詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清水あすか「夜を守(も)る」

2013-12-17 11:09:39 | 詩(雑誌・同人誌)
清水あすか「夜を守(も)る」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 清水あすか「夜を守(も)る」(初出「ユリイカ」07月号)は何が書いてあるのだろうか。私は前に読んだものにひきずられて読んでしまうので、先日読んだ長田弘「幸福の感覚」の「呼吸」とつながるものを感じてしまった。

真っ暗い夜というのは色が寄さってできる果ての黒で
どこかに息継ぎとして青色を残している。
夕方の名残りである。
身体にもあるあざである。
晩年へ
向かってほどけていくのは
ほどけていくと思いながらだろうか。
それが本来と振向き見ていられるだろうか。考えるとは
どこまで残る所作だろう。

 「息継ぎ」ということばに私は引きつけられた。そこに「肉体」を直接、感じた。きのう長田の詩で「呼吸(息)」ということばを動かしたために、それがまだ私の「肉体」にのこっている。
 呼吸とともに動いた「肉体」も残っているので「身体」の「(青)あざ」はそのまましっくりとなじんだ。青あざは蒙古斑のことだと思う。こどものときにあって、しだいに消えていく。
 それから「ほどく」ということばのつかい方も気に入った。それを「ほどく」という「動詞」といっしょにつかっている。消えるではなく、ほどく。ほどける。ほどく/ほどけるには「とく/とける」(解く/解ける/溶く/溶ける)が含まれているなあ。
 そんなことを考えていると、「考えるとは/どこまで残る所作だろう。」があらわれる。
 うーん。「所作」か。所作というのは「肉体」の動きのことだなあ、私にとっては。なんだか、清水のことばのなかに、私が考えている「肉体」が溶け込んでしまって、区別がつかなくなりそうだなあ。
 ことばのひとつひとつが「わかる」という感じで、そこにある。
 で、これも、そうすると東日本大震災の詩?
 そうかもしれない。

子どものころ踏んだ、毛糸の切れたのだのビニルひもだの鉄線の端だの
昔には誰かの身体としていた線であったり、ここから見える風景の
線であったりしたのだ。寄るには目で見えなくなるだけで。いつかは
わたしを食べさせて育てているこの夜にも、身体もほころびて
こぼれる時間がまざるようになるよ。もう
どうしてもいろんな色がはびこって
おまえへ見せる風景にわたしは、ずいぶんと形なくなっているかもしれないよ。

 「毛糸の切れたのだのビニルひもだの鉄線の端だの」--こういうことばが、点となく東日本大震災の被災地の状況に重なって見える。形あったものが「ほどかれた」線になっている。そこには「誰かの身体としていた線」や、かつてみた「風景」の線も含まれる……。
 と読むと。
 けれど、一点、不思議なことが起きる。
 最初は「色」を見ていた。「黒の果ての青」「青色」--それがほどける。色がほどけるとどうなる? 清水は「色」を一瞬忘れて「ほどける」という動詞から世界を見直している。「ほどける」のは、からまった糸。絡まった線。そこから毛糸だのひもだの鉄線、さらには身体の線、風景の線も出てくるのだが。
 この色から線への変化は、とても「奇妙」。つながりが「整然」としていない。「論理的」ではない。
 でも、私は、実は自然に読んでしまう。「肉体」はそのことに異議を挟まない。いま「整然としていない、論理的でない」と書いたのは「頭」の仕業で、「肉体」は違うことを感じている。「これでいい」と感じている。「あ、そうなんだ」と納得している。
 何が起きているかというか。
 「肉体」のなかでは「動詞」は混じりあう。花の色を見ているつもりだ、その匂いをかいでいる。その匂いが甘いとその色はいっそう輝く。そして美しい音楽でも聞いた気持ちになる。逆に死んだ虫のような匂いだと色まで汚く感じられる。音楽なんかはもちろん聞こえてこない。そういう「融合」がある。感覚が結び合わさる。「肉体」はひとつの感覚が動くとき、他の感覚も連動して動く。そして、それは「肉体」のなかでまじりあう。
 同じようにひとつの「動詞」が動くとき、そこにはいろいろな「対象」が自然と押し寄せてくる。「とく/とける」なら「問題」「氷」「色」があつまってくる。「ほどく」なら「ひも(糸/線)」が自然とあつまってくる。からまった糸を「とく(ほどく)」のと、氷が「とける」では変化の形が違うけれど、「硬い」ものが「硬く(堅く/固く)なくなる」という点では同じだ。だから、「ほどく(ほどける)」が対象を蒙古斑からひも類にかわっても、そんなに違和感がない。
 色の塊(動かないしっかりしたもの/かたいもの)が「やわらかくなった」、その結果他のものになじむように姿を消したということと、紐のかたまりがほどかれて細い糸になる、その糸がさらに捻じりあった感じをほどかれてどんどん細くなる、あるいは引き裂かれて細くなるということが、どこかで「重なる」。同じ運動に見えてくる。
 そういう「肉体」が「覚えていること」をとおして、ことばがつながっているから、何か自然に納得する。
 さらに、この作品に「身体」ということばが出てくることも関係しているかもしれない。「ほどく」から「ほころびる」(ほろびる)の変化を含めて、たしかなもの(しっかりしたもの)と思っていたものが、頼りないものになる。頼りないものになるのだけれど、そこにはそれがかつて何かであったことを知らせる「印」のようなものついている。
 そういうものを見ながら、

風景(山河)はこわれ、昔とは違ってしまった

 と「意識(認識)」が世界の構図を描くとき、清水はそれに対して異議をとなえているのだ。
 ほんとうに変化したのは周囲ではなく、自分の「身体」である、と。
 生きているときは「身体」がこわれていることに気がつかない。身体は折り合いをつけて動いているので、こわれているなどとはだれも思わない。身体傷つき、その反映として感覚も影響を受けているということは、なかなか気がつかない。「頭」が自然に状況を修正する。「頭/脳」はわがままな嘘つきで、自分に都合のいいふうにしか状況を判断しないのだ。

 いま、「身体」の方が傷ついているのだよ。いましなければならないのは、なによりも「身体」を守ることだよ、--と清水は言っているように聞こえる。「夜を守る」といっているが、「身体の夜」を守るということことを言っているのだと思う。

夜になるのは周りではない。身体の方なんだ。
その時ついとひとすじ見る青であるのは
わたしがいた十四の夕方だ。

 --私の感想は、支離滅裂であるけれど。私の「肉体」が、そう言えと主張している。私の「肉体」のなかで、何かが激しくふるえたのだ、清水のことばを読んだときに。そして、その「震え」を、私は「頭」をくぐらせた「流通言語」として書くことができないので、こういう文になってしまうのだが……。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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西脇順三郎の一行(30)

2013-12-17 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(30)

 「粘土」

トネ河とツクバを左にみて

 ふつうなら「利根川と筑波(山)を左にみて」と書くだろう。その方が何を見たかイメージがはっきりするからである。しかし、西脇は「わざと」カタカナまじりで書く。まるで外国の風景のように。
 ではなく。
 私は、そのとき実は風景を思い描かない。「河」は河になって水を流そうとするが、水の流れになって動こうとするが、それは瞬時に「ツクバ」という音によって消えてしまう。風景が消える。
 そして、「音楽」がかわりに聞こえる。「トネ」「ツクバ」。カタカナで書くと奇妙な音だ。それがほんとうに日本語にあるかどうかわからない。つまり、わけのわからない「音」だけがそこにあって、その音を聞きながら「左」を見る。視覚は「方向」だけを見て、ものを見ない。風景を見ない。
 もちろん視覚には何かが飛び込んできて、それは網膜に像を結ぶけれど、それは「無意味」。「意味」があるとすれば、「左」だけ。
 「左」といっしょにあるのは「音」だけである。
 このあと詩は「話をしながら/歩いたのだ」というように「ことば(会話/対話)」の世界へ入っていくが、これは自然な成り行きである。
 西脇は「視覚」で歩くのではなく、「聴覚」で歩くのだ。歩くと(動くと)聴覚が覚醒するのである。
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