詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子「誕生は偶会」、相沢正一郎「(はれわたった空にうかぶ雲が、テーブルの上に……)」

2013-12-06 10:53:13 | 詩(雑誌・同人誌)
井坂洋子「誕生は偶会」、相沢正一郎「(はれわたった空にうかぶ雲が、テーブルの上に……)」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 「現代詩手帖」2013年12月号は「年鑑」。代表詩選 150篇が掲載されている。読んだことのない詩が多い。読んだかもしれないけれど、読みとばした詩もあるかな? 私は私の関心のあること以外は素通りしてしまう人間なので、年に一回、「年鑑」が出たときだけ、そのなかのことばを歩いてみる。途中でやめてしまうことが多いけれど。

 さて。
 井坂洋子「誕生は偶会」。井坂の作品については04日にも書いたが、そのときは佐々木安美のことばと結びつけて書いた。井坂のことばだけと向き合ったわけではなかった。で、向き合ってみることにしたのだが……。
 井坂のことばには、わからないことが多い。わからないものを多く含んでいる。これは初期のころからかわらない井坂の特徴であると思う。(「偶会」も私の知らないことば(わからないことば)なのだが、こういういことを「わからない」と書いているときりがないので、省略。)

なんにも いらなかったね
なにしてもよかったんだけれど
(クリップをした頭を揺らしながら喋る
わたし あれから半世紀もたっちゃって
いろいろあったけど
(鍵盤の高いキイを軽くたたきながら喋る
透明な魚の泡が彼女の肩胛骨のあたりで 幾つもこわれる

 井坂の友人が、井坂に向かって話しているのだろう。半世紀ぶりに会ったのかな? 井坂って、そんな年齢? つまり半世紀+○歳=●歳。そんなふうに、ちょっと寄り道しながら読むのだけれど--この寄り道。私は意外と大切なこと、重要なことなのかな、とも思う。
 寄り道のなかには、何か人間に共通のものがある。人が「あれから半世紀もたった」というとき、その人はあのときから「半世紀」生きているのだけれど、その半世紀は自分にも跳ね返ってくる--その「跳ね返り」の「共通」。
 それは、「なんにも いらなかったね/なにしてもよかったんだけれど」ということばがもっている何か「共通」にも通じる。「いろいろあったけど」にも「共通」がある。ほんとうは「違う」のだけれど、井坂と井坂が向き合っているひとは違うことを体験しているはずなのだけれど、その「違い」を超えて「共通」する何か。一種の、「同時代」を生きることが生み出してしまう「共通」。いや、それは「同時代」でなくてもいいかな? 人間が生きていることの「共通」。
 言い換えると。
 「わたし(井坂の対話者)」が「なんにもいらなかったね/なにをしてもよかったんだけれど」と言うとき、彼女が何を思い浮かべて「なんにも」と言っているかわからないけれど、それが「わかる」。それが「わかる」のは、井坂にも(そして、この詩を読んでいる私にも)、「なんにもいらなかったね/なにをしてもよかったんだけれど」ということばで「要約」できるような「瞬間」があったということ。それが「共通」している。
 「要約」できるものは、まあ、たいていがつまらない。だから書く必要はない。書かなくても「要約」は伝わるのである。
 「いろいろあったけど」は、もっとすごい。「いろいろって何?」と聞くこともあるけれど、尋ねないこともある。言いたいことがあるなら、いずれ話すだろう。話さないなら、そのままにしておいてもかまない。そういう「あいまい」な付き合いのなかに「共通」がある。同じところを通る何かがある。
 もしかしたら、
 ○歳+半世紀=●歳という「算数」のなかの「+」が、その「共通」なのかもしれないなあ。「半世紀」が「共通」というよりも。「半世紀」を通るのではなく、「+」を通ることが「共通」なのかな。
 だから「いろいろ」がどんなものでも「共通」になってしまう。

 あ、抽象的だねえ。抽象的だけれど、その抽象は何か小学校の算数(足し算)のように、あたりまえすぎるくらい人間になじんでいて、それを「具体的」に取り出すのがむずかしくなっている--そういう感じ。足し算の「+(プラス)」という記号は抽象的だけれど、誰もそれをいちいち「抽象」なんて言わない。「+(プラス)」は私たちの「肉体」になってしまっている。「具体的な思想」になって「肉体」に組み込まれてしまっている。それが私たちの「共通」になってしまっているのかなあ。

 井坂の書くことばには、不思議な具体性があって、しかもその具体性はよくよく考えると、その足し算の「+(プラス)」に似た具体性なのである。抽象的だけれど「具体的」なのである。
 そこから出発して(そういうものを土台としてぽんと提出しておいて)、

透明な魚の泡が彼女の肩胛骨のあたりで 幾つもこわれる

 と突然「非共通」の何かがあらわれる。「共通」をくぐりぬけたあとで、共通じゃないもののほうに「ずれ」る。
 このずれ方が、とても美しい。
 あ、それを見たことがある--と思ってしまう。「透明な魚の泡」が「幾つもこわれる」というのは、水槽の金魚(たとえば)の吐くあぶく。それがぷくぷく浮かんできて、ぱちっとこわれる。そういうものを私は書いたことがないけど(ことばにしたことはないけれど)、それは「ある」。「ある」ということをくっきりと思い出す。私はそれを「覚えている(覚えていた)」ということを発見する。
 で、これが--この「覚えていたこと」を「思い出す」というのは、逆戻りしてしまうけれど、最初に書いた「なんにも いらなかったね/なにしてもよかったんだけれど」ということばのなかに「共通」を感じる、その「共通」を通るということと同じなのだ。
 私たちは何かを「覚えている」。そして、それを「思い出す」。そのとき、同じところを「通る」。

 そのときの、「通過の感覚」が、何とも不思議。
 うまく言えないが、私は「おんな」を感じる。つまり、私とはまったく違う何かを。でも、違うといっても「同じ人間」なのだけれど。「同じ人間」なのだから「同じ」があるのだけれど、手触りが違う。
 これでは何も言ったことにならないのだが、

透明な魚の泡が彼女の肩胛骨のあたりで 幾つもこわれる

 の一行の「彼女の肩胛骨のあたり」という挿入(?)部分に、ふっと引きつけられる。「おんなの裸」を見るような、目が洗われる感じがある。
 男は書かないだろうなあ。書けないだろうなあ。
 3連目の、

きれぎれに聞こえてくる音楽のような
静かさに支配されている
表(おもて)はひっきりなしに車が通っているというのに

 という彼女の語り口の静かさと家の外の音との対比なんかも。
 なんだろうなあ、これは。
 そこに「現実」がある、「世界」があるというよりも、何か、その「世界」をとりこんでいる「肉体」がある、「肉体」を見る感じなのである。「おんなの肉体」の輝きを見る感じがするのである。
 --こういうのは「感覚の意見」であって、まあ、いいかげんなものだけれど。



 相沢正一郎「(はれわたった空にうかぶ雲が、テーブルの上に……)」は井坂のことばに比較すると、あたりまえだが「男の肉体」である。
 いや、間違えた。「肉体」は、そこにはない。--これは、方便でそう書いているのだが……。

はれわたった空にうかぶ雲が、テーブルのうえに……みずうみは、よく磨かれた鏡のよう--顔をちかづけると、息でしろく曇ってしまいそう。

 「息でしろく曇って」には具体的な肉体の存在が反映されているけれど、でも「肉体」よりも、磨き上げられたテーブルに空と雲がうつっているという「もの」の世界の方が強く見えてくる。そこには「もの」はあるけれど、それは「肉体」を通過しない「もの」である。「肉体」の外にある「もの」。
 井坂のことばが「おんなの肉体」を通って「世界」と往き来するのに対して、相沢のことばは「肉体」を通らない。
 あ、でも、ことばが「肉体」を通らないということはありえないので……。
 そうだなあ。相沢のことばは「目」だけを通るといえばいいのかなあ。

顔をちかづけると、息でしろく曇ってしまう。

 呼吸(鼻?)があらわれるけれど、それは「しろく」という視覚にすぐに整え直されてしまう。「目」で世界をとらえるという運動が支配的なことばの運動だ。



 井坂だけを読んで井坂のことばのなかに入っていくというより、また他の人との比較をまじえてしまった。井坂のことばは、私には、なんだか奇妙な印象を残す。

プロスペローの庭
相沢 正一郎
書肆山田
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西脇順三郎の一行(19)

2013-12-06 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(19)

 『旅人かへらず/一六一』(28ページ)

『から衣(ごろも)を着てゐた時代の

 この一行は「女のへそが見たいと云つた」という楽しいことばにつづく。どちらがを好きな一行として取り上げるか、私は実は悩んだ。「女の裸」といわずに「へそ」というところに不思議なエロチシズムがある。具体性が美しい。
 しかし、それがより具体的になるのは「へそ」という普遍性(いつの時代にでもあるもの)が、「から衣を着てゐた時代」によって特定されるからである。--この言い方は変で、「へそ」という具体的なものが「から衣」によってさらに限定されることで、逆に普遍になるというべきなのかもしれない。そのときどきで、どっちでもいいかもしれない。
 あ、脱線したが、その「へそ」を彩る「から衣」の一行の音がとても美しい。「ごろも」と西脇はわざわざ「ルビ」を打っている。この「ルビ」は「音」へと視覚を引っぱっていく。「ルビ」があってもなくても「意味」は同じだが、「ルビ」があると「衣」という文字を読んで動く意識が、聴覚をくすぐる。
 私は黙読しかしないのだが、黙読だと「から衣」という文字を見ると、そこに「衣装(着物)」が浮かび上がってきて、「音」が一瞬なくなる。視覚の方が情報量が多いからかもしれない。
 そこに「ごろも」という「ルビ」が打たれると、それは「衣」の模様(飾り)を通り越して、「音」そのもの、「音楽」になる。「ルビ」によって、ことばの「音楽」が動く出す。「か行」と「濁音」がこの一行を動かしていることがわかる。
 耳が西脇のことばを動かしていることがわかる。
 それを補うように「だれか立ちぎきするものがある」という行がある。「耳」でとらえた世界--耳で空想している。「天気」の「何人か戸口にて誰かとさゝやく」に通じる「音楽」の空想がこの断章を動かしている。
 「から衣」の一行は、そのことを証拠になる「音楽」である。
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