マルガレーテ・フォン・トロッタ監督「ハンナ・アーレント」(2)
映画の感想ということになるのかどうかわからないが、映画を見て感じたことなので映画の感想ということにしておこう。
この映画はホロコーストをどうとらえるかということをテーマとしているのだが、私には「ドイツ哲学」の問題点をあぶりだしているようにも感じられた。あ、ドイツ哲学といっても、聞きかじりの印象なのだけれど。
ドイツ哲学は、私にはとても閉鎖的(構造的/構築的)なことばの運動のように思える。きちんと「結論」があり、その周辺に「結論」までの論理が集まっている。がっちりと固まっている。ドイツ語に、日本語の係り結びみたいな「枠」があるが、それが「哲学」全体を「形」のなかに閉じ込めているという感じ。開かれていない。自由にそこに出入りし、それを楽しむという感じではない。
で、この映画を振り返ってみると、ハンナ・アーレントはホロコーストを「凡庸の悪」と定義する。根源的な悪による残虐行為ではなく、全体主義がもたらした「思考停止」がひきおこした現象ととらえる。「悪」には悪意をもっておこなわれる悪と、何の判断もなく(思考もなく)おこなわれる悪があって、後者の方が暴走する、ということ。
この定義は定義としてとても鋭く、正しい指摘だと思う。
問題はアンナ・ハーレントがその「定義」を「定義」として完結させたということ。現象(現実)をことばの運動によって再現するとき、あくまでその「ことばの完結性」にこだわったということ。「ことばの完結性」を維持したまま、その定義をユダヤ人を定義する(?)ときに適用したこと。ユダヤ人のなかにも「思考停止」によって「凡庸の悪」に加担した人間がいた、と言ってしまったこと。
「哲学」は普遍である。普遍はすべての存在に適用するから普遍という。だから、ハンナ・アーレントは「悪の定義」をユダヤ人のなかでも「立証」しようとした。そして、収容所のユダヤ人リーダーにぶつかり、そこに同じ「凡庸の悪(思考停止が引き起こす悪)」というものを見た。ナチスとユダヤ人。加害者と被害者。その対立構造を超えて適用できる「定義」を見つけ出したのだ。対立構造を超越しているがゆえに、ハンナ・アーレントはそれを「普遍」と感じ、「正しい哲学(正しい論理)」と確信したのである。
この正しさは、たしかに論理として完結している。まったく、そのとおりである。と、いいたいけれど、「頭」はたしかにその通りだと「判断」するのだが、これはとってもおかしい。奇妙な論理である。私のなかで何かがむずむず動く。
加害者がいて被害者がいるとき、その両方に適用できる「定義」、「普遍の定義」というものは、おかしい。普遍の定義があると仮定するとき、その定義からは、最初に問題になった加害者/被害者という対立構造が消えてしまう。「中立」の立場、純粋論理の立場にとって、加害者/被害者は問題にならないということなのかもしれないが、それではなぜ加害者/被害者という問題に目を向けたのかがわからない。なぜ、加害者/被害者という対立構造が生まれるのか--そのいちばん基本の「定義」をとっぱらって、悪とは何か、ということを「哲学」しても始まらない。加害者/被害者という存在を、「破壊的な暴力/大量虐殺という悪」ということばの「枠」のなかに閉じ込めてはいけないのだ。「悪」の定義を確立し(?)、その定義で加害者/被害者という世界のあり方を再定義するというような「世界閉鎖」はしてはいけないのだ。
アンナ・ハーレントの指摘は鋭い。しかし、その鋭い指摘の「定義」を、加害者/被害者の両方にまで拡大して行ったとき、そこの「定義」のなかでは加害者/被害者は存在しなくなってしまった。「人間」がいなくなってしまった。
加害者/被害者がいるとき、どうやって被害者を救済するかということがいちばんの問題点であるはずなのに、そのことがハンナ・アーレントのことばの運動からすりぬけてしまった。
被害者を救済する、被害者の立場に立って、被害を回復する。これはひとつの「愛」であり、そういうものがないと、ひとは納得できない。「愛」があるなら、ひとは何かを納得する。愛というものは、「枠」のなかにあるのではなく、枠を壊して動いていくものである--と書くと、うーん、ハンナ・アーレントに言わせれば、加害者/被害者という「枠」を乗り越えて「悪を定義する」ということも愛なのだということになるのかもしれないが……。
あ、ここに問題がある。ことばの問題。意味の問題。哲学の問題が集約する。
「意味」というものは、いつでもことばをつないでしまえばできあがってしまう。ハンナ・アーレントのように「悪を定義する」ということ、「悪の定義」をつくりだすことはできてしまう。そして、その「定義」はどこまでも拡大できる。実際に、ハンナ・アーレントはナチスの悪の定義を、ユダヤ人リーダーにまで適用してしまった。
だから。(というのは、飛躍なのだけれど。)
ことばは「意味」になどしてしまってはいけないのだ。「意味」がみつかったからといって、それが「貴重」であるなどと思ってはいけないのだ。「結論」なんて、どうにでもなるのだ。ことばが動けば、そこに知らず知らずに「意味(結論)」は生まれてくる。「意味」はたいていの場合「正しい」と受け止められるが、「意味」はそれ自体では正しいものでもまちがいでもない。ただ、そう動くだけのものである。
あることがらを「正しい」にするか「まちがい」にするかは、まったく別の問題なのだ。そのことを哲学(特にアンナ・ハーレントのドイツ哲学)は考慮に入れていない。ときには「まちがい」のなかに「正しい」が含まれているのだ。
この映画に関係づけて言えば、夫が浮気をする。それは「まちがい」である。けれど、そうしてしまう夫の側には、そして夫を誘い込む女の側には、社会倫理からみて「まちがい」であることとは別の「正しい」何かがある。つまり、どっちも「正しい」であり、どっちも「まちがい」である。どっちの側に立つかという問題のちがい(愛の違い)がある。
愛というのはもともと「自分の枠」壊していくものである。「枠」を壊すということは、どうしたって、どこかに「まちがい」を含んでいる。「枠」の否定なのだから。ただ、それを「枠の否定」ととるか、「枠の開放」ととるかは、また立場の違いによってことなってくる。
あ、これでは何の「結論」にもならない?
そうだと思う。
「思考」というのは、ハンナ・アーレントが考えるように「構造(枠)」のなかで完結するものではない。「結論」というものもには達しない。それが思考なのだ。考えるということなのだ。「定義」などは、ある瞬間の「便宜」であって、それにこだわってはいけない。「定義」を閉塞状況のなかで純粋培養してはいけない。「定義」はつねにあいまいにゆらぐものでなければならない。
*
なぜ、こんなことをくだくだと書きつづけるかというと……。
映画とは関係ないのだが、さっき感想を書いた藤井貞和の「かだましく」。その回文の、技巧的な詩を読みながら、私にはどうしてもわからないことがあった。「かだましく」って何? それがわからない。そんなことばを私は聞いたことがない。で、それが何かわからないのだが、そこにあることばは不思議な感じで、「わからなさ」にむけて開かれている。
それぞれのことばには東日本大震災、福島第一原発を感じさせるものがある。ことばがそういうものに向けて開かれている。その開かれた「ことばの通路」を通って、私は、ひとつひとつのことばに揺さぶられる。これは、どういう「意味」? 何の「象徴」? そして、藤井は何を言いたい?
わからないのだけれど、ことばがねじくれているのがわかる。そのねじまがりは東日本大震災、福島第一原発の事故と関係しているということが「わかる」。正確なことは何一つ言えないのに、「わかる」。私の「肉体」が覚えていることを刺戟する。覚えていることを刺戟し、何かを動かそうとしている。何かを思い出させようとしている。いや、勝手に思い出してしまう。
この勝手に思い出す運動を私は「わかる」というのだが。
「かだましく」には何か「定義=意味」があるのかもしれない。でも、その「意味」を無視して、私は「わかる」。東日本大震災、福島第一原発の事故によって、何かがねじまがったのだ。--それはとっても簡単に言ってしまえば、原子力発電(原子力の利用)というのは、「完結した世界」ではなたしかに完璧なのかもしれないが、世界は「完結」しているわけではないから、「物理学の世界で安全という形で完結」しても、その「物理学の世界」という「枠」がとっぱらわれてしまったとき、そこには違うものが出現してくるということ。そういうねじまがりがあるということ。逆に言うと、「完結した安全」という閉鎖状態は、ある意味で世界を最初からねじまげているということ。
で、また飛躍すると。
ハンナ・アーレントの「悪の定義」は、彼女の哲学のなかでは完結しているが(美しいことばの運動を描いているが)、その定義は完結しているという形をとることで、そういう形をとったことで世界を歪めてしまっているのだ。ねじまげてしまっているのだ。
ナチスという加害者がいて、虐殺されたユダヤ人がいるという「事実」をねじまげて、「悪には凡庸な悪というものがある」と自己完結してしまっている。
多くの人がハンナ・アーレントに批判のことばを投げつけたのは、その「自己完結」という「自己防衛」が暴力だと感じたからなのだ。「自己完結」では「愛」は存在を否定されてしまう。「愛」はどこにあるのか、と怒りをぶつけたのである。
ハンナ・アーレントは孤立してことばの世界を完結させたが、その孤立にはきちんと理由がある。そのことにハンナ・アーレントは気づいていて、なおかつ、「ドイツ哲学」にこだわったのだろうか。
結論のない哲学(プラトン以来の「わかっている」から「わからない」としかいえない哲学)の方が、私には安心できるので、こんな感想も書いておく。
映画の感想ということになるのかどうかわからないが、映画を見て感じたことなので映画の感想ということにしておこう。
この映画はホロコーストをどうとらえるかということをテーマとしているのだが、私には「ドイツ哲学」の問題点をあぶりだしているようにも感じられた。あ、ドイツ哲学といっても、聞きかじりの印象なのだけれど。
ドイツ哲学は、私にはとても閉鎖的(構造的/構築的)なことばの運動のように思える。きちんと「結論」があり、その周辺に「結論」までの論理が集まっている。がっちりと固まっている。ドイツ語に、日本語の係り結びみたいな「枠」があるが、それが「哲学」全体を「形」のなかに閉じ込めているという感じ。開かれていない。自由にそこに出入りし、それを楽しむという感じではない。
で、この映画を振り返ってみると、ハンナ・アーレントはホロコーストを「凡庸の悪」と定義する。根源的な悪による残虐行為ではなく、全体主義がもたらした「思考停止」がひきおこした現象ととらえる。「悪」には悪意をもっておこなわれる悪と、何の判断もなく(思考もなく)おこなわれる悪があって、後者の方が暴走する、ということ。
この定義は定義としてとても鋭く、正しい指摘だと思う。
問題はアンナ・ハーレントがその「定義」を「定義」として完結させたということ。現象(現実)をことばの運動によって再現するとき、あくまでその「ことばの完結性」にこだわったということ。「ことばの完結性」を維持したまま、その定義をユダヤ人を定義する(?)ときに適用したこと。ユダヤ人のなかにも「思考停止」によって「凡庸の悪」に加担した人間がいた、と言ってしまったこと。
「哲学」は普遍である。普遍はすべての存在に適用するから普遍という。だから、ハンナ・アーレントは「悪の定義」をユダヤ人のなかでも「立証」しようとした。そして、収容所のユダヤ人リーダーにぶつかり、そこに同じ「凡庸の悪(思考停止が引き起こす悪)」というものを見た。ナチスとユダヤ人。加害者と被害者。その対立構造を超えて適用できる「定義」を見つけ出したのだ。対立構造を超越しているがゆえに、ハンナ・アーレントはそれを「普遍」と感じ、「正しい哲学(正しい論理)」と確信したのである。
この正しさは、たしかに論理として完結している。まったく、そのとおりである。と、いいたいけれど、「頭」はたしかにその通りだと「判断」するのだが、これはとってもおかしい。奇妙な論理である。私のなかで何かがむずむず動く。
加害者がいて被害者がいるとき、その両方に適用できる「定義」、「普遍の定義」というものは、おかしい。普遍の定義があると仮定するとき、その定義からは、最初に問題になった加害者/被害者という対立構造が消えてしまう。「中立」の立場、純粋論理の立場にとって、加害者/被害者は問題にならないということなのかもしれないが、それではなぜ加害者/被害者という問題に目を向けたのかがわからない。なぜ、加害者/被害者という対立構造が生まれるのか--そのいちばん基本の「定義」をとっぱらって、悪とは何か、ということを「哲学」しても始まらない。加害者/被害者という存在を、「破壊的な暴力/大量虐殺という悪」ということばの「枠」のなかに閉じ込めてはいけないのだ。「悪」の定義を確立し(?)、その定義で加害者/被害者という世界のあり方を再定義するというような「世界閉鎖」はしてはいけないのだ。
アンナ・ハーレントの指摘は鋭い。しかし、その鋭い指摘の「定義」を、加害者/被害者の両方にまで拡大して行ったとき、そこの「定義」のなかでは加害者/被害者は存在しなくなってしまった。「人間」がいなくなってしまった。
加害者/被害者がいるとき、どうやって被害者を救済するかということがいちばんの問題点であるはずなのに、そのことがハンナ・アーレントのことばの運動からすりぬけてしまった。
被害者を救済する、被害者の立場に立って、被害を回復する。これはひとつの「愛」であり、そういうものがないと、ひとは納得できない。「愛」があるなら、ひとは何かを納得する。愛というものは、「枠」のなかにあるのではなく、枠を壊して動いていくものである--と書くと、うーん、ハンナ・アーレントに言わせれば、加害者/被害者という「枠」を乗り越えて「悪を定義する」ということも愛なのだということになるのかもしれないが……。
あ、ここに問題がある。ことばの問題。意味の問題。哲学の問題が集約する。
「意味」というものは、いつでもことばをつないでしまえばできあがってしまう。ハンナ・アーレントのように「悪を定義する」ということ、「悪の定義」をつくりだすことはできてしまう。そして、その「定義」はどこまでも拡大できる。実際に、ハンナ・アーレントはナチスの悪の定義を、ユダヤ人リーダーにまで適用してしまった。
だから。(というのは、飛躍なのだけれど。)
ことばは「意味」になどしてしまってはいけないのだ。「意味」がみつかったからといって、それが「貴重」であるなどと思ってはいけないのだ。「結論」なんて、どうにでもなるのだ。ことばが動けば、そこに知らず知らずに「意味(結論)」は生まれてくる。「意味」はたいていの場合「正しい」と受け止められるが、「意味」はそれ自体では正しいものでもまちがいでもない。ただ、そう動くだけのものである。
あることがらを「正しい」にするか「まちがい」にするかは、まったく別の問題なのだ。そのことを哲学(特にアンナ・ハーレントのドイツ哲学)は考慮に入れていない。ときには「まちがい」のなかに「正しい」が含まれているのだ。
この映画に関係づけて言えば、夫が浮気をする。それは「まちがい」である。けれど、そうしてしまう夫の側には、そして夫を誘い込む女の側には、社会倫理からみて「まちがい」であることとは別の「正しい」何かがある。つまり、どっちも「正しい」であり、どっちも「まちがい」である。どっちの側に立つかという問題のちがい(愛の違い)がある。
愛というのはもともと「自分の枠」壊していくものである。「枠」を壊すということは、どうしたって、どこかに「まちがい」を含んでいる。「枠」の否定なのだから。ただ、それを「枠の否定」ととるか、「枠の開放」ととるかは、また立場の違いによってことなってくる。
あ、これでは何の「結論」にもならない?
そうだと思う。
「思考」というのは、ハンナ・アーレントが考えるように「構造(枠)」のなかで完結するものではない。「結論」というものもには達しない。それが思考なのだ。考えるということなのだ。「定義」などは、ある瞬間の「便宜」であって、それにこだわってはいけない。「定義」を閉塞状況のなかで純粋培養してはいけない。「定義」はつねにあいまいにゆらぐものでなければならない。
*
なぜ、こんなことをくだくだと書きつづけるかというと……。
映画とは関係ないのだが、さっき感想を書いた藤井貞和の「かだましく」。その回文の、技巧的な詩を読みながら、私にはどうしてもわからないことがあった。「かだましく」って何? それがわからない。そんなことばを私は聞いたことがない。で、それが何かわからないのだが、そこにあることばは不思議な感じで、「わからなさ」にむけて開かれている。
それぞれのことばには東日本大震災、福島第一原発を感じさせるものがある。ことばがそういうものに向けて開かれている。その開かれた「ことばの通路」を通って、私は、ひとつひとつのことばに揺さぶられる。これは、どういう「意味」? 何の「象徴」? そして、藤井は何を言いたい?
わからないのだけれど、ことばがねじくれているのがわかる。そのねじまがりは東日本大震災、福島第一原発の事故と関係しているということが「わかる」。正確なことは何一つ言えないのに、「わかる」。私の「肉体」が覚えていることを刺戟する。覚えていることを刺戟し、何かを動かそうとしている。何かを思い出させようとしている。いや、勝手に思い出してしまう。
この勝手に思い出す運動を私は「わかる」というのだが。
「かだましく」には何か「定義=意味」があるのかもしれない。でも、その「意味」を無視して、私は「わかる」。東日本大震災、福島第一原発の事故によって、何かがねじまがったのだ。--それはとっても簡単に言ってしまえば、原子力発電(原子力の利用)というのは、「完結した世界」ではなたしかに完璧なのかもしれないが、世界は「完結」しているわけではないから、「物理学の世界で安全という形で完結」しても、その「物理学の世界」という「枠」がとっぱらわれてしまったとき、そこには違うものが出現してくるということ。そういうねじまがりがあるということ。逆に言うと、「完結した安全」という閉鎖状態は、ある意味で世界を最初からねじまげているということ。
で、また飛躍すると。
ハンナ・アーレントの「悪の定義」は、彼女の哲学のなかでは完結しているが(美しいことばの運動を描いているが)、その定義は完結しているという形をとることで、そういう形をとったことで世界を歪めてしまっているのだ。ねじまげてしまっているのだ。
ナチスという加害者がいて、虐殺されたユダヤ人がいるという「事実」をねじまげて、「悪には凡庸な悪というものがある」と自己完結してしまっている。
多くの人がハンナ・アーレントに批判のことばを投げつけたのは、その「自己完結」という「自己防衛」が暴力だと感じたからなのだ。「自己完結」では「愛」は存在を否定されてしまう。「愛」はどこにあるのか、と怒りをぶつけたのである。
ハンナ・アーレントは孤立してことばの世界を完結させたが、その孤立にはきちんと理由がある。そのことにハンナ・アーレントは気づいていて、なおかつ、「ドイツ哲学」にこだわったのだろうか。
結論のない哲学(プラトン以来の「わかっている」から「わからない」としかいえない哲学)の方が、私には安心できるので、こんな感想も書いておく。