詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区」(★★★)

2013-10-06 20:15:41 | 映画
ビクトル・エリセほか4監督「ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区」(★★★)

監督 アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタ、ビクトル・エリセ、マノエル・デ・オリベイラ

  4人の監督のオムニバス映画。アキ・カウリスマキ監督「バーテンダー」、ペドロ・コスタ監督「命の嘆き」、ビクトル・エリセ監督「割れたガラス」、マノエル・デ・オリべイラ監督「征服者、征服さる」の4話
 ビクトル・エリセ監督「割れたガラス」は、閉鎖された紡績工場が題材のインタビュー。冒頭にあらわれる廃墟になった工場が美しい。ガラスは割れていると同時に汚れている。その汚れに「時間」が刻み込まれているようで、それだけで映画を見た喜びがあふれてくるが、インタビューに答えるひとたちが、またすばらしい。
 インタビューは食堂の写真の前でおこなわれる。何人いるかわからない巨大な食堂。そこで工場の従業員が全員集まって食べている。そのときの写真。その写真も圧倒的な存在感でせまってくる。その写真の中からぬけだしてきたかのように、80歳くらいから50歳くらいまでの男女が一人ずつしゃべるのをただ正面から撮っている。年代に差があるから、彼らがそのまま写真に映っているわけではないのだが、写真の中からぬけだしてきたと錯覚してしまう。ひとりひとりの存在感がすごい。
 そして、その存在感は--ひとりひとりの人生の不思議な正直さから生まれてきている。貧しくて学校にもゆけず、働きはじめる。掃除係としてやとわれた少年は、箒を自分の家からもってきて働いている。そういうことが 100年にもならない、すぐ間近の「現代」のできごとである。工具をもたない彼は、なんとしても掃除係からぬけだしたくて社長に直談判する。「工具は?」「この両手」。そして、その手は機械によって押しつぶされたり、皮膚をはがれたり……。でも、彼は、その両手で仕事をまっとうした。最後まで働いた。そのことを、自分自身のことばできちんと話す。
 ある女性は母親といっしょに働いている。少女とは自分の妹、弟を背負って働いている。昼食のとき、母親が幼い子供に乳を与えるので、そのときだけ彼女は子守から解放される。「それが、うれしかった」。彼女は母親になり、工場の昼休みに乳飲み子に乳をやる。そんな「暮らし」を、「これが私の人生。私は何も間違ったことをしていない」という叫びのように語る。
 これは、すごい。
 最後に、アコーディオン奏者があらわれる。彼が食堂の写真に向かって即興で曲を演奏する。その音楽にあわせて巨大写真のなかの数人の顔がアップで映し出される。それは、さっき見た体験談を語った社員の若いときの顔に見えてしまう。目が美しい。貧しいけれど、みんな品性がある。ゆるぎがない。働いて、その金で生きていくということに対して、人生とはこういうものなのだという「確信」をもっている。体験談を語った何人かが同じように口にしていたことばだが、「これが人生」と「肉体」でつかみとって、それをしっかり握り締めている。「肉体」そのものにたたき込んで、おぼえている。
 こういう確信は、資本主義対労働者の構図のなかでは、いまでは否定される(評価されない)確信かもしれないが、まちがっている確信かもしれないが、胸を打たれる。あなたの考え方は資本主義に利用されるだけです、というような「頭」でわかっていることばで批判できないものをもっている。それが、たぶん「品性」。まちがったことをしていない、懸命に生きているという「人間の品性」である。
 曲を聴きながら、思わず涙がわいてくる。
 彼らが語るように、彼らの「過去」が、いま、東南アジアでくり返されている。安い労働力が、安いということだけでつかわれている。酷使されながら、ひとは、それでも夢を見て懸命に「いま」を超えていく。

 アキ・カウリスマキ監督「バーテンダー」は、相変わらずの情報量の少ない映像で感傷を誘う。
                      (2013年10月06日、KBCシネマ2)

ミツバチのささやき [DVD]
クリエーター情報なし
東北新社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿部嘉昭『ふる雪のむこう』

2013-10-06 09:38:32 | 詩集
阿部嘉昭『ふる雪のむこう』(思潮社、2013年09月20日発行)

 阿部嘉昭『ふる雪のむこう』は2行5連という形式を守り抜いた詩集である。詩のなかにかならず雪が出てくる。--と書いた後、さて、どうことばをつづけていくべきか。
 定型なので、ことばに一種の圧力がかかる。圧力がかかる、というとき、それはたいていの場合外圧になる。外圧をはね返す内圧が、内部でたかまってくる力が形式に緊張をもたらし、その緊張が美しく輝く--ということがある。
 逆に、内圧が形式になって働き、その暴発を外部にあるものがおさえようとする。あるいは高まった内圧をどうにかするために、対象の内部に入り込み、内部から対象を自分の「内圧」に従わせる--ということもあるかもしれない。ここからマッチョ思想があらわれる。巨大な内圧を抱えたペニスで女を貫き、女を自分の「形式」に染め上げる(征服する)という妄想があらわれる。
 阿部の場合はどっちなのだろうか。
 きのう読んだ三井葉子との比較で言えば、まあ、マッチョ思想のことばの運動である。あくまで「比較」のことなのだけれど。でも、こういうことは「比較」でしか言えないかもしれない。
 たとえば「甘露のあと」。

みんな「かんろ」で百合根のバター煮をたべ
あまさにひそむ微量のにがさに口もとを割る

 この書き出しの2行だけなら、阿部の肉体と百合根の苦さの関係は、外部(百合根)が阿部の肉体に変化を産んだということになるかな? 百合根という外部が、阿部の肉体がおぼえている苦さを誘い出し、それが阿部の肉体にさらに働きかけたということになるかな? 「形式」をここに持ち込むとややこしくなるけれど、「肉体」と「対象」との力関係(?)でいえば、対象が肉体に働きかけている。肉体は対象には働きかけていない。たべる、が働きかけといえばそうなのだけれど、その後の肉体の変化がこの2行の主題なので、まあ、そう書いておこう。
 で、その外部が、阿部の肉体からどんな「美しさ」を引き出したかというと、

あまさにひそむ微量のにがさ

 だね。さらに「口もとを割る」までつけくわえてもいいのだけれど、とりあえず「あまさにひそむ微量のにがさ」。「あまさ」と「にがさ」。これは、一般的には同じものというよりも反対のもの。矛盾。矛盾の結合。外圧によって、誘い出された、突然の(偶然の)出会い--つまり、詩だね。こういう矛盾の結合はひとを驚かす。だから、詩。
 自分でつくりだしたものではないから、私はそれを「外圧」の部類に便宜上分類する。分類しておくことにする。
 こういう関係が、この一篇の詩を統一するかというと、実は、そうではない。

そとへ出るとふたたびくらやみを雪が漏れて
ひとつの長い息のまに耳下腺までふけこむ

きこえないがきっとある合唱が降雪とされた
ために札幌のもんだいは音、これを日録とする

 あ、マッチョだねえ。2連目はそうでもないのだが、3連目がね。
 「きこえないがきっとある」というのは阿部の「肉体」が冬のなかへ入り込んで捏造することがらである。屹立したペニスである。「ない」を「ある」に強引に阿部の力で変更する。「感じない」と言っている女に「ここがGスポットだ。これで感じるはず」とおしつける。「ない」快感を「ある」と主張する。阿部の感覚でもないのに、阿部が主張すればそれが「ある」ことになってしまう。それが強引をこえると「まだまだ未開発だ、おれが開発してやる」という具合にさらにマッチョになっていく。
 ということは、書いていない? でも、

 ふる雪、そのなかに合唱がある。それは聞こえないが、ある。きこえないのは、きみの感覚がまだ研ぎすまされていないから。おれが聞こえるようにしてやるよ。

 ほら、こんなふうに書き直してみると、マッチョなセックスということがわかると思う。
 さらに、阿部は追い打ちをかける。

ために札幌のもんだいは音、これを日録とする

 この「ために」は何? 理由。理由づけ。なんで、雪がふること、そこに聞こえない合唱がある、なんて理由づけないといけない? 合唱があってもかまわないけれど、そんなものに理由はいらない。雪が降れば、そこに静かに音楽がはじまるというのは、私なんかはいつも実感するけれど、それは「理由」とは関係ないなあ。
 さらに「もんだい」ということば。
 ふーん、「もんだい」って、阿部がかってにつくりだした「もんだい」だよね。阿部の「肉体」が抱え込んでいる妄想だね。ちょうど、「ここがGスポット」というのに似ている。それは阿部が単独で決めることではない。でも、阿部はそう決めて、そこを攻める。おしつづける。「もんだいは音」だって。
 「もんだい」とわざわざ「ひらがな」にして隠そうとしているのは、「ために」に通じる「意識(精神)」というもの。「頭脳」の領域。「頭」で何かを統一しようとしている。それはセックスの快感をGスポットで統一しようとするのに似ているかも。簡単に言うと、男の頭がつくりだした精神という名の妄想による統一というものを感じる。「おれは、これを知ってる。頭で理解している。おまえは、まだそれを知らない」というとき、ね、「頭(もんだい--という概念)」を持ち出してくる。マッチョだねえ。
 あ、でも、私はこれが「悪い」と言っているのではないよ。
 阿部のことばの肉体は、そういうふうに、どこかでマッチョ思想を引きずりながら動いている、それが阿部のことばのひとつの特徴と言っているだけ。「頭」をちらつかせるそういうことばの肉体とセックスをするのは、私には、ちょっとつらい。こういうやり方を快感と感じるひともいるはずだから、それはそれでいいのだと思う。

 かなり脱線してしまったが。
 この詩集に書かれている雪は、私の知らない雪である。私は札幌の雪は知らないが、北陸の雪は「肉体」でおぼえている。そのおぼえている雪とずいぶん違う。「頭」で書かれた雪があるのかなあ。まあ、私がそう感じるだけなのかもしれない。札幌の雪は阿部の書いているとおりなのかもしれないのだが。
 あるいは。
 阿部にとって雪は、新しい「もの/こと」だったのかもしれない。阿部の「肉体」のなかには雪についておぼえていることが意外と少なくて、「肉体」だけでは雪に立ち向かうことができず(肉体の内圧だけでは不十分で)、「頭」の力を借りて、それを内圧にして雪のなかへ入って行っているのかもしれない。--そう読んでみると、わかりやすいのだけれど。マッチョ思想が雪にまで反映していると読むと、納得できるのだけれど。でも、わかりやすいということと、それが「頭」で書かれていると感じてしまうことはちょっと違っていて、わかりやすくても、違和感が残る。
 雪そのものに対する描写ではないのだが、たとえば「翌日」、

吹雪の朝に刃むかおうと着替えだして
ふと下半身が、まはだかになってしまう

みおろしたおのれがむかしのあけびのよう
よぎるためにもゆれなければならない

 「あけび」が私の肉体がおぼえている「あけび」とあまりにも違う。(阿部の見ている雪も、きっと、それくらい違うのだろう。)「あけび」は私の肉体では男の性器にはなりえない。それは、熟れるとぱっくり割れて、ペニスを誘う女の性器だ。そのなかには透明な(ときには白い膜をかぶった)卵がぎっしり。それは精子のかたまりではなく、卵子のかたまり、あるいは胎児である。精子の塊に見えるのは……あけびをつかってオナニーをしたときである。実際にそういうことはあって、私らはこどものとき、嘘かほんとうかわからない冗談のような猥談を聞かされながら、ひとりで隠れてオナニーをして、それを現実に変えてしまうという「肉体」を経験するのだが。で、そういうことを「肉体」そのものでおぼえている私なんかには、あけびが自分の性器に見えるということは絶対にない。だから、こんな「頭」でっかちのことばの運動はいやだなあ、と感じる。

おそろしい白盲にこのかぐろさがいかり
やがてはらわたから、じかに垂れるだろう

 繰り返しになるけれど、こういうことばを読むと、阿部は山であけびをもいで食べる、みんなであけびをあつめたあと、がき大将がいちばん熟れたのを選び、子分はそのあと残り物をあさる、というような純粋なマッチョ世界で、そのときどんな会話(知りもしない猥談)がかわされるか--そういうことを知らない、体験していないのかもしれない。ぶらぶらゆれるペニスからあけびを連想するなんて、山のがきにはありえない「空想」である。

 いろいろ書いたけれど。
 でも「つぼみ」は好きだなあ。「椀に享ける」もマッチョではない男の形として美しいけれど、最後の2行が私にはよくわからない。「余分」に感じる。たぶん、阿部の肉体は雪を見た興奮のなかにあって、その興奮が引き寄せる何かなのだろうと思う。「小さな自殺」のなかの、

とよみやまないしじまの逆説
ひとの裸になろうとして湯にゆく者がいて

 この2行もとても好きだなあ。二回目の冬は「ひとの裸」になって、雪を書いてください。肉体が何をおぼえているか、二回目の雪のなかへ肉体がどう入っていくか、それを書いてください。それを読みたい。頭の上にふる「初雪」ではなく、ペニスの奥、睾丸に「根雪」になって残っているものを読みたい。ペニスから雪を吹雪のように、放出してください。

ふる雪のむこう
阿部 嘉昭
思潮社
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする