新井高子『ベットと織機』(未知谷、2013年10月15日発行)
詩には詩集にならないとわからないものがある--と新井高子『ベットと織機』を読みながら思った。収録されている詩の多くは詩誌「ミて」に発表された作品である。発表時に読んでいる作品もある。でも、そのときは他の作品との対比(?)で読んでしまうので、印象がまったく違ってしまう。生々しく、泥臭く、あ、感想は書きたくないなあと、敬遠してきたのだが。
うーん。
一冊になると、とたんにことばの手触りが違ってくる。新井の詩は新井のことばが重なり合って動く場でこそ読むべきものなのだとわかる。
ほかの人の作品といっしょだと、どうしても比較ということが起きて、新井のことばの強さが散らばってしまう。新井の作品よりも、ほかの作品の方がとっつきやすい。感想がいいやすい。
私は書きやすい方の感想を書いてしまう。どうしても書きにくい、書こうとすると自分をつくりかえないことにはことばが動かない作品は、わきに置いてしまう。
で、いま、一冊のことばを読みはじめて。
いやあ、やっぱり書きにくいなあ。
「ベットと織機」というのは、標準語で言うと「ベッドと織機」になると思う。織機工場が舞台。そこで働く女性が描かれている。子供をおぶって、あるいはベビーベッド(新井は「ベビーベット」と書いている)にねかせて働いている女性たち。その姿が活写されている。
その活写は。
「ベット」という表記が象徴しているように、「口語」そのもの。
言い方を変えると、「頭」で整えたことばではなく、口語、肉体で発せられたことばそのままの「間違い」を含んでいる。
「間違い」といっても、それは「頭」で考える「常識」と比較して間違っているということであって、「肉体」のやりとりだけにかぎれば「間違い」なんかはない。「ベット」と言って、それできちんとみんなに通じる。少なくとも同じ工場で働いている女性には通じる。
ほかにも通じることはたくさんある。
乳飲み子に乳を飲ませるという「肉体」が同じ、そしてそれは乳飲み子を産んだ「肉体」が同じということでもある。そして、そうなれば、これからも赤ん坊を産むという「肉体」、産む以前の「ポルノ」につながる「肉体」が同じということ。セックスする「肉体」が同じ、ということ。
工場はたしかに働くところだけれど、そこにはセックスだって入り込んでくる。
これは、だれがやっても間違えっこないこと。間違いなく同じことが繰り返される。そこに「真実」の力がある。
仕事場にセックスを持ち込むな--というのは「頭」の「正論」。持ち込んではいけなくても、したいものはしたいし、する時間が昼休みしかないなら昼休みにしてしまう。それは「頭」は禁止しているが、そこで働く女性たちの「肉体」は禁止していない。
「頭」で労働を整えていない。労働環境を整えていない。
そういう「肉体」の力、「肉体」が「肉体」を整えて、自給自足(?)する力があふれている。「肉体」の正直がある。
それを、新井は、ことばを整えずに、「肉体」に任せて動かしている。
「ベット」という表記は、その「肉体」の正直をそのまま反映している--というのは強引な言い方だけれど、私の感じるのはそういうことだ。
あ、こんなことを書いても感想にはならないだろうなあ、批評にはならないだろうなあと思うのだけれど。
私のことばなどはねのけて、新井のことばは動いていく。
もしかすると、そういうことも予感していて、私は「ミて」で読んだときは、目をそらしていたのかもしれないなあ。
これは、負けてしまう。新井のことばに負けてしまう。
いや、負けたっていいんだけれどね。
でも、ちょっと悔しいよね。あ、すごい--と言ってしまったら、ほかにはなにも言えないというのは、感想を書く方としてはつらい。
何かかっこいいことも言ってみたい。こんなふうに評価しています、と「意味」だってつけくわえたくなる。
でも(でも、ばっかり、書いている)。
でも、一冊になってしまうと、もう同人誌のときとは「量」が違うから、「負けた」と言うことが苦にならない。新井のことばに対抗して、何か「意味」なんて書いてもしようがない。もう、読めばそれでいい。
少しだけつけくわえるなら、この「頭」を拒んで(?)、あくまでも「肉体」のことばで動くとき、そのことばの射程というものが限られてくるかというと、そうではない、ということ。
「ねんねんころりよ」という作品は、
と、まるでポルノみたいにはじまるのだが、
福島第一原発の事故をも克明に描けるのである。「肉体」にひきつけ、「わかる」ことができるである。
「頭」で「理解」するのではなく、「肉体」で「わかる」。
どうすべきなのか、何ができるか。
新井の「肉体」は「わかっている」。
「ねんねん、ころりよ」では解決にならないと「頭」は言うだろう。もちろん、そんなことでは解決しない。だからこそ、その「ねんねん、ころりよ」が答えなのである。「ねんねん、ころりよ」で収まりがつかないものなど、いらないのだ。
「肉体」は「肉体」でなだめることができるものを完全にわかっている。知っている。そして、わかっているから、それを使うことができる。
その「わかっている」(つかえる)範囲で、新井のことばは動く。ほかへははみださない。これは、とても強い決意だ。
詩には詩集にならないとわからないものがある--と新井高子『ベットと織機』を読みながら思った。収録されている詩の多くは詩誌「ミて」に発表された作品である。発表時に読んでいる作品もある。でも、そのときは他の作品との対比(?)で読んでしまうので、印象がまったく違ってしまう。生々しく、泥臭く、あ、感想は書きたくないなあと、敬遠してきたのだが。
うーん。
一冊になると、とたんにことばの手触りが違ってくる。新井の詩は新井のことばが重なり合って動く場でこそ読むべきものなのだとわかる。
ほかの人の作品といっしょだと、どうしても比較ということが起きて、新井のことばの強さが散らばってしまう。新井の作品よりも、ほかの作品の方がとっつきやすい。感想がいいやすい。
私は書きやすい方の感想を書いてしまう。どうしても書きにくい、書こうとすると自分をつくりかえないことにはことばが動かない作品は、わきに置いてしまう。
で、いま、一冊のことばを読みはじめて。
いやあ、やっぱり書きにくいなあ。
「ベットと織機」というのは、標準語で言うと「ベッドと織機」になると思う。織機工場が舞台。そこで働く女性が描かれている。子供をおぶって、あるいはベビーベッド(新井は「ベビーベット」と書いている)にねかせて働いている女性たち。その姿が活写されている。
その活写は。
「ベット」という表記が象徴しているように、「口語」そのもの。
言い方を変えると、「頭」で整えたことばではなく、口語、肉体で発せられたことばそのままの「間違い」を含んでいる。
「間違い」といっても、それは「頭」で考える「常識」と比較して間違っているということであって、「肉体」のやりとりだけにかぎれば「間違い」なんかはない。「ベット」と言って、それできちんとみんなに通じる。少なくとも同じ工場で働いている女性には通じる。
ほかにも通じることはたくさんある。
糸繰り場には、カレンダーのポルノ写真が、目ェ流しておりました
機械なおしの二人のほかは、みィんな女の工場(こうじょう)に
銭湯のよう、
丸出しおっぱいは
こぼれます、ホンマモンも
泣きじゃくれば、飲まサァなんねェ
赤ンぼオブって、通っておったんです、女工さんらは
ベビーベットさ持ち込んで、稼(かせ)ェでおったんです
機械油と髪油と乳臭さが、工場(コーバ)のにおい
吸いたかねェ、そんなモン
ベビーベットと力織機、ベビーベットに力織機、ベビーベットが力織機、
ジャンガンジャンガン、ジャンガンジャンガン
乳飲み子に乳を飲ませるという「肉体」が同じ、そしてそれは乳飲み子を産んだ「肉体」が同じということでもある。そして、そうなれば、これからも赤ん坊を産むという「肉体」、産む以前の「ポルノ」につながる「肉体」が同じということ。セックスする「肉体」が同じ、ということ。
工場はたしかに働くところだけれど、そこにはセックスだって入り込んでくる。
これは、だれがやっても間違えっこないこと。間違いなく同じことが繰り返される。そこに「真実」の力がある。
おらんのです、
機織り工場のマリア観音、おりません、立っとりません
寝ております、ベットです
ダブルベットば 担(かつ)ぎ込んだヨ!
ヤイちゃんは、
しておった! お昼休みを、機械なおしの正(ショー)やんと
ギギギギィーッと
大腿骨の、
観音扉が
(ベビーはえぇが、ダブルはいかん、
と言えますか
女のなかの女、
のなかに、秘仏さんがおンならば、
開帳ならん、
と言えますか)
仕事場にセックスを持ち込むな--というのは「頭」の「正論」。持ち込んではいけなくても、したいものはしたいし、する時間が昼休みしかないなら昼休みにしてしまう。それは「頭」は禁止しているが、そこで働く女性たちの「肉体」は禁止していない。
「頭」で労働を整えていない。労働環境を整えていない。
そういう「肉体」の力、「肉体」が「肉体」を整えて、自給自足(?)する力があふれている。「肉体」の正直がある。
それを、新井は、ことばを整えずに、「肉体」に任せて動かしている。
「ベット」という表記は、その「肉体」の正直をそのまま反映している--というのは強引な言い方だけれど、私の感じるのはそういうことだ。
あ、こんなことを書いても感想にはならないだろうなあ、批評にはならないだろうなあと思うのだけれど。
私のことばなどはねのけて、新井のことばは動いていく。
もしかすると、そういうことも予感していて、私は「ミて」で読んだときは、目をそらしていたのかもしれないなあ。
これは、負けてしまう。新井のことばに負けてしまう。
いや、負けたっていいんだけれどね。
でも、ちょっと悔しいよね。あ、すごい--と言ってしまったら、ほかにはなにも言えないというのは、感想を書く方としてはつらい。
何かかっこいいことも言ってみたい。こんなふうに評価しています、と「意味」だってつけくわえたくなる。
でも(でも、ばっかり、書いている)。
でも、一冊になってしまうと、もう同人誌のときとは「量」が違うから、「負けた」と言うことが苦にならない。新井のことばに対抗して、何か「意味」なんて書いてもしようがない。もう、読めばそれでいい。
少しだけつけくわえるなら、この「頭」を拒んで(?)、あくまでも「肉体」のことばで動くとき、そのことばの射程というものが限られてくるかというと、そうではない、ということ。
「ねんねんころりよ」という作品は、
神秘でありました、おがむのが
日課でありました、朝の
しんぶんで、
ぴちゃぴちゃと 愛液たたえる大釜へ
口しめ抜いた男茎が、ムンズと
つッこみ、掻きまわし
と、まるでポルノみたいにはじまるのだが、
化ケモノでありました、淫ヨクの
火ばしらの、燃料ボーが
原シ炉という子宮、ゼツリンを
びちゃびちゃびちゃびちゃ
とけて、漏れてもおりました、っけ
福島第一原発の事故をも克明に描けるのである。「肉体」にひきつけ、「わかる」ことができるである。
「頭」で「理解」するのではなく、「肉体」で「わかる」。
どうすべきなのか、何ができるか。
新井の「肉体」は「わかっている」。
原発に、けっきょくお盛んですぞ
赤ん坊の半減期に
わーんと生まれる、デン子たち
ねんねん、ころりよ
「ねんねん、ころりよ」では解決にならないと「頭」は言うだろう。もちろん、そんなことでは解決しない。だからこそ、その「ねんねん、ころりよ」が答えなのである。「ねんねん、ころりよ」で収まりがつかないものなど、いらないのだ。
「肉体」は「肉体」でなだめることができるものを完全にわかっている。知っている。そして、わかっているから、それを使うことができる。
その「わかっている」(つかえる)範囲で、新井のことばは動く。ほかへははみださない。これは、とても強い決意だ。
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