詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小池昌代「言葉」

2013-12-11 09:51:42 | 詩(雑誌・同人誌)
小池昌代「言葉」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 小池昌代「言葉」(初出『おめでとう』)は、どこから語りはじめればいいのだろうか。

目を伏せて
見るものといえば地面ばかりだった冬
裸木の立つ縁道を行き来しては
駅前の小さな店で
限りなく薄いこの世のとんかつを食べた
ある夕方
見ず知らずの女に
すれちがいざま 声をかけられる
おめがとう
--そのひとは
  小柄で年老いていて
  ほつれのある粗末な黒いオーバーを着ていた
聞き間違いなんかじゃないオリゴ糖の仲間なんかじゃない
おめがとう
今日 わたしは
台所の排水口にかぶせるゴミ袋をめぐって
決して譲らない人 と激しい口喧嘩をした
今日 わたしは
まだ憎み足りない何人もの人のことを考えて
許せない自分に 小さくため息をついた

 ふと「聞こえた」ことば「おめがとう」ということばに触発されて思い浮かんだ日常を思い浮かんだままことばにしている。「おめがとう」と「わたし(小池)」が思い浮かべることがらの間にどんな関係があるのか、小池にもわからないだろう。
 で、この詩、ではどこが魅力的なのか。どこに小池の「肉体(思想)」がひそんでいるのか。どのことばを中心にして小池に出会っていると言えるのか。

見るものといえば地面ばかりだった冬

 この静かな一行だろうか。あるいは

限りなく薄いこの世のとんかつを食べた

 この寂しい一行だろうか。
 そうしたことばのなかにある、きちんとしたことばの整え方だろうか。--どのことばもきちんと整えられている。むりがない。そういう「熟練」のなかに、小池を見ることはできるのだけれど、でも、そういう「見え方」というのは、うーん、説明するのがむずかしい。あ、詩なのだから別に説明しなくてもいいのかもしれないけれど。「このあたりが、ほらとっても、静か。そしてくっきりしている。これが小池のことば」と言えばそれでもいいのだけれど。
 ちょっと違うことを書きたい。--いや、同じことになるかもしれないのだけれど。
 小池はいったい何を整えようとしているのか。ことばを整えることは、そのひとの「暮らし(肉体)」を整えることだと思う。暮らしが(肉体)がことばに反映するのではなく、ことばが暮らし(肉体)に反映する。
 その動きを、私は、この詩のなかに感じたのである。

聞き間違いなんかじゃないオリゴ糖の仲間なんかじゃない

 この一行に。
 「オリゴ糖の仲間なんかじゃない」というおもしろいことばに引っぱられて見えにくくなっているが、その直前の「聞き間違いなんかじゃない」ということばに、私は、ふっと、ほんの一瞬だけれど「つまずいた」のである。
 ふいに聞こえた「おめがとう」。それはいったい何? ここをきっかけに小池のことばは動いているのだけれど。それはいったい何?という疑問の前に、その疑問にぴったりくっついている「聞き間違いなんかじゃない」。
 うーん。
 そのことばがあると、それはそのまま、それで自然なのだけれど。
 私は、私なら、そんな具合にことばは動かない。(あ、小学生の感想文みたいなことばの動き方だね。「私なら……」というのは。)
 私の場合、では、どうかというと。「聞き間違いなんかじゃない」ということばを挟まずに「オリゴ糖の仲間なんかじゃない」へ直接動いていってしまう。自分の感覚をたしかめたりしない。「一呼吸」おかない。
 小池は、いま起きたことはほんとうに起きていることなのか。起きたことなのか。それは小池自身の勘違い「間違い」、感覚が間違ったものをつかみ取ってきてしまったのではないか、と一瞬反省している。
 この一瞬の「間合い」が、たぶん、小池のことばを整えている。
 別な言い方をすると、「間違いじゃない」ということばを思いつくところに挿入してみると、小池のことばと世界の関係がより鮮明になる。小池の見ている世界と私の見ている世界の違いが見えてくる。小池が世界とどんなふうに「和解」しているかがわかる。--「わかる」というのは、「肉体」に迫ってくるという意味であって、それが「正解」という意味ではないのだけれど。
 ちょっとやってみる。

目を伏せて
見るものといえば地面ばかりだった冬
(間違いなく、地面ばかり見た)
裸木の立つ縁道を行き来しては
(間違いなく、木々は裸--葉っぱを落としていた)
駅前の小さな店で
(間違いなく、それは小さな店。大きな店ではない)
限りなく薄いこの世のとんかつを食べた
(間違いなく、薄い。この世のように……)

 何か小池にとっては、あることがらが「薄い」のである。だから、それを「濃く」するために「間違いじゃない」と念を押して、そのうえで、その先へ進むのである。
 「もの/こと」をしっかり確認して、そのうえで、それに対して自分の思いを動かす。
 小池のことばは、どこかに「冷静」なものを含んでいる。そのために静かに響く。美しく響く。(私のことばは、がさがさとうるさい--その違いが「わかる」でしょ?)その静かさは、そこにある「もの/こと」を「間違いじゃない」と確認しているからである。確認した上で、小池のことばは、その先へと動くのである。
 このこと、「確認したこと」は、それが「正しい」か「間違い」かを問題にしない。「確認する」という一呼吸をおいて、それからことばを動かす--このことばの動かし方が小池を整えるのだ。
 台所の排水口にかぶせるごみネットをめぐる口げんか。そのことを思うときも「決して譲らない人」という批評(?)が入り込む。それは「間違いなく、あの人は決して譲らない人だ」と言っているのである。「決して」は「間違いじゃない(間違いなく)」の別の言い方である。--そして、まあ、そんなふうに「確認」すると、それはそのまま小池自身にも跳ね返ってきて、小池こそが「決して譲らない人」と思われていることになるかもしれない。
 一呼吸おく、確認する--それは、静かに小池自身にも跳ね返ってきて、小池を整える。次の部分に、それがよくあらわれている。

まだ憎み足りない何人もの人のことを考えて
許せない自分に 小さくため息をついた

 「許せない自分」というものを見いだしてしまう。それは「間違いじゃない」。だから「ため息をついた」。「間違いじゃない」という確認作業のために、小池は暴走しない。ことばが、「暮らし(肉体)」を突き破って、とんでもないところへ行ってしまうということがない。とんでもないところへは行かないで、しっかりと「暮らし(肉体)」を整える。
 その整え方(整えている--という姿勢)が「わかる」ので、読んでいて、あ、落ち着いているなあ、人間はこんなふうに落ち着かないといけないんだなあ、と感じる。
 こういう「変化」は小さなものである。その小ささに小池は気づいている。だから、次のように詩は閉じられる。

おめがとう
もはや振り返っても
裸木の林は裸木ばかり
もう どこにも人の姿はないが
時折 太陽の陽が きら と差し込んでは
冬を生き抜いた木々の
物言わぬ幹を あたためている
それを事件と誰もよばない
気づかないくらいのかすかな変容が
わたしのなかで 始まっている

 「気づかないくらいのかすかな変容」を小池自身が感じている。その変容は「間違いじゃない」、錯覚ではない。だから、それをことばにする。
 それが詩。
 詩とは、自分の「肉体」のなかで始まるかすかな、けれど「間違いじゃない」変化なのだ。小池のことばは、そういう場を広げるようにして動いている。


おめでとう
小池 昌代
新潮社
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西脇順三郎の一行(24)

2013-12-11 06:06:06 | 西脇の一行

 「アン・ヴァロニカ」

恋心に唇をとがらしていた。

 唇をとがらすのは不満のときが多いようである。でも、この詩では不満からとがらしているのではないかもしれない。理由はわからない。わからないから、詩なのだろう。わからなさを、「とがらす」ということばが運んできていることがおもしろい。
 音もとてもおもしろい。「か(が)行」の音が多いのだが、「とがらしている」ではなく「とがらしていた」と「た」で終わるのもいいなあ。それまでの音の構成が「お」を多く含んでいてやや閉鎖的なのに、最後の「た」の母音は「あ」。ぱっと開放されて、明るくなる。「とがらして」の「が」の濁音も「あ」の響きに豊かさを与える。
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