詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千人のオフィーリア(101-120)

2013-12-04 22:45:08 | 連詩「千人のオフィーリア」
                                        101 山下晴代
「はい、こちら、ガブリエル。今から"受胎告知"のお仕事にでます。行き先は当然、あの方……。千人のマリアから千人のキリストが生まれたら、いったいどーなる? その後の世界は」
「♪しあわせが大きすぎて、悲しみが信じられず……」と、ザ・ピーナッツは歌っている。曲は、当然『恋の……』オフィーリアならぬ、"オフェリア"です。

                                         102 橋本正秀
胎児が赤剥けた体を
震わせて誕生する
黄葉の森

水膨れの
肉厚の
絶版の
このページに
類人猿の幼形を保ったままの
胎児は
成熟したかのように
これまでの人生を
書いて書いて書き連ねて
眠る 眠る 眠る

そして朝

よだれまみれのページから
文字は消え失せ
黄色いページだけが
明るく
光っている

                                       103 市堀玉宗
子を宿す絶望に似てこの寒さ


 
                                        104 二宮 敦
堕胎は大体いかん
太宰は大抵あかん
大帝は最高たらん
垂乳根の母なる腹に子は宿り
ヤドカリはどこにいる
イルミネーションの末裔に
歳末に売り出しあらん
ALSOKには吉田びらん
ビリージョエルのエンディング

                                       105 金子忠政
コケティシュに鼓舞され
苔むす国家へ孤高として
昏倒しながら
小賢しく攻撃をしかける
荒唐無稽の小鬼たちは
小癪なこそ泥のように
ことごとく困惑させるから
サクサク素敵だ
素敵は無敵
無敵は素敵な造反有理
ああ・・・
やるせなさを孕んで
セシウムが空を行く
旋回して
千回地に墜ちて・・・
ジクザグに蝕む
何を蝕む?

                                         106 二宮 敦
コント55号こそセシウムの膿のおやだす
と描きしは
蚊の垢まみれ不二雄
かゆし痒しかりゆし
沖縄の空は
コバルトのごとく
セシウムの君より
五つ歳(とせ)上なりや

                                         107 橋本正秀
素敵な無敵なコント
ゴーゴーとのたうつ的屋の
手の内サンザン
シーシーと
ニャンコとワンワン
ワンダーブルー
ブルーな ブルーな
ブルーな
胎児の脳の
リフレイン
絶望
そう
絶望のみが
希望なの 所望なの
朝に
胎児たつ

リプレース リプレー

                                        108 山下晴代
絶望だけが人生だ、ダザイです。え? ダサイじゃありません。ダザイです。ほら、玉川上水で「成功=性交」した。
どうでしょう? オフィーリアと私の共通点は、周知のとおりでありますが、ワタクシ、さまざまな女と「入水経験アリ」ですから、いいでしょう。千人のオフィーリア、引き受けましょう。でも、言わせてもらえば、私といっしょに「飛び込んだ」女たちは、すべてオフィーリアだったのです。

                                      109 市堀玉宗
人間不信おしくらまんじゆう抜けしより だすげまいねとだすけまいねと

                                        110 二宮 敦
オフィーリアの増殖こそ
彼女の意図する孕みだった
エイリアンに
全ての時代が悩まされ
苦悩するリフレイン
いつ果てることもない輪廻
救いの神仏の登場さえ
謀られた愛の刻印に過ぎぬ
ゆえに全てはまた回帰する
虚脱も離脱も逃避も回避も
許さなれぬ宿世へと

                                        111 橋本正秀
余所者の余計もん
オフィーリアの周りは
そんなものあんなものの
興行一座
神仏さえもお節介もんの
仲間外れ
離脱行に逃避行
手出し口出し
ちょっかい無用
これもあれも
先の世この世の
闇の空間

八百万
のオフィーリアドールの
集団行動マスゲーム
そんなこんなで
オフィーリアは
ついに
オフィーリアの

を持ちました

                                        112 市堀玉宗
冬薔薇叶はぬ愛を抱き寄する

                                       113  金子忠政
冬空のひかりにすがる薔薇の骨それを折る折る、 白き血流る

                                        114 山下晴代
わたしの名前はオフェリアでッス
もちろん芝居に決まってまッス
バラのほね、バラバラのほね
集めてもガイコツにはなりません
これでオワリです
これで尾張です
名古屋の煉獄でハムレットを待ってマス

                                     115 小田千代子
終わる恋 安堵のなかの後ろ髪
引かれ引かれて忘河流るる

                                         116 橋本正秀
冬ごもる二年三年今四年
折れる心根銀河につつむ

                                        117 二宮 敦

オフィーリアは
考えた
引くこと、折ること、終わらないこと
への罪を
勿論贖うためではなく
考えるために
である
思考の回路の維持
何より大切な生命

                                        118 小田千代子
けもの道あゆめぬ女の道案内
小江戸 なみだの苦しコーヒー

                                        119  橋本正秀
ウソとホントの棲んでいる
けもの道には、
ホントとウソと
ウソとホントの
だまくら合戦ありました。
ちょびっとのウソと
ちょこっとのホントを
かけ合わせ、
真(まこと)の花と時分の花が
もたれ合っての罵り合い、
だんまり屋あのだまし絵描きの
描きっぱなしいの
苦み走った脳のなかにゃ、
男と女の本真(ほんま)の子供だましが
口元ゆるめて座ってる。
直球も、
カーブもシュートも、
ミラクル55号も、
あるでよお。
真真(まことまこと)し
ウソ八百の真光りこの世界。

戯れ言、言い言い、

笑え。
   嘲え。
     オフィーリア。
歌え。
   謳え。
     オフィーリア。

                                        120  市堀玉宗
まだ愛の足らぬとばかり冴えわたる
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井坂洋子「からだ」、佐々木安美「盛り土がある、と切り土は考える。」ほか

2013-12-04 10:15:29 | 詩(雑誌・同人誌)
井坂洋子「からだ」、佐々木安美「盛り土がある、と切り土は考える。」ほか(「一個」4、2013年冬発行)

 井坂洋子「からだ」と佐々木安美「盛り土がある、と切り土は考える。」を読みながら、あ、何かがつづいている、と感じた。佐々木の詩に「カラダ」ということばがあるからか。そうかもしれないが、それ以外のことも関係しているかもしれない。

乗り物がやってきて
私たちはつれていかれる
という話は今までたびたび読んだ
時間や死の暗喩を                           (井坂)

盛り土がある、と切り土は考える。考えるために切り土は開かれたのか。
そんなことはないはずだ、開かれた、考えた、             (佐々木)

 井坂は「読んだ」、佐々木は「考える(考えた)」という「動詞」をつかっている。その二つが私の印象では「ひとつ」になる。井坂は「読んだ」だけではなく、読んで考えた。そこには「考えた」が省略されている。佐々木は「考える」の前に「ある(開かれた)」という動詞を置いている。この「ある(開かれた)」に出会って(見て)、「考える」が始まる。その「出会い(見る)」が、私には「読む」に似ているように思える。「開かれた」はあたかも「土の世界」という「本」が開かれて、それを「読んでいる」感じがする。佐々木の書いている「考える(考えた)」は佐々木ではなく、「切り土」なのだが、そこに佐々木自身が託されているように感じる。
 「考える」ふたりは、「からだ/カラダ」にたどりつく。

生命はみな生きものの器を借り
食いつなぐため
あれこれ算段させる
生命の顕現はいたるところに                      (井坂)

 「生命の顕現はいたるところに」の最後には「ある」が省略されている。それは「盛り土」のように「ある」。それを見て「わたし(切り土)」は考えるのだが、

水滴は落下しかなくて
思いを込めて落ちることなんてこともない
涙が鼻筋をつたってあご先からしたたり落ちる
水滴よ
わたしは物体なのか?
ときどき体内から時間がそとに出たがって
喉奥の繊毛を逆撫で セキが止まらない                 (井坂)

 「ある」ものは「水滴/涙」とことばをかえながら動く。動詞を「落下(する)」「滴り落ちる」と変化させる。「盛り土」の嵩が切り開いた土の量によってかわるように、何かが変わるのだが、それがかわっても、何か「ある」ものと「自分(肉体?)」の関係はずーっとつづいている。「盛り土」と「切り土」の総和が変わらないように、形は変わっても変わらない「総和」のようなものがある。
 それは、もしかしたら「思い」ということかもしれない。(「涙」ということばに影響されて、ふと「思い」とことばがやってきた……)。
 「思い」は「思う」。そして「思う」は「考える」。それが井坂の「からだの中(体内)」で動いている。「考え(思い)」は結論にたどりつくわけではないのだが、その「動き」そのものを感じる。

人間のカラダの中の、生きている水、水の循環。
意識のアリカ、分散と集中、
巨大な星間舟の内部空間を泳いでいく無人探査カメラ。

そして盛り土と切り土はカスガイのように離れられず
不思議な均衡の中にいる                       (佐々木)

 佐々木の書いてる「水」は「涙」というより、「体内の水分」全部のことかもしれないが、「意識のアリカ」というようなことばは「涙」にぐっと近づく。「意識」を「感情(思い)」と考えるなら、さらに近づく。
 佐々木は「意識」で「考える」。井川は「涙(感情)」で「思う」。この「考える」と「思う」、「意識」と「感情」というのは、まあ、便宜上のことであって、その区別は厳密にはできない。私には、という断りが必要かもしれないけれど。佐々木は「分散と集中」という表現をしているが、それは散らばったり集まったりしながら自在に形を変える。集まり方(散らばり方)で「意識」と呼ぶのがふさわしかったり、「感情」と呼ぶのがふさわしかったりするのだと思う。この場合の「ふさわしい」は「便利」(都合がいい/説明がしやすい/流通させやすい)くらいのことだ。
 で、そのとき、意識(感情)/考える(思う)は、どういう関係にあるのか。
 「思考」という便利な合体語(?)で意識/感情も「カラダの内部(体内)」という表現にして、強引に「整理」すると、どうなるだろうか。
 「思考」は「からだ」の「内部」を動くが、そのとき「思考」は「外部のもの」を「思考」を代弁させるものとしてつかっている。水とか土とか。(その「代弁」を井坂は「算段」と呼んでいるのだが--とあとだしじゃんけんのように補足しておく。)
 この「からだ」と「もの」と「思考」の関係は、はっきり書こうとするとかなりめんどうくさいが、はしょって言えば「カスガイ」のようなものである。「からだ」と「もの」は「カスガイのように離れられず」、その「離れられない状態(離れられないこと)」が「思考/思う/考える」なんだろうなあ。「離れられないこと(状態)」が「均衡」なんだろうなあ。
 「均衡」といっても、それは「止まっている」のではなく、揺らいでいる。動くことでバランスをとっている。
 このバランスの取り方の「粘着力」(体内と体外のつなぎとめ方)が、うーん、似ているなあと思う。似ているからいっしょに同人誌を出しているということになるのかもしれない。
 もうひとりの同人、高橋千尋は、絵とことばのなかで「ふたり一役」をやっている。「合唱」には向き合った耳の絵があり、それに

みーみー じーじーじーと
蝉の声

という行をぶつけるとき、「みーみー」が「耳」となって立ち現れてくる。楽しいね。


続・井坂洋子詩集 (現代詩文庫)
井坂 洋子
思潮社



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西脇順三郎の一行(17)

2013-12-04 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(17)

 『旅人かへらず/四七』(26ページ)

山の麓の家で嫁どりがあつた

 昔の私ならこの一行を選ばなかったかもしれない。「いま」だから「嫁どり」がより新鮮に聞こえる。いまは、嫁どりとはだれも言わないだろう。「嫁」ということば自体が男女平等、ふたりの意思の尊重という概念にあわない。
 そういうことばの変化、あるいは「意味」とは別にして、「嫁どり」というのは「音」がゆったりしていておもしろい。濁音・清音という概念が邪魔して、濁音は「汚い」という印象をもたれることが多いが、私は、濁音は豊かな感じがすると思っている。口の中、喉の奥の方に音が反響する感じ、唾がうるおう感じが好きである。
 だれの結婚とは書かずに、ただそういう「こと」があった、と、まるで「人事」を「自然」のように詩の中に取り込んでいるところも好きだ。
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