詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マルガレーテ・フォン・トロッタ監督「ハンナ・アーレント」(★★★)

2013-12-08 23:13:18 | 映画
監督 マルガレーテ・フォン・トロッタ 出演 バルバラ・スコバ、アクセル・ミルベルク、ジャネット・マクティア

 この映画の感想をどう書きはじめていいのか、とても困惑している。
 ハンナ・アーレントはナチス戦犯アイヒマンの裁判を傍聴し、そこから大虐殺は思考することを停止した役人によって引き起こされた、という「定義」を引き出す。「凡庸な人間が引き起こす悪」が20世紀の最大の悲劇を引き起こした、という「定義」である。
 この「定義」は哲学としてはとてもおもしろい。なるほど、と感心する。
 その一方で、ユダヤ人大虐殺を「定義」することは必要なのか、という疑問が起きる。「哲学」は「哲学」としてわかるけれど、それは「必要な哲学」なのか。--これは、アンナ・ハーレントの講義を聞いていたかつての仲間(友人?)が、「きみはホロコーストを哲学にしてしまった」と言って彼女から去っていくところに集約的に表現されている。このシーンが、私には、この映画の唯一の救いのように思えた。
 私のみるところでは、世の中には「定義」が必要のないものがある。一つは「殺人」、もう一つは「愛」。人を殺すのは悪い。これは「定義」する必要がない。ホロコーストが悪いのも「定義」する必要はない。それに加担した人間が、単なる役人であったというのは、どうでもいい問題である。
 もう一つの「愛」も定義しなくていい。定義しなくても、それは誰もが知っている。だれかのためになりたい。だれかを守りたいという欲望。ことばにしてしまうと、なんだか嘘くさい。定義できなくても知っているし、実行している。
 この映画では明確な形では描かれているとは言えないかもしれないが、ハンナ・アーレントは「愛」もまた「定義」している。夫には愛人がいる。夫は女性にもてる。その愛は、しかし、ハンナ・アーモントと夫との愛をたたき壊しはしない。ハンナ・アーレントも夫と他の女性との関係を「快い」と思っているわけではないが、夫と他の女性との「愛」はハンナ・アーレントと夫との「愛」とは別のものである。彼女は夫と哲学的な議論をして、同じ「定義」にたどりつくことができる。それを「愛」と呼んでいる。他の仲間たちとも激しい議論をし、その果てに同じ「結論(定義)」にたどりつく。それを「愛」と呼んでいる。たとえ同じ「定義」にたどりつけなくても、議論する、議論をとおして「思考」を深めていくことができたとき、そこに「愛」があると「定義」している。「思考」が「愛」を決定するのである。ハンナ・アーレントは「思考」を愛したのであって、人間を愛したのではないといえるかもしれない。
 こういう「愛の基本行動」があって、そこからことばを動かしていくので、ときにとても変な結論に達することがある。ユダヤ人収容所のユダヤ人リーダー。彼らもまた「思考停止」の状態に陥り、その結果、ナチスのホロコーストに対抗することができなかった。彼らも「思考停止」というまちがいを犯した。その点ではアイヒマンと「同列」である、というのである。そういう発言は、ハンナ・アーレントがいくらユダヤ人リーダーを批判したのではなく、その行動の「哲学」を問題視したのだと言い張っても、通じない。
 ひとは「哲学(論理)」を愛するよりも、生きている人間を愛する。そして、ときには人間を愛しているがゆえにまちがいも犯す。
 ホロコーストを突き動かした「悪」はどういうものか。ハンナ・アーレントの「悪の定義」はたしかに現代の問題点をついている。ハンナ・アーレントは、この映画によれば、彼女の「定義」に誰も反論していない。拒絶しただけだと考えたようだが、これは「定義」の必要のないものを「定義」してしまっているから、おかしな具合にねじれてしまうのだ。
 ひとは(世界は)、「悪の定義」などを求めていない。世界は、ホロコーストが行われたとき、「愛」はどんなふうに動いたのか、なぜ「愛」は動かなかったのかということの方を聞きたいのだ。言い換えると、ハンナ・アーレントは無残に死んで行った人々を「愛しているのか」と問いかけているのだ。「きみに愛はあるのか」と問いかけたのだ。
 ハンナ・アーレントは、「愛」の問題は、どうも苦手としているらしい。それは女友達の作家(らしいが、私はその作家のことを知らない)が夫の浮気で相談を持ちかけたときの対応(映画の冒頭)によくあらわれている。ハンナ・アーレントは自分と夫が「議論の同士(思考の同士)」という関係で成り立っているので、他の女性との関係を気にしない。そんなものは、どうでもいいと考えている。そして、それと同じことを女友達に提案する(提案した)ように見えた。
 途中に挿入されるハイデガーとの「愛」も、「思考する力」の出会いとしての「愛」である。教授の部屋で「情熱的思考(?)」というような奇妙なことばをハンナ・アーレントは口走っていたが、「思考」の共有が彼女にとっての「愛」なのである。「思考」を、あるいは「思考する」という動詞を共有するものだけが彼女にとって「愛」の対象である。だから「思考停止」をしたユダヤ人リーダーは「愛」の対象ではないから、彼らを擁護する必要があるとも感じないのである。
 この「思考すること」という人間の行為だけをハンナ・アーレントは信じているから、ハイデガーの復権(?)にも尽力したということなのだろう。

 「思考すること」の重要性、思考するという行為に全力をそそいだハンナ・アーレントの生き方は、「頭」ではわかるが--うーん。それを支持する(その行為に共感する)かと言われれば、ちょっと違うなあ。
 困惑してしまう。
 彼女の「思想」はよくわかったし、「凡庸の悪」というのも鋭い指摘だと感心するけれど、それが「愛」とは別の次元で「論理」だけで語られることに疑問をもってしまう。
 ホロコーストを拡大させたのは「凡庸の悪(悪の凡庸?)」だったのかもしれないけれど、そういう「定義」では「殺人が悪である」ということが「定義」できない。人を殺すということは絶対にしてはいけないということを「定義」したことにはならない。
 そこが、おかしい。大量殺人の悪を「定義」できても、ひとりの殺人の悪を「定義」できないとしたら--ひとりの殺人すら「悪」なのだから、大量殺人は「巨大な悪」であるという普通の感覚からみて、とても変である。
 「定義」しなくても、だれもが知っていることを「定義」して、不自然な混乱を引き起こした。「哲学の悪趣味」のようなものを私は感じた。

 この映画は大反響を呼んでいるようである。福岡の映画館でも、信じられないくらい観客が多かった。この映画を、どう評価して、こんなに観客が多いのかわからないが。
 私なら、ハンナ・アーレントの「哲学にかける愛」の強靱さを知ることができる--というよりも、世の中には定義しなくても誰でもが知っていることがあるのに、そういうものを定義してしまうと寂しいことになるということを実感できる映画としてお勧めしたい。定義しなくていいことは、定義しなくていい。定義しなくてもわかっていることがある。その定義しなくてもわかっていることを信じているのが「世の中」というもの、「世間」というものである。
 「哲学」の「反面教師」としての映画、ということになるのかな。
                     (2013年12月08日、KBCシネマ1)

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尾花仙朔「とある冬の日」

2013-12-08 10:49:20 | 詩(雑誌・同人誌)
尾花仙朔「とある冬の日」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 尾花仙朔「とある冬の日」(初出「午前」2)は「東日本大震災」と関係があるのだろうか。

凍り付くような世の中の道の底に
薄日が差して
きらきらは雪が降っている朝だ

鬼の子らが花屋に群れていた

 「世の中の道の底」というのは「比喩」なのかなあ。「道」に「底」はないのだが--私にはそれが「見えない」ので、何か表面を剥ぎ取った「道」、道が舗装されるまえのむき出しの道のようなもの、道の原型(?)、そこからあらゆる「道」が生まれてくるような、余分なものを排除したまっすぐな土地を思い浮かべる。そこに日が差して、雪も降っている。何か明るい。けれど、「道の底」というこことばがもっている「原型」のようなものが、ちょっとこわい。安心とは逆なもの、ひりひりと感覚を剥がすような力もそこに感じる。
 その「こわさ」(不気味さ/知らないものがそこにある、という不安)を結晶させて「鬼の子」があらわれる。でも、彼らは「花屋」といういわば美しいものといっしょにそこにいる。そして、それが「花屋」であるだけに、よけいにこわくなる。不安になる。何が起きるのかな?

托鉢の僧が通って行った

その姿を見た鬼の子らが後を追いかけ
嬉々として躁(はしゃ)ぎながら
一斉に花をかざして行った

 私は知らず知らずに「鬼の子」から「鬼の」を省略して、その様子を思い浮かべる。托鉢僧が何をしているかわからないまま、からかうようにはしゃぐこども。そういうものを私は知っている。私自身が、そういうことをした(かもしれない)。よく覚えていないが、そういう記憶は私の「肉体」のなかにあるので、そして私は私自身を「鬼の子(だった)」とは思っていないので、ふつうのガキを思うのである。
 こわいけれど、そのこわさが、ここでは少しやわらぐ。
 そのあと。

と おお!其処に髪をふりみだし
幼児の骸をひしと抱えている
海からきたずぶ濡れの女(ひと)が
鬼の子らに紛れて
眦(まなじり)をきりりと彼岸に向かい
ひたすらにあるいているのだ
その姿は誰にも見えない
とある冬の日

 「幼児の骸をひしと抱えている/海からきたずぶ濡れの女」が津波で多くの人が亡くなった東日本大震災を思い出させる。海で自分のこどもの遺体をみつけた母親の姿を私はそこに想像してしまう。
 冒頭の「道」は、この女の人がみた「世界」かもしれない。絶望しているのだけれど、絶望しながらも、それでも自分のこどもを抱いている(抱くことができた)喜び--よろこびというのは変だけれど--が「明るさ」としてあらわされているのかもしれない。
 その女の人は「彼岸」へ向かって歩いている。
 「彼岸」というのは「死後」の世界であろう。そうなると、「道」は「死」へつづく道であり、女の人は自分の手でこどもを「死」の世界へ届けようとしているということになる。津波が死の世界へこどもを奪っていくのではなく、自分の手で、しっかりと送り届ける。
 そういうことを描いているのだろう。

 でも。(でも、というのは「飛躍」なのだが……。)

 でも、「その姿は誰にも見えない」。--あ、ここにある「矛盾」。誰にも見えないのに、なぜ尾花だけに見えるのか。
 「見る/見える」とはどういうことか。
 ここに、詩が書かれる理由、詩を書いてしまう理由、根拠のようなものがあると思う。尾花にも、それは見えない。見えないけれど、ことばにすると見えるようになる。ことばにした瞬間から、それが目に見えるようになる。見えないものを見えるようにするためにことばがある。ことばは、そこにあるものを説明するためにあるのではなく、そこにないものを「ある」にするために動く。

 ここで、私は少しきのう感想を書いた安藤元雄の詩を思い出す。安藤は「そこ」にある自分を描き、それを突き抜けて、そこに「ない」自分を「ある」ものとして描き出すところまでことばを動かした。その動かすための「力」を「食欲」ということばから引き出していた--ように私には感じられた。
 同じことを尾花でも言えるだろうか。尾花はどのことばを中心にして「ある」をつくりだしたのか。「ある」の世界へ踏み込んだのか。「見えない」を「見える」に変えたのか。
 そう思ったとき、あ、私はこの詩を読み違えていたと、突然気がつくのである。

鬼の子

 このことばを私は桃太郎や泣いた赤鬼などに出てくる「鬼」の「子」のように簡単に考えていたが、そして私は「鬼の子」ではない(なかった)から、「鬼」を省略して、そこに自分のこども時代を重ね合わせてしまったのだが、尾花は「鬼」を架空の生き物、野蛮な(?)生き物とは考えていないのではないか。
 「その姿は誰にも見えない」と尾花は書いている。「その姿」は文法上(文脈上)は「幼児の骸を抱えた女」を指しているが、それだけではないだろう。
 「鬼の子」そものもの、誰にもみえない。「鬼」は「隠れる」の「隠(おん)」なのだ--という語源(?)のようなものが、ふいに、私の「肉体」のなかから飛び出してくる。どこかで聞きかじった記憶が、ことばではなく、肉体のように飛び出して目の前にあらわれる。津波によって「隠された」多くのこども。「隠されて」見えないこどもが大勢いるのだ。そして、そのこどもたちは見えないが「隠されている」ということは「見える」。「見える」どころの話ではなく、「わかる」。こどもが「隠された」ということが「わかる」。「肉体」に響いてくる。「目」で「見える」のではなく、「ひしと抱える」かたちで「隠されている」が実感できるのだ。

 詩は論理ではないので、すっきりとは説明できない。順序立てて、結論へ向けてことばが動いていくわけではない。行ったり来たりする。あることばはそこにあるように見えて、実は「遠いところ」へ先回りしてしまっていて、そこには「残像」のようなものがある。「残像」なので、最初は、その「手応え」がない。「手触り感」がない。「架空」のもののように見える。感じられる。
 「鬼の子」、その「鬼」は私には、最初はそういうものだった。なぜ「鬼」なのかなあ、普通のこどもでいいのになあ、という印象があった。
 しかし、それは終わりから2行目の「見えない」ということばでまったく違ったものになってあらわれた。「反撃」のような感じだ。
 尾花には「見えない」が「見える」のだ。「隠されている」が「見える」のだ。「見えないということ」が「見える」。
 この叫びは強烈である。

有明まで
尾花 仙朔
思潮社
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西脇順三郎の一行(21)

2013-12-08 06:00:00 | 西脇の一行

西脇順三郎の一行(21)

 『旅人かへらず/一六四』(30ページ)

車はめぐり

 この一行は独立させて読むのがむずかしい。ということは「意味」をもっているということである。
 この断章では西脇は「輪廻」を書いている。「人の種も再び人の種となる」というときの「再び」が「輪廻」を結晶させている。そういう「意味」を語る途中で西脇は「水車」を持ち出して「この永劫の水車/かなしげにまわる/水は流れ/車はめぐり/また流れさる」と展開する。
 このとき「水」は「無常」である。いっときも「同じ」ではない。水車の「車」はどうだろうか。そのあり方は「水」の「無常」とはずいぶん違う。そこに存在しつづける。「無常」のなかにあって、「無常」ならざるものなのだ。
 何を見たのか、一瞬、私はわからなくなる。
 この「車」は「無常」ではないが、「無常」の影響を受けてまわっている。その「まわる」運動は、実はまわされているのだが、西脇のことばの調子からは「されている」という受け身の印象は浮かび上がらない。
 「されている」につながる「まわる」を避けて「めぐる」という動詞で言いなおしている。言い直しながら、その動詞は「また流れさる」と、まるでそこに存在しながらも、水車がどこかへ消えていくという印象も呼び起こす。
 何か矛盾している。
 その矛盾に、詩がある。
 水が流れさるなら、その水によってまわる水車の車も流れさるはずである。それでもそこに「車」があるなら、それは、そのつど水といっしょにそこにあらわれてくる「もの/こと」なのだ。
 こういう消え去りながら、そのつどあらわれて、そこに存在しつづける「もの/こと(水車/めぐる)」の「自立性(自律性?)」が西脇の詩なのだ。
 ことばは描写として「つづいている」のではなく、そのつど、そこに「あらわれている」のである。

西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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