監督 マルガレーテ・フォン・トロッタ 出演 バルバラ・スコバ、アクセル・ミルベルク、ジャネット・マクティア
この映画の感想をどう書きはじめていいのか、とても困惑している。
ハンナ・アーレントはナチス戦犯アイヒマンの裁判を傍聴し、そこから大虐殺は思考することを停止した役人によって引き起こされた、という「定義」を引き出す。「凡庸な人間が引き起こす悪」が20世紀の最大の悲劇を引き起こした、という「定義」である。
この「定義」は哲学としてはとてもおもしろい。なるほど、と感心する。
その一方で、ユダヤ人大虐殺を「定義」することは必要なのか、という疑問が起きる。「哲学」は「哲学」としてわかるけれど、それは「必要な哲学」なのか。--これは、アンナ・ハーレントの講義を聞いていたかつての仲間(友人?)が、「きみはホロコーストを哲学にしてしまった」と言って彼女から去っていくところに集約的に表現されている。このシーンが、私には、この映画の唯一の救いのように思えた。
私のみるところでは、世の中には「定義」が必要のないものがある。一つは「殺人」、もう一つは「愛」。人を殺すのは悪い。これは「定義」する必要がない。ホロコーストが悪いのも「定義」する必要はない。それに加担した人間が、単なる役人であったというのは、どうでもいい問題である。
もう一つの「愛」も定義しなくていい。定義しなくても、それは誰もが知っている。だれかのためになりたい。だれかを守りたいという欲望。ことばにしてしまうと、なんだか嘘くさい。定義できなくても知っているし、実行している。
この映画では明確な形では描かれているとは言えないかもしれないが、ハンナ・アーレントは「愛」もまた「定義」している。夫には愛人がいる。夫は女性にもてる。その愛は、しかし、ハンナ・アーモントと夫との愛をたたき壊しはしない。ハンナ・アーレントも夫と他の女性との関係を「快い」と思っているわけではないが、夫と他の女性との「愛」はハンナ・アーレントと夫との「愛」とは別のものである。彼女は夫と哲学的な議論をして、同じ「定義」にたどりつくことができる。それを「愛」と呼んでいる。他の仲間たちとも激しい議論をし、その果てに同じ「結論(定義)」にたどりつく。それを「愛」と呼んでいる。たとえ同じ「定義」にたどりつけなくても、議論する、議論をとおして「思考」を深めていくことができたとき、そこに「愛」があると「定義」している。「思考」が「愛」を決定するのである。ハンナ・アーレントは「思考」を愛したのであって、人間を愛したのではないといえるかもしれない。
こういう「愛の基本行動」があって、そこからことばを動かしていくので、ときにとても変な結論に達することがある。ユダヤ人収容所のユダヤ人リーダー。彼らもまた「思考停止」の状態に陥り、その結果、ナチスのホロコーストに対抗することができなかった。彼らも「思考停止」というまちがいを犯した。その点ではアイヒマンと「同列」である、というのである。そういう発言は、ハンナ・アーレントがいくらユダヤ人リーダーを批判したのではなく、その行動の「哲学」を問題視したのだと言い張っても、通じない。
ひとは「哲学(論理)」を愛するよりも、生きている人間を愛する。そして、ときには人間を愛しているがゆえにまちがいも犯す。
ホロコーストを突き動かした「悪」はどういうものか。ハンナ・アーレントの「悪の定義」はたしかに現代の問題点をついている。ハンナ・アーレントは、この映画によれば、彼女の「定義」に誰も反論していない。拒絶しただけだと考えたようだが、これは「定義」の必要のないものを「定義」してしまっているから、おかしな具合にねじれてしまうのだ。
ひとは(世界は)、「悪の定義」などを求めていない。世界は、ホロコーストが行われたとき、「愛」はどんなふうに動いたのか、なぜ「愛」は動かなかったのかということの方を聞きたいのだ。言い換えると、ハンナ・アーレントは無残に死んで行った人々を「愛しているのか」と問いかけているのだ。「きみに愛はあるのか」と問いかけたのだ。
ハンナ・アーレントは、「愛」の問題は、どうも苦手としているらしい。それは女友達の作家(らしいが、私はその作家のことを知らない)が夫の浮気で相談を持ちかけたときの対応(映画の冒頭)によくあらわれている。ハンナ・アーレントは自分と夫が「議論の同士(思考の同士)」という関係で成り立っているので、他の女性との関係を気にしない。そんなものは、どうでもいいと考えている。そして、それと同じことを女友達に提案する(提案した)ように見えた。
途中に挿入されるハイデガーとの「愛」も、「思考する力」の出会いとしての「愛」である。教授の部屋で「情熱的思考(?)」というような奇妙なことばをハンナ・アーレントは口走っていたが、「思考」の共有が彼女にとっての「愛」なのである。「思考」を、あるいは「思考する」という動詞を共有するものだけが彼女にとって「愛」の対象である。だから「思考停止」をしたユダヤ人リーダーは「愛」の対象ではないから、彼らを擁護する必要があるとも感じないのである。
この「思考すること」という人間の行為だけをハンナ・アーレントは信じているから、ハイデガーの復権(?)にも尽力したということなのだろう。
「思考すること」の重要性、思考するという行為に全力をそそいだハンナ・アーレントの生き方は、「頭」ではわかるが--うーん。それを支持する(その行為に共感する)かと言われれば、ちょっと違うなあ。
困惑してしまう。
彼女の「思想」はよくわかったし、「凡庸の悪」というのも鋭い指摘だと感心するけれど、それが「愛」とは別の次元で「論理」だけで語られることに疑問をもってしまう。
ホロコーストを拡大させたのは「凡庸の悪(悪の凡庸?)」だったのかもしれないけれど、そういう「定義」では「殺人が悪である」ということが「定義」できない。人を殺すということは絶対にしてはいけないということを「定義」したことにはならない。
そこが、おかしい。大量殺人の悪を「定義」できても、ひとりの殺人の悪を「定義」できないとしたら--ひとりの殺人すら「悪」なのだから、大量殺人は「巨大な悪」であるという普通の感覚からみて、とても変である。
「定義」しなくても、だれもが知っていることを「定義」して、不自然な混乱を引き起こした。「哲学の悪趣味」のようなものを私は感じた。
この映画は大反響を呼んでいるようである。福岡の映画館でも、信じられないくらい観客が多かった。この映画を、どう評価して、こんなに観客が多いのかわからないが。
私なら、ハンナ・アーレントの「哲学にかける愛」の強靱さを知ることができる--というよりも、世の中には定義しなくても誰でもが知っていることがあるのに、そういうものを定義してしまうと寂しいことになるということを実感できる映画としてお勧めしたい。定義しなくていいことは、定義しなくていい。定義しなくてもわかっていることがある。その定義しなくてもわかっていることを信じているのが「世の中」というもの、「世間」というものである。
「哲学」の「反面教師」としての映画、ということになるのかな。
(2013年12月08日、KBCシネマ1)
この映画の感想をどう書きはじめていいのか、とても困惑している。
ハンナ・アーレントはナチス戦犯アイヒマンの裁判を傍聴し、そこから大虐殺は思考することを停止した役人によって引き起こされた、という「定義」を引き出す。「凡庸な人間が引き起こす悪」が20世紀の最大の悲劇を引き起こした、という「定義」である。
この「定義」は哲学としてはとてもおもしろい。なるほど、と感心する。
その一方で、ユダヤ人大虐殺を「定義」することは必要なのか、という疑問が起きる。「哲学」は「哲学」としてわかるけれど、それは「必要な哲学」なのか。--これは、アンナ・ハーレントの講義を聞いていたかつての仲間(友人?)が、「きみはホロコーストを哲学にしてしまった」と言って彼女から去っていくところに集約的に表現されている。このシーンが、私には、この映画の唯一の救いのように思えた。
私のみるところでは、世の中には「定義」が必要のないものがある。一つは「殺人」、もう一つは「愛」。人を殺すのは悪い。これは「定義」する必要がない。ホロコーストが悪いのも「定義」する必要はない。それに加担した人間が、単なる役人であったというのは、どうでもいい問題である。
もう一つの「愛」も定義しなくていい。定義しなくても、それは誰もが知っている。だれかのためになりたい。だれかを守りたいという欲望。ことばにしてしまうと、なんだか嘘くさい。定義できなくても知っているし、実行している。
この映画では明確な形では描かれているとは言えないかもしれないが、ハンナ・アーレントは「愛」もまた「定義」している。夫には愛人がいる。夫は女性にもてる。その愛は、しかし、ハンナ・アーモントと夫との愛をたたき壊しはしない。ハンナ・アーレントも夫と他の女性との関係を「快い」と思っているわけではないが、夫と他の女性との「愛」はハンナ・アーレントと夫との「愛」とは別のものである。彼女は夫と哲学的な議論をして、同じ「定義」にたどりつくことができる。それを「愛」と呼んでいる。他の仲間たちとも激しい議論をし、その果てに同じ「結論(定義)」にたどりつく。それを「愛」と呼んでいる。たとえ同じ「定義」にたどりつけなくても、議論する、議論をとおして「思考」を深めていくことができたとき、そこに「愛」があると「定義」している。「思考」が「愛」を決定するのである。ハンナ・アーレントは「思考」を愛したのであって、人間を愛したのではないといえるかもしれない。
こういう「愛の基本行動」があって、そこからことばを動かしていくので、ときにとても変な結論に達することがある。ユダヤ人収容所のユダヤ人リーダー。彼らもまた「思考停止」の状態に陥り、その結果、ナチスのホロコーストに対抗することができなかった。彼らも「思考停止」というまちがいを犯した。その点ではアイヒマンと「同列」である、というのである。そういう発言は、ハンナ・アーレントがいくらユダヤ人リーダーを批判したのではなく、その行動の「哲学」を問題視したのだと言い張っても、通じない。
ひとは「哲学(論理)」を愛するよりも、生きている人間を愛する。そして、ときには人間を愛しているがゆえにまちがいも犯す。
ホロコーストを突き動かした「悪」はどういうものか。ハンナ・アーレントの「悪の定義」はたしかに現代の問題点をついている。ハンナ・アーレントは、この映画によれば、彼女の「定義」に誰も反論していない。拒絶しただけだと考えたようだが、これは「定義」の必要のないものを「定義」してしまっているから、おかしな具合にねじれてしまうのだ。
ひとは(世界は)、「悪の定義」などを求めていない。世界は、ホロコーストが行われたとき、「愛」はどんなふうに動いたのか、なぜ「愛」は動かなかったのかということの方を聞きたいのだ。言い換えると、ハンナ・アーレントは無残に死んで行った人々を「愛しているのか」と問いかけているのだ。「きみに愛はあるのか」と問いかけたのだ。
ハンナ・アーレントは、「愛」の問題は、どうも苦手としているらしい。それは女友達の作家(らしいが、私はその作家のことを知らない)が夫の浮気で相談を持ちかけたときの対応(映画の冒頭)によくあらわれている。ハンナ・アーレントは自分と夫が「議論の同士(思考の同士)」という関係で成り立っているので、他の女性との関係を気にしない。そんなものは、どうでもいいと考えている。そして、それと同じことを女友達に提案する(提案した)ように見えた。
途中に挿入されるハイデガーとの「愛」も、「思考する力」の出会いとしての「愛」である。教授の部屋で「情熱的思考(?)」というような奇妙なことばをハンナ・アーレントは口走っていたが、「思考」の共有が彼女にとっての「愛」なのである。「思考」を、あるいは「思考する」という動詞を共有するものだけが彼女にとって「愛」の対象である。だから「思考停止」をしたユダヤ人リーダーは「愛」の対象ではないから、彼らを擁護する必要があるとも感じないのである。
この「思考すること」という人間の行為だけをハンナ・アーレントは信じているから、ハイデガーの復権(?)にも尽力したということなのだろう。
「思考すること」の重要性、思考するという行為に全力をそそいだハンナ・アーレントの生き方は、「頭」ではわかるが--うーん。それを支持する(その行為に共感する)かと言われれば、ちょっと違うなあ。
困惑してしまう。
彼女の「思想」はよくわかったし、「凡庸の悪」というのも鋭い指摘だと感心するけれど、それが「愛」とは別の次元で「論理」だけで語られることに疑問をもってしまう。
ホロコーストを拡大させたのは「凡庸の悪(悪の凡庸?)」だったのかもしれないけれど、そういう「定義」では「殺人が悪である」ということが「定義」できない。人を殺すということは絶対にしてはいけないということを「定義」したことにはならない。
そこが、おかしい。大量殺人の悪を「定義」できても、ひとりの殺人の悪を「定義」できないとしたら--ひとりの殺人すら「悪」なのだから、大量殺人は「巨大な悪」であるという普通の感覚からみて、とても変である。
「定義」しなくても、だれもが知っていることを「定義」して、不自然な混乱を引き起こした。「哲学の悪趣味」のようなものを私は感じた。
この映画は大反響を呼んでいるようである。福岡の映画館でも、信じられないくらい観客が多かった。この映画を、どう評価して、こんなに観客が多いのかわからないが。
私なら、ハンナ・アーレントの「哲学にかける愛」の強靱さを知ることができる--というよりも、世の中には定義しなくても誰でもが知っていることがあるのに、そういうものを定義してしまうと寂しいことになるということを実感できる映画としてお勧めしたい。定義しなくていいことは、定義しなくていい。定義しなくてもわかっていることがある。その定義しなくてもわかっていることを信じているのが「世の中」というもの、「世間」というものである。
「哲学」の「反面教師」としての映画、ということになるのかな。
(2013年12月08日、KBCシネマ1)
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