水田宗子「河まで」(「現代詩手帖」2013年12月号)
水田宗子「河まで」(初出『青い藻の海』10月)は不思議ななつかしさに満ちている。
「わからなかった」と「始めた」が「肉体」を刺戟してくる。いつだって人間は「わからない」まま「始める」。たとえ「わかっている」つもりのことでも、よくよく考えると「わからない」。いつでも予想外のことが起きうるのだから。しかし、始めると、それはどうしても「わかる」何かになってしまう。わからなくても、「肉体」はわかってしまう--というのはいいかげんな言い方だが、「肉体」のなかに、何かがたまってきて、それが「わかる」。
たとえば、「はじめは昼下がりの一本道」というのは、歩き始めて、振り返ったときに見える「過去」である。肉体は動詞になって動いてしまうと、「過去」をつくりだしてしまう。その「過去」は肉体には確実に「わかる」ことなのだ。
「道はわからなかった」はずなのに、その道は実は「昼下がりの一本道」からはじまっていたということが「わかる」。「道はわからない」ままでも道は「できる」。「うまれる」。そうすると、その道を導くように「樹々のざわめき/彼方の沢から水音」が「道」を誘う。歩いている「人間の肉体」には川への道はわからなくても、川といっしょに生きている木々や水の音は川を「わかっている」。その木々や水の音が「わかっている」こと、その「わかる」に、肉体の「わかる」が同化しようとする。
この、奇妙に原始的(?)な肉体の力が、なつかしいと感じる理由だ。
歩くと、その大地、その大地に生えている草木、大地を流れる沢というものと「肉体」がどこかで重なる。「土地」を呼吸しはじめる。そういう「動き」が、この詩では、とても無口(?)なかたちで書かれている。少ない情報で書かれている。「肉体」を刺戟する昔から「わかっている」もので書かれている。言いなおすと、木々のざわめき(風の動き、動き方)、水音(それが聞こえてくる方向)のようなものが、どこかで川のそばを歩いたときに感じた「肉体の感覚」を呼び覚まし、「川はこっちだ」と教えてくれる。それは木々や水音が教えてくれるのか、それとも「肉体」が覚えている何かが教えてくれるのか、まあ、はっきりと区別はできないものだけれど……。
この「川」は「三途の川」かもしれない。それとは明確に書いていないけれど、私の「肉体」は、知らないはずの「三途の川(三途の川原)」を思うのである。
そこは誰もが行くところだから「道はわからなかった」としてもたどりついてしまう。だから急ぐ必要もない。「とりあえず一休みしよう」。ああ、いいなあ、と思う。悲しい詩なのかもしれないけれど、なつかしい感じがする。知っている感じがする。ここまできたんだから、もう休んでもたどりつける。その安心感のようなものがいい。
生きているということは、いつでもどこでも「無垢」。無垢以外のいのちはないのかもしれない。
ことばはうまく動いてくれないが、そういうことを感じた。
(きょうは風邪? めまいがする。ことばはちゃんと動いたかな?)
水田宗子「河まで」(初出『青い藻の海』10月)は不思議ななつかしさに満ちている。
道はわからなかったが
歩き始めた
先を行く者を追いかけて
それはもう始まっていたのだ
姿は見えない
道しるべもない
はじめは昼下がりの一本道
それから樹々のざわめき
彼方の沢の水音
やがて
薄暗がりの中の
混みいった険しい獣道
「わからなかった」と「始めた」が「肉体」を刺戟してくる。いつだって人間は「わからない」まま「始める」。たとえ「わかっている」つもりのことでも、よくよく考えると「わからない」。いつでも予想外のことが起きうるのだから。しかし、始めると、それはどうしても「わかる」何かになってしまう。わからなくても、「肉体」はわかってしまう--というのはいいかげんな言い方だが、「肉体」のなかに、何かがたまってきて、それが「わかる」。
たとえば、「はじめは昼下がりの一本道」というのは、歩き始めて、振り返ったときに見える「過去」である。肉体は動詞になって動いてしまうと、「過去」をつくりだしてしまう。その「過去」は肉体には確実に「わかる」ことなのだ。
「道はわからなかった」はずなのに、その道は実は「昼下がりの一本道」からはじまっていたということが「わかる」。「道はわからない」ままでも道は「できる」。「うまれる」。そうすると、その道を導くように「樹々のざわめき/彼方の沢から水音」が「道」を誘う。歩いている「人間の肉体」には川への道はわからなくても、川といっしょに生きている木々や水の音は川を「わかっている」。その木々や水の音が「わかっている」こと、その「わかる」に、肉体の「わかる」が同化しようとする。
この、奇妙に原始的(?)な肉体の力が、なつかしいと感じる理由だ。
歩くと、その大地、その大地に生えている草木、大地を流れる沢というものと「肉体」がどこかで重なる。「土地」を呼吸しはじめる。そういう「動き」が、この詩では、とても無口(?)なかたちで書かれている。少ない情報で書かれている。「肉体」を刺戟する昔から「わかっている」もので書かれている。言いなおすと、木々のざわめき(風の動き、動き方)、水音(それが聞こえてくる方向)のようなものが、どこかで川のそばを歩いたときに感じた「肉体の感覚」を呼び覚まし、「川はこっちだ」と教えてくれる。それは木々や水音が教えてくれるのか、それとも「肉体」が覚えている何かが教えてくれるのか、まあ、はっきりと区別はできないものだけれど……。
やがて霧が立ちのぼり
あたりを遮っている
無垢な終わりが
遠ざかっていく気配がする
ここは河原に違いない
内も外も越えた
この石だらけの境
とりあえず一休みしよう
この河原に火を焚いて
一休みしよう
この「川」は「三途の川」かもしれない。それとは明確に書いていないけれど、私の「肉体」は、知らないはずの「三途の川(三途の川原)」を思うのである。
そこは誰もが行くところだから「道はわからなかった」としてもたどりついてしまう。だから急ぐ必要もない。「とりあえず一休みしよう」。ああ、いいなあ、と思う。悲しい詩なのかもしれないけれど、なつかしい感じがする。知っている感じがする。ここまできたんだから、もう休んでもたどりつける。その安心感のようなものがいい。
生きているということは、いつでもどこでも「無垢」。無垢以外のいのちはないのかもしれない。
ことばはうまく動いてくれないが、そういうことを感じた。
(きょうは風邪? めまいがする。ことばはちゃんと動いたかな?)
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