岡野絵里子「夜の小さな眠り」(「現代詩手帖」2013年12月号)
岡野絵里子「夜の小さな眠り」(初出「朝日新聞」06月25日)は、見えないものを見えるようにする。見えないものが、ことばによって見える。その変化の瞬間が詩だということを教えてくれる。
「雛が一羽ずつ目を閉じ」るのを岡野は見ているわけではない。でも、そのことばに触れると、私には雛が一羽ずつ目を閉じるのが見える。肉眼ではなく、肉眼よりももっと強い視力で。肉眼ではなく「肉体」全体で何かを見る。「わかる」。
「枝が日の名残をふるい落とす」のは見えるわけではない。「日の名残」というような抽象的なものは雛の瞼のようには「見えない」。でも、そこに書いてあることは「わかる」。
「夜が透き通った腕を広げ」るのも「見えない」。でも、「わかる」。
このときの「わかる」は感じる--というより、錯覚なんだけれど。錯覚とわかっていて、それを否定する気持ちになれない。それでいい、と思う。そういうものが「ある」(見える)といいなあと思う。欲する。欲望する。--それが「わかる」ということなのかもしれない。
で、「わかる」を積み重ねながら、あ、岡野は透き通るような視力を持っている詩人なのだ、その視力よよって世界は透明に、美しく整えられていくのだ、ということが「わかる」。そういう世界の整え方をする岡野が好きだなあ、と感じている私がいることが「わかる」
そういう透明な視力、世界を透明に整える視力の魅力。--それは、しかし、「抒情詩」の「定型」かもしれないね。
だから、それ以上のことを書き加えておこう。
私がいちばん感動したのは雛や枝の描写ではなく、実は、2行目の「最初に触れるのは」の「最初」である。「最初」を見る視力である。「最初」を「わかる」ということ。その瞬間を「最初」として把握する「肉体」。それに揺さぶられる。
「最初」と書きながら、岡野のことばは銀色、電波塔、鳥、瞼、雛、目を閉じる、枝、日の名残をふるい落とす--という具合に動いていく。ほんとうの「最初」はでは「銀色」? あ、そんなことはないね。そこに書かれているもの「全部」が「最初」。
それらは「個別」なのだけれど、「個別」ではない。何か、「ひとつ」のものである。むりやりことばにすれば「夜(の入り口)」。--あ、これはいい説明の仕方ではない。何といえばいいのだろうか、「集合」することによって共有される何かである。集まってくることで、そこに何かが浮かびあがる。「全体」として、あるいはそういうものが「つながる」ということで始まる「夜」を感じさせる。「夜」ではなく「始まる」を感じるのかもしれない。
それを「集合させる」(結晶させる/つなげる)ことばが「最初」なのだ。
「最初」を省略してみると、「最初」がないと「全体」の結晶する力が消えて、「全部」が「全体」ではなく「ばらばら」に散らばっていくことがわかる。少なくとも、私には「ばらばら」に見えてしまう。「最初」があるから、その「最初」へ向けて「全部」が集まってくる。複数が集まれば集まるほど透明になってくる。
この「最初」があるから「最後」もある。
朝が「最初」に触れるものについては岡野は書いていない。書かないことで、夜の「最初」と「最後」がきれいな「枠」のなかにおさまる。
岡野絵里子「夜の小さな眠り」(初出「朝日新聞」06月25日)は、見えないものを見えるようにする。見えないものが、ことばによって見える。その変化の瞬間が詩だということを教えてくれる。
降りて来た夜が
最初に触れるのは
銀色の電波塔と鳥たちの小さな瞼
梢の中の雛が一羽ずつ目を閉じ
枝が日の名残をふるい落とす
夜は透き通った腕を広げ
打ち上がる街の声を包む
「雛が一羽ずつ目を閉じ」るのを岡野は見ているわけではない。でも、そのことばに触れると、私には雛が一羽ずつ目を閉じるのが見える。肉眼ではなく、肉眼よりももっと強い視力で。肉眼ではなく「肉体」全体で何かを見る。「わかる」。
「枝が日の名残をふるい落とす」のは見えるわけではない。「日の名残」というような抽象的なものは雛の瞼のようには「見えない」。でも、そこに書いてあることは「わかる」。
「夜が透き通った腕を広げ」るのも「見えない」。でも、「わかる」。
このときの「わかる」は感じる--というより、錯覚なんだけれど。錯覚とわかっていて、それを否定する気持ちになれない。それでいい、と思う。そういうものが「ある」(見える)といいなあと思う。欲する。欲望する。--それが「わかる」ということなのかもしれない。
で、「わかる」を積み重ねながら、あ、岡野は透き通るような視力を持っている詩人なのだ、その視力よよって世界は透明に、美しく整えられていくのだ、ということが「わかる」。そういう世界の整え方をする岡野が好きだなあ、と感じている私がいることが「わかる」
そういう透明な視力、世界を透明に整える視力の魅力。--それは、しかし、「抒情詩」の「定型」かもしれないね。
だから、それ以上のことを書き加えておこう。
私がいちばん感動したのは雛や枝の描写ではなく、実は、2行目の「最初に触れるのは」の「最初」である。「最初」を見る視力である。「最初」を「わかる」ということ。その瞬間を「最初」として把握する「肉体」。それに揺さぶられる。
「最初」と書きながら、岡野のことばは銀色、電波塔、鳥、瞼、雛、目を閉じる、枝、日の名残をふるい落とす--という具合に動いていく。ほんとうの「最初」はでは「銀色」? あ、そんなことはないね。そこに書かれているもの「全部」が「最初」。
それらは「個別」なのだけれど、「個別」ではない。何か、「ひとつ」のものである。むりやりことばにすれば「夜(の入り口)」。--あ、これはいい説明の仕方ではない。何といえばいいのだろうか、「集合」することによって共有される何かである。集まってくることで、そこに何かが浮かびあがる。「全体」として、あるいはそういうものが「つながる」ということで始まる「夜」を感じさせる。「夜」ではなく「始まる」を感じるのかもしれない。
それを「集合させる」(結晶させる/つなげる)ことばが「最初」なのだ。
降りて来た夜が
触れるのは
銀色の電波塔と鳥たちの小さな瞼
梢の中の雛が一羽ずつ目を閉じ
枝が日の名残をふるい落とす
夜は透き通った腕を広げ
打ち上がる街の声を包む
「最初」を省略してみると、「最初」がないと「全体」の結晶する力が消えて、「全部」が「全体」ではなく「ばらばら」に散らばっていくことがわかる。少なくとも、私には「ばらばら」に見えてしまう。「最初」があるから、その「最初」へ向けて「全部」が集まってくる。複数が集まれば集まるほど透明になってくる。
この「最初」があるから「最後」もある。
夜が最後に触れるのは
銀色の電波塔
それから朝が降りて来る
朝が「最初」に触れるものについては岡野は書いていない。書かないことで、夜の「最初」と「最後」がきれいな「枠」のなかにおさまる。
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