詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

園子温監督「地獄でなぜ悪い」(★★★★)

2013-10-09 19:43:03 | 映画

監督 園子温 出演 國村隼、堤真一、二階堂ふみ、友近、長谷川博己



 この映画は、もうめちゃくちゃ。ただ映画を撮りたいという欲望が、そのまま映画を撮りたいという欲望を描くことで成り立っている。
 映画は、嘘。つくりもの。それがなぜおもしろいか。映画のなかの堤真一の台詞を借りて言えば「ファンタジーがリアリティーに勝ってしまう(勝ってしまっている)」からである。
 ヤクザ同士の抗争。殺し合い。そのとき勝つのは、ほんとうはリアルな戦い方をする方だろうけれど、ファンタジー(夢/欲望)の強い方がリアルな問題点を乗り越えて勝ってしまうときがある。度胸とか、怨念とか、怒りとか。
 で、どんな映画を見るときでも、私たちは(私は?)、そこにファンタジーを見ている。スピルバーグの「フライベート・ライアン」の冒頭の長い長い戦闘シーンさえ、現実を通り越して夢を見る。海のなかを銃弾が進む。それが兵士にあたる。血が噴き出る。血が海の色にとけて、まじる。こんなシーンを、あ、すごい、すごい、すごい、と思いながら見てしまう。そうか、こんなシーンをみた人間がいるのか、見てみたい--あ、書くと、とんでもなく変な感じだねえ。実際にその戦闘の場にいたら、そんなものに感心していられない。銃弾にあたらないように祈るだけだ。感動と現実は違うのだ。
 うーん、まいるねえ。笑ってしまうねえ。
 ヤクザの親分が、出所してくる妻が娘が主演する映画がみたい(女優になった娘に会いたい)と言う。その願いのために娘を主役に映画を撮る。監督は、街で見つけた映画オタク(ちょっと違うのだけれど、めんどうだから、そう書いておく)。で、映画を撮るとき、暴力団の抗争が起きる。あ、すごい、これをそのまま映画にすればいい。「仁義なき戦い」の「実録版」。そんなこと、実際にはできないのだけれど、映画だからやってしまう。
 そのとき。
 抗争が現実? 映画を撮っていることが現実? 抗争を映画にしてしまうという映画を、さらに映画にしてしまう--それは現実? 虚構? これは、いちいち考えるとめんどうくさい。つまり、どうでもいい。
 ばかげたファンタジーに、みんなが夢中になる。映画にとられる方も、自分が死ぬか生きるかなのに、なせか映画という夢のなかで死んでいく(けっして死なない)という夢を見ている。映画を撮る方は、虚構ではとれない真剣勝負--実際に、首が飛び、銃弾で撃たれて死ぬからねえ、にわくわくする。こんなクオリティーの高い(偶然を必然に抱き込みながら)映像は二度とありえない。「映画の神様」が撮らせてくれている。
 いやあ、あほくさい思い込み。でもねえ、でもねえ。私は映画を撮ったことなんかないけれど、わくわくどきどき。むちゃくくちゃなのに、ぜんぜんむちゃくちゃに感じない。うれしくなって、「あ、國村隼。主役なのに、抗争の前半で首刎ねられて死んじゃった」と大声で笑いだしてしまう。首が切られてごろん、じゃなくて、ロケットみたいに飛び上がってしまうからねえ。こんなの、嘘だねえ。嘘だけれど、ファンタジー。リアリティーを超える。
 最後、監督ひとりが生き残り、「やった、やった、やった。生涯に一本の大傑作」と大喜びして道路を走る。撮影しながら死んでしまった仲間なんか関係ない。やちろん抗争で死んでしまったヤクザなんか知るわけがない。「映画だ、映画だ、だれも撮ったことのない映画」というはじける喜び。
 いいなあ。
 そうだよなあ、どうせなら、映画を超える現実を映画にしたい。そうすれば映画は、もう絶対的な存在になる。
 この欲望は異常? 異常という正直が駆け抜ける。
                   (2013年10月09日、t-joy 博多シアター5)



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「マッチョ思想」とは何か(阿部嘉昭と私のスタンスの違い)

2013-10-09 19:01:22 | その他(音楽、小説etc)
「マッチョ思想」とは何か(阿部嘉昭と私のスタンスの違い)

 以下の文面は知人がFBの阿部嘉昭のタイムラインにある文章を私に転写してくれたものである。阿部の発言は、私には見えない設定になっているので知らなかった。(阿部の発言にある「うえの詩篇」は転写されていなかった。)
 いくつかの疑問点を書いておく。

アタマのわるい性格異常者からのネット上の攻撃がつづいている。火に油をそそいだぼく自身がわるい。それと、いかに卑劣な誘導とラべリングがあろうとも、書かれていることの出鱈目は自明、ともはや沈黙するしかない。けれども恵贈された詩集の逆パブを平気で書いて居直るそのマチズモは、みなの恐怖の的なのではないだろうか。こういう「書
きっぱなし」のことばの暴力にはどう対処すればいいのだろう。当事者とはいえバカにみえてしまうので、おなじ土俵にあがることも控えるしかない。粘着質のそのひとは、冷笑ぎみに土俵をさしだしているけれども。ともあれ精神衛生にわるいので、FB上の友人関係を切らせていただいた。もうそのひとのサイトもみないだろう。
昨日は敬愛するおふたりから、詩集送付の礼状がきた。岩佐なをさんと柿沼徹さん。双方の文面に懇切で胸をうつ賛辞がならぶ。そこではぼくの詩集のことばのしずかさと、かれらのことばのしずかさが「似ている」。やはりこれが正常だろうと、きもちを持ち直した。FBでも励ましのメールをいろいろいだだいた。ありがとうございます。
うえの詩篇は飲み屋で博士課程のI川さんがこれまでかたったことを、ぼくなりにコラージュしたもの。そのI川さんにもなぐさめられた。」
「ちなみに、ぼくは鎌倉の「山そだち」なので、友だちと一緒にあけびをもいで、よく食べた。ひらいている箇所をさらにひらき、種のまざったやわらかくしろい部分を舌でこそげる。それから、種をはきだしつつ、果肉をのどにながす。うすいあまさに、なにか薬のような味がくわわる。整腸剤の味に似ている、とみなでかたりあったものだ。
あけびは緑がかったふかい灰色に、むらさきが不気味に兆す。割れていることは不吉だが、それが女性器に似ているとはおもわない。むろん小学生当時は女性器など知らない。
現在もあけびにもっとなにか中性的なもの--死と生の中間的なものをかんじる。あけびの実りも縊死にみえたのだった」

(1)マッチョ思想の問題。
 阿部と私では「マッチョ思想」に対する定義が違っている。前回書いた「スタンス」が違うように。どういう違いがあるかを検討せずに「マッチョ思想」について書いてもしようがない。
 阿部は「恵贈された詩集の逆パブを平気で書いて居直るそのマチズモ」と書いている。ここからわかることは、「恵贈された詩集の逆パブを平気で書」くこと、さらにそれに対する阿部からの批判に「居直る」ことを、阿部が「マチズモ」と呼んでいることがわかる。簡単に言いなおすと、非礼と感じる態度をとることを「マチズモ」と呼んでいるように見受けられる。詩集を頂いたら感謝するべき、その詩集の宣伝をすべきであって、疑問を書いてはいけないということかもしれない。もう少し言いなおすと、相手の立場(自分の立場)を考慮に入れずに自分の考えを正直に言うことをさしているように見受けられる。詩集を頂いたのなら、頂いたひとは感謝と称賛をすべきという考えが、その奥にあるのかもしれない。
 私が阿部の詩に感じた「マッチョ思想」の定義は、「非礼」とも「相手の立場を考慮せずに自分の考えを発言すること」でもない。私は、自分の「肉体」で感じたことをそのまま書くのではなく、「頭」で知っていることで、ことばを補強することを「マッチョ思想」と呼んだ。「頭」で知っていることというのは、たいていの場合「社会に流通している概念」である。自分自身の「肉体」で消化されていないままのことばを私は「頭で書いている」と言い、そこに「マッチョ思想」を感じると書いている。
 「権威の流用」を、私は「マッチョ思想」と呼ぶ。阿部は「岩佐なをさんと柿沼徹さん」から礼状がきたと書いてあるけれど、こういう書き方も私は「マッチョ思想」と感じる。岩佐なをと柿沼徹は有名な詩人だけれど、その二人がどんな感想(礼状)を書こうと、私が感じたこととは関係がない。ひとはひとそれぞれに感想を持つものである。文学というのは「物理的尺度」で「客観的」に計測できるものではない。
 二人の感想が私の発言と関係があるとすれば、二人が「あけび」をどう読んだか。「雪」をどう感じたか、ということを書いてもらわないと私への反論にはならないだろう。私は、阿部の書いている「雪」も「あけび」も「頭」で書いたことばであると感じた。「頭」で書いていると感じたから、そこに「マッチョ思想」のようなものを感じたと書いた。
 有名詩人の二人の名前(権威)を持ち出してきて、権威のある二人が称賛しているのだから谷内の読み方はまちがっている--というような論法を私は「マッチョ思想」と呼んでいる。
 阿部に阿部自身の考えがあるなら、それを阿部自身のことばで語ればいいのに、と私は思う。
 私と阿部の「マッチョ思想(マチズモ)」は、まったく正反対のものである。だから、私は阿部が私のことを「マチズモ」と呼んで批判しているけれど、私はぜんぜん批判されたとは感じない。「スタンスが違う」、話がかみあっていなと思うだけである。

(2)「知っていること」と「わかっていること」の違い。
 「あけび」について、「博士課程のI川さん」の発言が要約されている。わざわざ博士課程と書いているのも、私には「権威主義」的に感じられて、あ、「マッチョ思想」にそまっているな、と思うのだが……。
 その「博士課程のI川さん」によれば、「あけび」は「中性的なもの」ということになる。「男性的」とは書いていない。ということは、やはり、「博士課程のI川さん」も阿部の「あけびを男性の下半身」の比喩とすることには完全に同意はしていないのではないだろうか。私は「博士課程のI川さん」の意見を読んでも、それによって自分が感じたことがまちがっているとは思わない。批判されているとも思わない。そうか、「中性的か」、私とは感じ方が違うなあと思うだけである。
 一方、「博士課程のI川さん」の食感から「死と生の中間的なものをかんじる。あけびの実りも縊死にみえたのだった」という「わかっていること」をことばにしていく部分は、とても感動した。熟れた果物には、たしかに死の匂いがあるなあ、と思い出した。こういう具体的なことばの動き、「誰かが書いたことば(流通していることば)」ではなく、自分の体験を書いたことばに私は詩を感じる。
 でも、不思議なのは、どうして阿部は「博士課程のI川さん」のことばを引用するのかなあ。なぜ、阿部自身の「あけび体験」を書かないのかなあ。--これが、とても疑問。
 私が阿部の今回の詩集に対する疑問は、そこに要約されている。
 「他人のことば」で自分を補強するのではなく、自分自身の体験をなぜ書かないのか。「頭」でことばを操っていないか。(私の意見では「他人のことば」で自分を補強するのは「マッチョ思想」である。)

 で、これはちょっと余分なことかもしれないが。--と書きながら、ほんとうはこれが言いたいのだけれど。
 「博士課程のI川さん」の「小学生当時は女性器など知らない」ということば--ここに、私はとても興味をもった。私も小学生のときは女性性器は知らない。めいのおしめを替えたり、同級生と「お医者さんごっこ」をしたりで、少女の下半身は見たこともあるし、さわったこともあるけれど、大人の女性の性器は、中学生のときも知らない。
 でも、知らないからといって、それが「わからない」わけではない。中学生になってオナニーをおぼえる。そうすると、自分(男)の性器をどうすれば何が起きるか。そのとき「気持ち」はどうなるかは、「わかる」。肉体で、本能(欲望)で「わかる」。だから、本能(欲望)が肉体をそそのかす。「頭」は「オナニーばかりしていてはダメ」といっても「本能(欲望)」は、そんなことばに従いはしない。気持ちいいと「わかっている」からである。そして、その気持ちいいと同じことが「女性性器」と自分の「性器」がいっしょになったときに起きることも「わかる」。「頭」ではなく「本能(肉体)」で「わかる」。「知らない」のに「わかる」。もちろん、この「わかる」は「妄想」の類かもしれないが、人間は「妄想」で現実を切り開いていくものである。この「わかる」に目をつむって、それを「知らない」というのを、俗に「カマトト」と呼んでいるように私は思う。
 世の中には「知る」から「わかる」にかわることと、「わかる」から「知る」にかわることがある。セックスなどというのは「わかる」が先なのだ。だからこそ、「おまえまだ女を知らないのか」という表現もある。そしても、女を知った(セックスを体験した)からといって、「女がわかる」とはなかなか言えない。自分がどうしたら気持ちいいかは「わかる」が相手にどうしたら気持ちよくなるかなんて、とてもむずかしい。
 逆の「知る」と「わかる」もある。たとえば外国語。「これは本です」を英語では「This is a book」ということは知っていても、英語が「わかる」わけではない。それだけでは「つかえない」。イランで話されることばはペルシャ語、その他のアラブで話されるのはアラブ語ということを私は「知っている」が、彼らが話すのを聞いても、あるいは書かれた文字を見ても、それがどちらかは「わからない」。
 こういうことは、「流通概念」の世界でも起きる。たとえば私は、阿部が書いていたアガンベンとベンヤミンの名前は知っているが、彼らの思想は「わからない」。自分のものとして使うことができない。デリダとかドゥルーズとか脱構築ということばも「知っている」けれど、「わかっていない」。「わかっていない」のに「知っている」からといってそれを流用するのは、私には「マッチョ思想」に感じられる。

 あとは、さらに余分なことだけれど。
 阿部は「アタマのわるい性格異常者」と書いている。だれと明記していないが、文章全体から、それが私(谷内)のことであるのは「わかる」。あ、すごい言い方だなあ、と思う。私が読むことのできない阿部が管理するページで、こういう発言をする人だったのか、と初めて知った。私は対話の相手を閉め出しておいて、こういう発言をすることはしません。阿部がいつでも読めるところで発言をしています。
 私とは阿部とでは、それくらい「スタンス」が違います。

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香咲萌『私の空』

2013-10-09 12:50:54 | 詩集
香咲萌『私の空』(土曜美術社出版販売、2013年10月01日発行)

 香咲萌『私の空』の巻頭の作品は詩集のタイトルにもなっている。その書き出し。

覗き窓から 空を視る
この切り取られた空間
それ以外は全て余白

 この「余白」がとても気になる。覗き窓から空を見る。その青空(たぶん)の空間。それが「余白」ではなく、それ以外が「余白」。うーん、覗き窓を囲んでいる壁や何かがあると思うけれど……。でも、「間違い」という感じはしない。何か、私の知らないものがここに書いてある、という驚き、詩の「予感」のようなものがある。
 私の知らないものを香咲は知っている--という予感。
 何だろう。

伸ばせば手の届く 私だけの空

この空と向き合う
この空と 語り合う

私は交感する
空気の一粒一粒
雲の一粒一粒が
私の細胞と混じりあう

 空に手がとどくとは私は考えない。空と向き合う、語り合うはわかるけれど、「私は交換する/空気の一粒一粒/雲の一粒一粒が/私の細胞と混じりあう」は「意味」はわかるけれど、実感としてつたわってこない。香咲の「肉体」がつたわってこない。
 「それ以外は余白」の1行は、わからないのだけれど、わからないを超えて、何かを感じる。そこに香咲がいる、という感じがする。たぶん、空(空気/雲)と交感するということは、空気が細胞に混じりあうことだと、私はどこかで聞いたことがある(読んだことがある)からだと思う。「交感」を言いなおすと、きっとそうなる。花と交感するなら、花の美しさ、輝きが、色と匂いが自分の体のなかに入ってくる。そうして一体になる--そういう感じを「空」で言いなおしている、と私は感じる。香咲以外にもそういうことを書いてひとはいると思う。
 でも、覗き窓があり、空が見えるとき、その空以外は「空白」と書いたひとはいないのではないのか。私は、そのことに驚き、その瞬間、香咲がそこにいると感じたのだ。--その感じが、詩を読み進む内に薄まるのだけれど、ああ、でも、きっと何かあるぞという「予感」があって、次の詩を読みはじめる。「存在」という詩。
 香咲は地図をつくる仕事をしているらしい。道路や川や建物、田畑を描いていく。「地図上に存在しないものはない」と書いて、3連目。

でも ただひとつ 図面上に描かないものが在る
描けないものが在る 山は等高線で描き出し
高低をつける 建物と水がい線は陰影をつける
光は届いているのだ そこに必ず在るのに
視えないもの 暗渠は視えはしないが破線で示す

 空気だけは漂っている
 図面全体に漂っている

 「地図に描けないもの(描かないもの)」ということばから、私は瞬間的に「光」を思い浮かべたが、どうやら香咲は「光」を「描かないもの」とは感じていない。「空気」も同じ。それは「図面全体に漂っている」。私には見えないけれど、香咲には、それが見える。描き出している、という自覚がある。
 職業の力--というものを感じる。そうか、私の肉体と香咲の肉体は、「見えるもの」が違うのだと感じた瞬間。

それは空だ
図面全体は空から視た状態で描くからだ
図面全体を 空が覆っている

 あ、このことを香咲は「私の空」で書いていたのだな。
 「空」と「空気(あるいは光)」はどう違うか。「視点の位置」が違う。その「位置」のことを香咲は「肉体」で感じている。
 仕事をしているとき、香咲はいつも「空」にいる。それは、私たちが地上にいて仕事をするとき、そこが地上であると意識しないのと同じように、それを忘れている。何かを描くことは、その対象そのものになることだから、その瞬間「立ち位置」は消えてしまう。意識からなくなってしまう。

私は忘れていた 空の存在を 会社勤めの時は
残業続きで 見あげるのは 真っ暗な空だ
流れてゆく星を 空しい気持ちで見送ったが

一人で仕事を始めてからも 私は
空の存在を意識できていなかった
常に下を向き 地を見つめ 四角く狭い缶詰のなかで
這いつくばっていたから

私は仕事の手を止め 缶詰の蓋を抉じ開けて
明るい世界に飛び出した

そこに 空が在った
そして 制作者である私も ここにいる

 「空」のあり方が違う。その「空」は地図をつくっている香咲だけの空である。「伸ばせば手の届く 私だけの空」が、ここで始めてわかった。空がそこにあるというだけではなく、香咲くは空そのものなのだ。
 そして、空があるから、私もある。
 この「空」の意識があって、最初の詩の「余白」がある。何も書き込まれていない空白がある。余白のなかへ、香咲は空といっしょに広がっていく。空を広げることは、地図に描かれている領域を広げること、地図を大きくすることは空を大きくすること、そして香咲を大きくすること。
 わああ、気持ちがいいなあ。
 どんな仕事でもつらいものがあるけれど、仕事そのものになると、そこにはそれまで知らなかった「可能性」が出てくる。その「可能性」の「余白」のなかに、香咲は広がっていく。
 「存在」には「空気の一粒一粒」と「交感する」とは書いていないのだけれど、「交感する」香咲自身が別のことばで書かれている。引用しなかった第2連、

烏口・丸ペン・コンパス・回転烏口を駆使して
墨書きする地図 詩と黒の世界 測量された
道路・河川・田畑・山・建物・門柱一本・
マンホール一個・法・植生界に至るまで
地図上に存在しないものはない

 同じように、香咲が地図を描くとき、香咲と「交感」しないもの(一体にならないもの)は存在しない。香咲はあらゆるものになって存在し、地図が完成するとき、香咲自身が完成するのだ。
 具体的な仕事はなんと美しいのだろう。ひとを美しくするのだろう。



私の空
香咲 萌
土曜美術社出版販売
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