詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

峯澤典子「はじまり」

2013-12-22 10:02:44 | 詩集
峯澤典子「はじまり」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 峯澤典子「はじまり」(初出『ひかりの途上』08月)は赤ん坊が生まれてから歩きはじめるまでを書いている。
 ことばが赤ん坊に集中するのではなく、人間--いや、「ひと」と赤ん坊にむけられている。あ、これも間違い。赤ん坊が見ているひと、赤ん坊にしか見えないひとを見ている。ひとを見ながら、そのひとと赤ん坊の間に「人間」というものが生まれてくる感じがする。赤ちゃんは生まれ、それからひとに出会い、そこで「人間」として生まれ変わる。
 それは、何とも不思議な感じ。誕生(出産)のように、劇的に、第三者にわかるようなできごとではない。だからこそ、ことばにして、それをしっかりと定着させる必要があるのだろう。

ときに火を焚き
ときに花を流し
空にいる肉親に声を送る
地球という かなしい水辺に
降り立つことを選んだ足は
はじめてつま先を地面におろすまでに
四季を見送り
生まれた月をふたたび迎えた

それだけの月日を必要としたのは
自分と入り替わりで
水辺を離れた人たちが
誕生から何十年ものあいだ
誰にもわからないように
彼ら自身でも気づかないように
手のひらにしまっておいた
草木や風や
星々の影絵に
もういちど あやされながら
暗闇に同化してゆく時刻を
できるだけ長く
寝転んで見あげていたかったからではないのか

 これは、もちろん赤ん坊の考えるようなことではない。赤ん坊を産むことで、峯澤は生まれ変わる。赤ん坊になる。生きたまま生まれ変わるので、その記憶はしっかりしている。「肉体」が覚えていることをそのまま抱え込んで、赤ん坊になる。そうすると、不思議なことに峯澤が生きてきた「時間」だけではなく、そうやって命をつないできたひとの「思い」がふっと峯澤の「肉体」をとおりすぎる。峯澤を産んで、地球という「水辺を離れた人たち」、その「肉体」が峯澤の「肉体」になる。「肉体」がとけあってひとつになる。「肉親」ということばが出てくるが、「肉親」をいのちそのものの超えたつながりを感じる。峯澤は安価坊といっしょに「人間」になったのだ。ひとがつないできた「いのち」、人と人の「間」になる。そして人と人の「間」をつなぐ。つまり「人間」になる。「生まれる」から「生きる」へとかわる瞬間がここにある。
 ひとは誰でも、「誕生から何十年ものあいだ」に、それぞれの草木や風や星と「肉体」をかよわせ、ひとつになる。それぞれの草木、風、星を「肉体」のなかにもつようになる。それは「誰にもわからない」し、「彼ら自身でも気づかない」ものである。つまり、ことばにしないまま、つかみとった「いのち」である。その「ことば以前」(未生のことば)を赤ん坊は「1年」(四季)をかけて、静かに呼吸する。それは本能かもしれない。本能として、峯澤は、大事に「手のひらにしま」うようにして、温かく見守っている。赤ん坊を産み、同時に生まれ変わって、母親になって、いのちを見守る視線を感じる。見守りながら、峯澤が、こうやって見守られてきたのだと納得していることが伝わってくる。「人間」であることを感得していることが伝わってくる。

明けの空との長い対話ののち
仰向けからうつぶせになり
立ちあがることをようやく思い出し
まだ何も踏みつけたことのない
陽の匂いの足うらで
からだを左右に揺らし
ときおり床に手をついては
また起きあがり
つま先からかかとにかけて
真新しい力を芽吹かせ
とん、とん、とん、とん、と
生きている間は二度と見られない
まばゆい杭を
地表の時間に打ちつけ
これからは
雲の間に流されないよう
ゆっくりと
しかし たしかに
赤ん坊は
歩きはじめる

 赤ん坊をしっかり見ている--だけでは、書けない。特に、

とん、とん、とん、とん、と
生きている間は二度と見られない
まばゆい杭を
地表の時間に打ちつけ

 これは赤ん坊にならないと書けない。しかも、その赤ん坊はただ生まれてきただけではなく、それまで地球に生きていた「いのち」を引き継いで生まれた赤ん坊だからこそ書けることばである。
 赤ん坊が足をとんとんと踏みならす、ということは客観的な「事実」として書くことはできるが、その赤ん坊が「まばゆい杭」を「地表の時間に」打ちこんでいたとは、赤ん坊でしか書けないことである。
 なんといっても、その「まばゆい杭」が書けない。
 別な言い方をすると。
 「まばゆい杭」というものは、峯澤が「まばゆい杭」と書くまでは誰にも見えないからである。見えなかったからである。地球を生きた「いのち」を引き継いで生まれてきた赤ん坊、その赤ん坊といっしょに生まれ変わった峯澤が、引き継いだ「いのちの結晶(いのちの象徴)」として、「生きる」というはじまりについて、「はじめて」ことばにしたものだからである。
 はじめてこの世に生まれてきた「ことば」なので、その「意味」はわからない。何を意味しているか、何を象徴しているか--というようなことは「定義」できない。説明できない。ただ「まばゆい杭」としか言えない。こういうことばが「意味(定義)」をもつようになるまでには、繰り返し繰り返し、同じような赤ん坊の姿が書かれなければならない。繰り返し書くことで、たぶん、少しずつ「未生のことば」の「未生」の広がりにたどりつけるのだと思う。
 あ、少し余分なことを書いてしまったかもしれない。
 この「まばゆい杭」は「頭」では書けない。それを見たものにしか書けない。はじめて書かれた「事実」である。だからそれは、「誰にもわからない」(峯澤にしかわからない)ものである、はずである。
 しかし、それなのに「わかる」。
 杭が見える。赤ん坊が足でとんとんと打ちこんでいるのが見える。目の前に赤ん坊すらいないのに。つまり、それは「見える」のではなく「わかる」のである。そういうことを、私は「わかる」と呼ぶのである。
 こういう錯覚(?)を引き起こすことばはすごい。
 これが詩だ。








ひかりの途上で
クリエーター情報なし
七月堂
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西脇順三郎の一行(35)

2013-12-22 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(35)

 「より巧みなる者へ」

川のわきで曲つた庭がある

 西脇は「曲がる」ということばが好きである。西脇にとって「まっすぐ」には味がないのかもしれない。
 それにしても「曲つた庭」というものは、ない。「庭」は曲がらない。
 けれど、なぜだろう、「川のわきで曲つた庭がある」という1行を読むと、くっきりと情景が浮かぶ。私は「誤読」する。川が曲がっている。それが庭に接している。庭を囲むように川が曲がっている……。
 もっと言いなおすと。
 川に沿って、私の「肉体」は動く。「川のわきで曲つた」とということばといっしょに私は川のように曲がる。私はこのとき「川」なのである。川になって、曲がる。川には、何か人の動きを刺戟するものがあって、つまり川は渡るか、それに沿って歩くしかないものである。渡らないかぎりは、川に沿って歩く。だから、ときには「曲がる」。でも川に沿ってという行為そのものは曲がらない。つらぬかれる。
 そういう人間の「肉体」の動きがあって、その動きに連れて「庭」にであったとき、曲がるのは川ではなく庭なのだ。歩く(動く)人にとって道はどんな径路であろうと「まっすぐ」でしかない。
 「曲がる」ということばを西脇がつかうとき、西脇はほんとうは「曲がる」ということをしていない。そこに「曲がる」を貫く「まっすぐ」をみている。「曲がる」のなかにこそ、ふつうではとらえることのできない「まっすぐ」がある。「寂しい」と直結する「道」がある。

 私の書いていることは「矛盾」だが、そういう「矛盾」を誘う響きが西脇のことばにある。


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谷内 修三
思潮社
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