に感じた「マッチョ思想」の定義は、「非礼」とも「相手の立場を考慮せずに自分の考えを発言すること」でもない。私は、自分の「肉体」で感じたことをそのまま書くのではなく、「頭」で知っていることで、ことばを補強することを「マッチョ思想」と呼んだ。「頭」で知っていることというのは、たいていの場合「社会に流通している概念」である。自分自身の「肉体」で消化されていないままのことばを私は「頭で書いている」と言い、そこに「マッチョ思想」を感じると書いている。
「権威の流用」を、私は「マッチョ思想」と呼ぶ。阿部は「岩佐なをさんと柿沼徹さん」から礼状がきたと書いてあるけれど、こういう書き方も私は「マッチョ思想」と感じる。岩佐なをと柿沼徹は有名な詩人だけれど、その二人がどんな感想(礼状)を書こうと、私が感じたこととは関係がない。ひとはひとそれぞれに感想を持つものである。文学というのは「物理的尺度」で「客観的」に計測できるものではない。
二人の感想が私の発言と関係があるとすれば、二人が「あけび」をどう読んだか。「雪」をどう感じたか、ということを書いてもらわないと私への反論にはならないだろう。私は、阿部の書いている「雪」も「あけび」も「頭」で書いたことばであると感じた。「頭」で書いていると感じたから、そこに「マッチョ思想」のようなものを感じたと書いた。
有名詩人の二人の名前(権威)を持ち出してきて、権威のある二人が称賛しているのだから谷内の読み方はまちがっている--というような論法を私は「マッチョ思想」と呼んでいる。
阿部に阿部自身の考えがあるなら、それを阿部自身のことばで語ればいいのに、と私は思う。
私と阿部の「マッチョ思想(マチズモ)」は、まったく正反対のものである。だから、私は阿部が私のことを「マチズモ」と呼んで批判しているけれど、私はぜんぜん批判されたとは感じない。「スタンスが違う」、話がかみあっていなと思うだけである。
(2)「知っていること」と「わかっていること」の違い。
「あけび」について、「博士課程のI川さん」の発言が要約されている。わざわざ博士課程と書いているのも、私には「権威主義」的に感じられて、あ、「マッチョ思想」にそまっているな、と思うのだが……。
その「博士課程のI川さん」によれば、「あけび」は「中性的なもの」ということになる。「男性的」とは書いていない。ということは、やはり、「博士課程のI川さん」も阿部の「あけびを男性の下半身」の比喩とすることには完全に同意はしていないのではないだろうか。私は「博士課程のI川さん」の意見を読んでも、それによって自分が感じたことがまちがっているとは思わない。批判されているとも思わない。そうか、「中性的か」、私とは感じ方が違うなあと思うだけである。
一方、「博士課程のI川さん」の食感から「死と生の中間的なものをかんじる。あけびの実りも縊死にみえたのだった」という「わかっていること」をことばにしていく部分は、とても感動した。熟れた果物には、たしかに死の匂いがあるなあ、と思い出した。こういう具体的なことばの動き、「誰かが書いたことば(流通していることば)」ではなく、自分の体験を書いたことばに私は詩を感じる。
でも、不思議なのは、どうして阿部は「博士課程のI川さん」のことばを引用するのかなあ。なぜ、阿部自身の「あけび体験」を書かないのかなあ。--これが、とても疑問。
私が阿部の今回の詩集に対する疑問は、そこに要約されている。
「他人のことば」で自分を補強するのではなく、自分自身の体験をなぜ書かないのか。「頭」でことばを操っていないか。(私の意見では「他人のことば」で自分を補強するのは「マッチョ思想」である。)
で、これはちょっと余分なことかもしれないが。--と書きながら、ほんとうはこれが言いたいのだけれど。
「博士課程のI川さん」の「小学生当時は女性器など知らない」ということば--ここに、私はとても興味をもった。私も小学生のときは女性性器は知らない。めいのおしめを替えたり、同級生と「お医者さんごっこ」をしたりで、少女の下半身は見たこともあるし、さわったこともあるけれど、大人の女性の性器は、中学生のときも知らない。
でも、知らないからといって、それが「わからない」わけではない。中学生になってオナニーをおぼえる。そうすると、自分(男)の性器をどうすれば何が起きるか。そのとき「気持ち」はどうなるかは、「わかる」。肉体で、本能(欲望)で「わかる」。だから、本能(欲望)が肉体をそそのかす。「頭」は「オナニーばかりしていてはダメ」といっても「本能(欲望)」は、そんなことばに従いはしない。気持ちいいと「わかっている」からである。そして、その気持ちいいと同じことが「女性性器」と自分の「性器」がいっしょになったときに起きることも「わかる」。「頭」ではなく「本能(肉体)」で「わかる」。「知らない」のに「わかる」。もちろん、この「わかる」は「妄想」の類かもしれないが、人間は「妄想」で現実を切り開いていくものである。この「わかる」に目をつむって、それを「知らない」というのを、俗に「カマトト」と呼んでいるように私は思う。
世の中には「知る」から「わかる」にかわることと、「わかる」から「知る」にかわることがある。セックスなどというのは「わかる」が先なのだ。だからこそ、「おまえまだ女を知らないのか」という表現もある。そしても、女を知った(セックスを体験した)からといって、「女がわかる」とはなかなか言えない。自分がどうしたら気持ちいいかは「わかる」が相手にどうしたら気持ちよくなるかなんて、とてもむずかしい。
逆の「知る」と「わかる」もある。たとえば外国語。「これは本です」を英語では「This is a book」ということは知っていても、英語が「わかる」わけではない。それだけでは「つかえない」。イランで話されることばはペルシャ語、その他のアラブで話されるのはアラブ語ということを私は「知っている」が、彼らが話すのを聞いても、あるいは書かれた文字を見ても、それがどちらかは「わからない」。
こういうことは、「流通概念」の世界でも起きる。たとえば私は、阿部が書いていたアガンベンとベンヤミンの名前は知っているが、彼らの思想は「わからない」。自分のものとして使うことができない。デリダとかドゥルーズとか脱構築ということばも「知っている」けれど、「わかっていない」。「わかっていない」のに「知っている」からといってそれを流用するのは、私には「マッチョ思想」に感じられる。
あとは、さらに余分なことだけれど。
阿部は「アタマのわるい性格異常者」と書いている。だれと明記していないが、文章全体から、それが私(谷内)のことであるのは「わかる」。あ、すごい言い方だなあ、と思う。私が読むことのできない阿部が管理するページで、こういう発言をする人だったのか、と初めて知った。私は対話の相手を閉め出しておいて、こういう発言をすることはしません。阿部がいつでも読めるところで発言をしています。
私とは阿部とでは、それくらい「スタンス」が違います。