詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡野絵里子「夜の小さな眠り」

2013-12-14 09:53:37 | 詩(雑誌・同人誌)
岡野絵里子「夜の小さな眠り」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 岡野絵里子「夜の小さな眠り」(初出「朝日新聞」06月25日)は、見えないものを見えるようにする。見えないものが、ことばによって見える。その変化の瞬間が詩だということを教えてくれる。

降りて来た夜が
最初に触れるのは
銀色の電波塔と鳥たちの小さな瞼
梢の中の雛が一羽ずつ目を閉じ
枝が日の名残をふるい落とす
夜は透き通った腕を広げ
打ち上がる街の声を包む

 「雛が一羽ずつ目を閉じ」るのを岡野は見ているわけではない。でも、そのことばに触れると、私には雛が一羽ずつ目を閉じるのが見える。肉眼ではなく、肉眼よりももっと強い視力で。肉眼ではなく「肉体」全体で何かを見る。「わかる」。
 「枝が日の名残をふるい落とす」のは見えるわけではない。「日の名残」というような抽象的なものは雛の瞼のようには「見えない」。でも、そこに書いてあることは「わかる」。
 「夜が透き通った腕を広げ」るのも「見えない」。でも、「わかる」。
 このときの「わかる」は感じる--というより、錯覚なんだけれど。錯覚とわかっていて、それを否定する気持ちになれない。それでいい、と思う。そういうものが「ある」(見える)といいなあと思う。欲する。欲望する。--それが「わかる」ということなのかもしれない。
 で、「わかる」を積み重ねながら、あ、岡野は透き通るような視力を持っている詩人なのだ、その視力よよって世界は透明に、美しく整えられていくのだ、ということが「わかる」。そういう世界の整え方をする岡野が好きだなあ、と感じている私がいることが「わかる」

 そういう透明な視力、世界を透明に整える視力の魅力。--それは、しかし、「抒情詩」の「定型」かもしれないね。
 だから、それ以上のことを書き加えておこう。
 私がいちばん感動したのは雛や枝の描写ではなく、実は、2行目の「最初に触れるのは」の「最初」である。「最初」を見る視力である。「最初」を「わかる」ということ。その瞬間を「最初」として把握する「肉体」。それに揺さぶられる。
 「最初」と書きながら、岡野のことばは銀色、電波塔、鳥、瞼、雛、目を閉じる、枝、日の名残をふるい落とす--という具合に動いていく。ほんとうの「最初」はでは「銀色」? あ、そんなことはないね。そこに書かれているもの「全部」が「最初」。
 それらは「個別」なのだけれど、「個別」ではない。何か、「ひとつ」のものである。むりやりことばにすれば「夜(の入り口)」。--あ、これはいい説明の仕方ではない。何といえばいいのだろうか、「集合」することによって共有される何かである。集まってくることで、そこに何かが浮かびあがる。「全体」として、あるいはそういうものが「つながる」ということで始まる「夜」を感じさせる。「夜」ではなく「始まる」を感じるのかもしれない。
 それを「集合させる」(結晶させる/つなげる)ことばが「最初」なのだ。

降りて来た夜が
触れるのは
銀色の電波塔と鳥たちの小さな瞼
梢の中の雛が一羽ずつ目を閉じ
枝が日の名残をふるい落とす
夜は透き通った腕を広げ
打ち上がる街の声を包む

 「最初」を省略してみると、「最初」がないと「全体」の結晶する力が消えて、「全部」が「全体」ではなく「ばらばら」に散らばっていくことがわかる。少なくとも、私には「ばらばら」に見えてしまう。「最初」があるから、その「最初」へ向けて「全部」が集まってくる。複数が集まれば集まるほど透明になってくる。
 この「最初」があるから「最後」もある。

夜が最後に触れるのは
銀色の電波塔

それから朝が降りて来る

 朝が「最初」に触れるものについては岡野は書いていない。書かないことで、夜の「最初」と「最後」がきれいな「枠」のなかにおさまる。





陽の仕事
岡野 絵里子
思潮社
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西脇順三郎の一行(27)

2013-12-14 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(27)

 「冬の日」

この村でラムプをつけて勉強するのだ。

 「ラムプ」が「ランプ」であったら好きになったかどうかわからない。「ラムプ」には音にならない不思議な音がある。耳に聞こえる音の奥、脳のなかに響く音がある。記憶の音。そういう音が昔はあったのだという肉体の記憶が脳に残っている--というのは、もちろん嘘、というか方便なのだが……。
 西脇の音(音楽)は「肉体」そのもので聞くというよりも、何か、この「ラムプ」につうじる不思議な響きがある。脳に響いてくる。脳なのだけれど、脳だけではなく、脳が覚えている「肉体の記憶」。かつては、そういう肉体があった、「ラムプ」は唇が動き、音が美しく口のなかにこもる、その振動が口蓋をくすぐる……。
 いまでも「ン」よりも「ム」の方が「プ」につながりやすいのだけれど。どうして「ン」と書くようになったのか……といってみても始まらないが。
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