詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治『人名』

2013-10-16 10:33:29 | 詩集
廿楽順治『人名』(思潮社、2013年09月20日発行)

 (きのう読んだ内田良介『海と書物』のつづきを書くつもりでいたのだけれど、ちょっと気分転換にと思って手をのばしてしまった詩集に、つかまってしまった。で、予定変更。--というのは、書かなくてもいいことかもしれないけれど。)

 何度か感想を書いたことのあるひと詩集の感想はむずかしい。同じことを書いてしまうか、まったく違うことを書いてしまうか。同じことをかけば、それは読んだ、と思われるし、違うことを書くと前の感想と違うと言われるし。ま、人間って、そういう自分勝手なものである。だから、私も自分勝手。同じ感想をになろうが、違う感想になろうが、感想は感想。感想なんて、その日の気分次第。
 「山本三五郎」については、読んだ記憶は鮮明にあるが、感想を書いた記憶ははっきりしない。以前に読んだときとはまったく違うことを書くことになるな(同じことを書いても、付け足す部分はまったく違うな)という予感。
 前に読んだときと、いま読んだときのあいだに、時間があって、そこで起きたことが影響するからである。そういうことを書くことになるな、と思う。
 作品は尻揃えの形をとっているが、頭揃えで引用する。正確な形は詩集で確かめてください。

さんごろうさんは
あぶないひとだ
ひだりの頬から首にかけて
ざっくり
観念というものがわれている
どうだいきれいだろう

 ふいに「観念」ということばが割り込んでくる。でも、その「観念」はすでに「肉体」になっている。つまり、すぐに「意味」を「定義」できない。「定義できない」というのは「定義する必要もない」ということといくぶん似ている。「観念」なんて「流通」しすぎていて、「意味」がなくなっている。言い換えると、「観念」というものの「定義」は人の数だけある。三五郎の「観念」と廿楽の「観念」と私の「観念」は違っている。どこかに共通項があるかもしれないが、厳密には違っている。で、人の数だけ「観念」があるからこそ、

どうだいきれいだろ

 という強引なことばがあらわれる。「きれいだろ」と呼ばれているのは「頬から首にかけて」の傷痕かもしれないが、その傷痕を三五郎は「きれい」と呼ぶとするなら、そこにはある種の「観念」(そのひとの思い込み--傷は男の勲章とかなんとか)なんていうものが入り込んでいる。そんなものは「観念」ではないというひともいるかもしれないが、「男はどうなるべきか」という思いと傷がつながっているなら、そこにはやっぱり「観念」が入っているのである。
 もし「観念」というものが「頭のいい人」がいうように、アドルノだのベンヤミンだの(デリダだったかな?)のいう「観念」という「意味(定義)」なら、こんな具合にはならない。あ、カタカナの名前が違っている?--そうだろうね。私は自分に関係ないことは他人がどんなに一生懸命説明してくれても、簡単に要約してしまう。何だか外国の人の名前を語っていたが、あれは外国の哲学を読んでいるぞと言いたかっただけなのだ--というのが私の要約。ようするに、「頭のいい人」ということを強調するために発せられたことばなのだから、「頭のいい人」なら読んでいそうな名前ならなんだっていいんだ。
 ちょっと脱線したが、「意味」のあいまいなことば、「意味」よりもその人の肉体の印象が強いことばが廿楽に押し寄せてきて、廿楽をのっとって、廿楽のことばを消していく--ようであって、消していかない。
 廿楽にとっても「観念」というのは、もう「肉体」になってしまっていて、きちんとした「定義」なんか必要ないから、あいまいな意味をあいまいなまま生きていく。「傷が美しい」ということに同調するのは「あぶない」。とっさに、そういうことばが出てくる。「あぶない」は「観念」と同じくらいに「肉体」になじんでいる。「肉体」がかってに意味をおぼえているので「あぶない」としか言えない。言い換えると、なんだか違うものになる。「定義」なんか、いらない。「あぶない」が「肉体」わからない人には、それを「頭のことば」で言い換えたところでわかりっこない。

 何が言いたいかというと。(という具合に、私はかってに説明するふりをして「飛躍」して、すべてをごまかす。)

 何が言いたいかというと……。
 どんなことばにも人の数だけ「意味」がある。つまり「定義」できない、あいまいなものを内部に抱え込んでいる。それはまるで「肉体」そのものである。人の数だけ「肉体」がある。そして、それは人の数だけ違った動きをする。
 医者にとっての「肉体」は病気があらわれる「場」であるけれど、ふつうの人間にとっては、勝手な思い(観念)があらわれ、具体化する「場」である。
 学者ではなく、庶民なら、あらゆることばの「定義」は、とっても大きい。ことばの定義なんか違っていても暮らしていけるからである。
 「観念」なんて、「考えていること」くらいの「意味」にしてしまうと、前にも書いたが「おれの傷口はかっこいいだろ」さえ「観念」である。しかも、それがややこしいことには、「うん、かっこいい。きれいだ」という思いを引っぱってしまう。聞いている人の「肉体」から「かっこいい、きれい」が表に出てくる。やくざとけんかして、その証拠が傷になって残っているなんて、どこか自慢したいなあ。私は、そんなことなんか、できないからね。
 何かが違うって? もちろん違うさ。だって、詩なのだから。詩は「現実」とは違うものなのだ。「現実」と同じなら「現実」。詩、という「名前」はいらない。

 違う言い方をしてみよう。「みよちん」。

もうだれもそのひとのことをがわからない
あつまった四五人の
記憶の土地で
雨風にさらされている
みよちんはさびた釘になってしまった
ひらべったい
あたまだったなあ
背がひくくて棒みたいにやせていたなあ

 釘(さびた釘)は比喩である。比喩というのは「具体」ということであって、それは「意味」以前である。それは「象徴」のように「意味」を生み出すのではない。「意味」をたたきこわして「意味」以前にひきもどす。平べったい頭。棒みたいな体。つまり「釘」だな。
 それは「意味(定義)」ではないから、ひとは(私は)そこにへ引っぱられていく。自分のことばをなくしてしまう。つまり、私は「釘」という比喩を読むことで「みよちん」を知るのではなく、むしろ、みよちんを知っている廿楽の「肉体」そのものになってみよちんを見てしまう。
 いやあ、他人のことばに触れることは、他人になってしまうという危険性をもっていることなんだなあ。でも、この危険は、セックスと同じで(私はむしろセックスと呼んでしまうのだが)、わくわくしてしまう。
 みよちんが釘だなんて、「わからない」。でも、その「わからないもの」の奥に「わかるもの」がある。「頭」ではなく「肉体」がおぼえているものが動く。
 この「おぼえているもの(こと)」、「おぼえている」という動詞そのものを、廿楽は「会得」と呼んでいる。(「児玉健一」の2行目に、「会得」が出てくる。)--ということを書くと、私の「感想」は「批評」になってしまうので、そういうことはしない。この詩集は批評してしまうと、廿楽の思うつぼ。いや、そのつぼにはまってしまうのもいいだろうけれど、はまらずに、その周辺で遊ぶ方が楽しいから、私はそれ以上の「意味」は書かないのだ。

 「定義」について、もうちょっと。「「いわた」さん」という作品。--これは、感想を書いた記憶がある。そのとき書いたことと少し重なることを書くと思うけれど。

「いわた」さんの下の名まえはわからない
下の人生がないままで
そのころ毎晩うちの店にやってきた
ひとはわるくないが
いい年をして所帯をもたない
知り合いの娘さんを紹介しようとすると
いつも怒るんだ
だからもう何もいわない
父は「いわた」さんの下について断定した

 この引用の最後の「下」は、「下半身」の「下」。「所帯をもたない」というのは結婚しないこと、というのはセックスしないこと。
 えっ、でも「下の名まえ」ということろから「下」ははじまっているのに、そんなふうにねじまげていいのかって?
 いいにきまっている。「定義」はゆるやか。そのゆるやかな部分をゆりうごかして、なおいっそう、だらしなくさせる。そうすると「頭」ではわからないものが「肉体」でわかるようになる。
 「定義」のずーっとずっーとずーっと奥にある、「定義」以前の「こころ」がある。
 下の名まえに関心をもつということは、そのひとを「いわた」さんと呼ぶ以上に関心をもつこと。プライバシーに関心をもつこと。だから、「所帯(セックス)」の方に関心がゆき、「下」といえば「下」のからださ。
 これは「頭」ではなく、「肉体」がおぼえていること。
 その「肉体」がおぼえていることが、ぐい、ぐい、ぐいっと、いやあるときは、こちょこちょっとくすぐる感じで「肉体」に侵入する。あ、そこじゃないのに。あ、そこ、そこをもっと……ね、ことばがセックスするんです。
 



詩集 人名
廿楽 順治
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする