ビクトル・エリセほか4監督「ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区」(★★★)
監督 アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタ、ビクトル・エリセ、マノエル・デ・オリベイラ
4人の監督のオムニバス映画。アキ・カウリスマキ監督「バーテンダー」、ペドロ・コスタ監督「命の嘆き」、ビクトル・エリセ監督「割れたガラス」、マノエル・デ・オリべイラ監督「征服者、征服さる」の4話
ビクトル・エリセ監督「割れたガラス」は、閉鎖された紡績工場が題材のインタビュー。冒頭にあらわれる廃墟になった工場が美しい。ガラスは割れていると同時に汚れている。その汚れに「時間」が刻み込まれているようで、それだけで映画を見た喜びがあふれてくるが、インタビューに答えるひとたちが、またすばらしい。
インタビューは食堂の写真の前でおこなわれる。何人いるかわからない巨大な食堂。そこで工場の従業員が全員集まって食べている。そのときの写真。その写真も圧倒的な存在感でせまってくる。その写真の中からぬけだしてきたかのように、80歳くらいから50歳くらいまでの男女が一人ずつしゃべるのをただ正面から撮っている。年代に差があるから、彼らがそのまま写真に映っているわけではないのだが、写真の中からぬけだしてきたと錯覚してしまう。ひとりひとりの存在感がすごい。
そして、その存在感は--ひとりひとりの人生の不思議な正直さから生まれてきている。貧しくて学校にもゆけず、働きはじめる。掃除係としてやとわれた少年は、箒を自分の家からもってきて働いている。そういうことが 100年にもならない、すぐ間近の「現代」のできごとである。工具をもたない彼は、なんとしても掃除係からぬけだしたくて社長に直談判する。「工具は?」「この両手」。そして、その手は機械によって押しつぶされたり、皮膚をはがれたり……。でも、彼は、その両手で仕事をまっとうした。最後まで働いた。そのことを、自分自身のことばできちんと話す。
ある女性は母親といっしょに働いている。少女とは自分の妹、弟を背負って働いている。昼食のとき、母親が幼い子供に乳を与えるので、そのときだけ彼女は子守から解放される。「それが、うれしかった」。彼女は母親になり、工場の昼休みに乳飲み子に乳をやる。そんな「暮らし」を、「これが私の人生。私は何も間違ったことをしていない」という叫びのように語る。
これは、すごい。
最後に、アコーディオン奏者があらわれる。彼が食堂の写真に向かって即興で曲を演奏する。その音楽にあわせて巨大写真のなかの数人の顔がアップで映し出される。それは、さっき見た体験談を語った社員の若いときの顔に見えてしまう。目が美しい。貧しいけれど、みんな品性がある。ゆるぎがない。働いて、その金で生きていくということに対して、人生とはこういうものなのだという「確信」をもっている。体験談を語った何人かが同じように口にしていたことばだが、「これが人生」と「肉体」でつかみとって、それをしっかり握り締めている。「肉体」そのものにたたき込んで、おぼえている。
こういう確信は、資本主義対労働者の構図のなかでは、いまでは否定される(評価されない)確信かもしれないが、まちがっている確信かもしれないが、胸を打たれる。あなたの考え方は資本主義に利用されるだけです、というような「頭」でわかっていることばで批判できないものをもっている。それが、たぶん「品性」。まちがったことをしていない、懸命に生きているという「人間の品性」である。
曲を聴きながら、思わず涙がわいてくる。
彼らが語るように、彼らの「過去」が、いま、東南アジアでくり返されている。安い労働力が、安いということだけでつかわれている。酷使されながら、ひとは、それでも夢を見て懸命に「いま」を超えていく。
アキ・カウリスマキ監督「バーテンダー」は、相変わらずの情報量の少ない映像で感傷を誘う。
(2013年10月06日、KBCシネマ2)
監督 アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタ、ビクトル・エリセ、マノエル・デ・オリベイラ
4人の監督のオムニバス映画。アキ・カウリスマキ監督「バーテンダー」、ペドロ・コスタ監督「命の嘆き」、ビクトル・エリセ監督「割れたガラス」、マノエル・デ・オリべイラ監督「征服者、征服さる」の4話
ビクトル・エリセ監督「割れたガラス」は、閉鎖された紡績工場が題材のインタビュー。冒頭にあらわれる廃墟になった工場が美しい。ガラスは割れていると同時に汚れている。その汚れに「時間」が刻み込まれているようで、それだけで映画を見た喜びがあふれてくるが、インタビューに答えるひとたちが、またすばらしい。
インタビューは食堂の写真の前でおこなわれる。何人いるかわからない巨大な食堂。そこで工場の従業員が全員集まって食べている。そのときの写真。その写真も圧倒的な存在感でせまってくる。その写真の中からぬけだしてきたかのように、80歳くらいから50歳くらいまでの男女が一人ずつしゃべるのをただ正面から撮っている。年代に差があるから、彼らがそのまま写真に映っているわけではないのだが、写真の中からぬけだしてきたと錯覚してしまう。ひとりひとりの存在感がすごい。
そして、その存在感は--ひとりひとりの人生の不思議な正直さから生まれてきている。貧しくて学校にもゆけず、働きはじめる。掃除係としてやとわれた少年は、箒を自分の家からもってきて働いている。そういうことが 100年にもならない、すぐ間近の「現代」のできごとである。工具をもたない彼は、なんとしても掃除係からぬけだしたくて社長に直談判する。「工具は?」「この両手」。そして、その手は機械によって押しつぶされたり、皮膚をはがれたり……。でも、彼は、その両手で仕事をまっとうした。最後まで働いた。そのことを、自分自身のことばできちんと話す。
ある女性は母親といっしょに働いている。少女とは自分の妹、弟を背負って働いている。昼食のとき、母親が幼い子供に乳を与えるので、そのときだけ彼女は子守から解放される。「それが、うれしかった」。彼女は母親になり、工場の昼休みに乳飲み子に乳をやる。そんな「暮らし」を、「これが私の人生。私は何も間違ったことをしていない」という叫びのように語る。
これは、すごい。
最後に、アコーディオン奏者があらわれる。彼が食堂の写真に向かって即興で曲を演奏する。その音楽にあわせて巨大写真のなかの数人の顔がアップで映し出される。それは、さっき見た体験談を語った社員の若いときの顔に見えてしまう。目が美しい。貧しいけれど、みんな品性がある。ゆるぎがない。働いて、その金で生きていくということに対して、人生とはこういうものなのだという「確信」をもっている。体験談を語った何人かが同じように口にしていたことばだが、「これが人生」と「肉体」でつかみとって、それをしっかり握り締めている。「肉体」そのものにたたき込んで、おぼえている。
こういう確信は、資本主義対労働者の構図のなかでは、いまでは否定される(評価されない)確信かもしれないが、まちがっている確信かもしれないが、胸を打たれる。あなたの考え方は資本主義に利用されるだけです、というような「頭」でわかっていることばで批判できないものをもっている。それが、たぶん「品性」。まちがったことをしていない、懸命に生きているという「人間の品性」である。
曲を聴きながら、思わず涙がわいてくる。
彼らが語るように、彼らの「過去」が、いま、東南アジアでくり返されている。安い労働力が、安いということだけでつかわれている。酷使されながら、ひとは、それでも夢を見て懸命に「いま」を超えていく。
アキ・カウリスマキ監督「バーテンダー」は、相変わらずの情報量の少ない映像で感傷を誘う。
(2013年10月06日、KBCシネマ2)
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