和田まさ子「ラッキーストーン・ジュエリーズ」(「地上十センチ」5、2013年11月20日発行)
和田まさ子「ラッキーストーン・ジュエリーズ」はスーパーに買い物に行く詩である。でも、その書き出しは。
最後の「プリンのカロリーから引き算する、生きていることを。」が、えっ、いま何て言った? わからない、という感じなのだが、それまでの「肉体」そのものが動いているような、ずるずる感(?)、くだくだ感(?)、そのくせ欲望だけがすばやく動くがつがつ感(?)がおもしろくて、「おいおい」というか「へへへ」というか、まあ、女が他人の目を気にせずに何かを食べている感じが、裸を見てしまったような感じでうれしい。ほら、こういうとき、その女が高尚な概念的な抽象的な哲学的な何かを考えているのだとしても、「へっ、それ何のこと?」という気持ちになるでしょ? それと同じ。何か本人にとっては大事なことなんだろうけれど、そんなこと知らない。私は裸を見ているだけ。裸を見ているのに、それにしか関心がないのに、裸を見なかったふりをして、「その哲学的内容をもっと具体的にかみくだいて表現してもらえますか?」なんて質問するばかはいない--と思う。
で、この「行く行かない、結局行くのだ」という「結論」を引き延ばした時間のなかに動いている「裸」--裸と思わず書いてしまうのは、「行く行かない、結局行くのだ」というようなことは他人からは見えない動きだからである。そのひとが「行く」という「結果(結論)」、他人とのかかわりが生まれる部分だけを見せているかぎりは見えない。ふつう、そのひとがスーパーへ「行く」というのは、他人には実際にスーパーで買い物をしているときにしか見えない。それまで、そのひとがどんなふうにしてスーパーへやってきたかはわからないからね。
同じように、何かを買うとき、そのひとが何を考えているかは、はっきりとはわからない。買い物籠に、白菜、人参、椎茸、焼き豆腐、牛肉を入れるのを見たら「今夜はすき焼きか……」くらいは思うけれど。で、そういうほんとうは見えない何かを、和田は、ずるずる、くだくだ、そのくせ妙にはっきりと書きつづけるのである。
うーん、身体を漂白したいというのは、たとえば高知の男のことばを洗い流してしまうこと? できないよ。いま、思い出したばっかりでしょ? 洗い流したいと思うことと思い出すことはいつもくっついているからねえ--と書いて、私は、和田の「裸」を見ているだけでなく、あ、触れてしまったと感じる。
和田がこの詩で書いているのは、「行く行かない、結局行くのだ」ということばガあらわしているように、人間の体には反対のものがいつもくっついている(反対のものを含みながら存在している)ということだと、突然「わかる」。
そうか、「生きる」ということは「矛盾」を抱え込んで、それをひきずりながら、ともかく動くことなんだ--と和田は感じているんだな、と1連目に引き返し「生きている」ということばをつか見直すのである。
で、その「矛盾」というか、「行く行かない」のことばのように必ず正反対というわけでもないけれど、何かがいろいろくっついて「わたし」がいる。高知の男なんて、いまはいないはずなのに、くっついている--というようなことが高知の男ほど明確ではないが、ずるずる動く。「裸」の外見ではなく、裸の肌がすきとおって「内面/内臓」が見える。--見えたものを「内面(こころ?)」と、私がかってに思い込むということだけれど。
こうなってくると、そのとき、私はもう私ではなく「和田」になって買い物をしている。
好みのパンを見つけて買うというだけの「結論」なのだけれど、その「結論」までの「行く行かない」をていねいに言いなおしているので、そのことばにあわせて私の「肉体」が動いてしまう。そして、その動いた「肉体」が私のなかに「和田のこころ」を生み出してしまう。私の「こころ」は和田が感じていること(考えていること)以外を感じることができなくなる。
いけない、あぶない。私が私ではなく、和田になってしまう。傍から女の裸を見ていたつもりだったのに、裸になって、しかも女になってスーパーを歩き回っている。
で、それが和田のことばを読むに従って、「恥ずかしい」ではなく、なんだか快感になる。裸なんて、どんなものも同じ。すぐ見飽きてしまって、ああ、このひとは何を考えているんだろう、このひとの欲望はどこにあるんだろう、というような「内面」に目がゆく。人間の欲望は変なもので、見えないものこそ見たいのである。裸の女を見れば、その裸の女の、裸でいても平気なこころ、が見たくなり、それが見えたと思った瞬間、もう裸は忘れて、その「こころ」を見つづける。そういうことを知っていて、和田は「裸」の奥の「こころ(欲望/本能)」をさらに開いて見せる。
で、「こころ(本能)」を見つづけると、「こころ」ではない「事実」(詩/ものの本能)が見えてくる。詩は「こころ」なんかにはなくて、あくまで、自分の「外」にある。絶対、自分にはならないもの、「絶対的外部存在」が詩だ。
何かというと。
あ、そうなのか。そういう色をしているのか。読みながら、書き写しながら、私はスーパーへ行って、その色を確かめたくなる。そういう色を知っている和田がにくらしくなる。嫉妬してしまう。和田ではなく、私が最初にそれを見つけて買い占めてしまいたくなる。そうすれば和田はその色を知らず、この詩も書くこともなく、私が時間を先回りして「盗作」して書いたのを見て、きっと悔しいと思うだろうなあ、というようなことまで私は考えてしまう。
でもね、私には実際はそういうことはできない。
私は二度目に「色」を引用するとき、わざと改行にして色を識別したのだが、和田は「行く行かない」のように「ずるずる」とくっつけて書いている。そこにある「色」は「個別」であるけれど、個別ではない。「行く行かない」のようにくっつき合って、くっつくことでそれぞれの「色」になっている。
くっついたら、そこから混じり合い、濁る--というのが存在のありふれたあり方だと思うけれど、和田の場合は、くっついても濁らない。くっつくことで、色がより鮮明になるのだ。和田の視力は平面を見るのではなく、「立体(固体)」として生きるのだ。
このことは、この詩では少しわかりにくいかもしれないが、人間が「金魚」や「壷」になってしまう詩を思い起こすとそのことがわかる。
「金魚」や「壷」になってしまった人間を描きながら、和田の「金魚」や「壷」はカフカの「変身」のように世界を歪めない。「金魚」「壷」から見ても世界は「正常(?)」である。いや、より「正常」になるという感じ。あ、間違えた。「金魚」「壷」を見ることで、そこに「正常」があると思ってしまう。
この「正常」を、和田は「生きている」と言いなおすかもしれないが。
和田まさ子「ラッキーストーン・ジュエリーズ」はスーパーに買い物に行く詩である。でも、その書き出しは。
いつものようにスーパーマーケット、行く行かない、結局行くのだ
けれど逡巡が長いから太陽は少し翳りを増し、屈折角度二十五度。
布団から出たわたしは冷蔵庫に直行、買い置きのゼリー、プリン、
ヨーグルト、どれでもいいから手をのばす。生きるためこの儀式は
やめられない。最低二個食べて深く息をつく、飲み物はなんでもい
いが、きょうは水、水、水がいい、プリンのカロリーから引き算す
る、生きていることを。
最後の「プリンのカロリーから引き算する、生きていることを。」が、えっ、いま何て言った? わからない、という感じなのだが、それまでの「肉体」そのものが動いているような、ずるずる感(?)、くだくだ感(?)、そのくせ欲望だけがすばやく動くがつがつ感(?)がおもしろくて、「おいおい」というか「へへへ」というか、まあ、女が他人の目を気にせずに何かを食べている感じが、裸を見てしまったような感じでうれしい。ほら、こういうとき、その女が高尚な概念的な抽象的な哲学的な何かを考えているのだとしても、「へっ、それ何のこと?」という気持ちになるでしょ? それと同じ。何か本人にとっては大事なことなんだろうけれど、そんなこと知らない。私は裸を見ているだけ。裸を見ているのに、それにしか関心がないのに、裸を見なかったふりをして、「その哲学的内容をもっと具体的にかみくだいて表現してもらえますか?」なんて質問するばかはいない--と思う。
で、この「行く行かない、結局行くのだ」という「結論」を引き延ばした時間のなかに動いている「裸」--裸と思わず書いてしまうのは、「行く行かない、結局行くのだ」というようなことは他人からは見えない動きだからである。そのひとが「行く」という「結果(結論)」、他人とのかかわりが生まれる部分だけを見せているかぎりは見えない。ふつう、そのひとがスーパーへ「行く」というのは、他人には実際にスーパーで買い物をしているときにしか見えない。それまで、そのひとがどんなふうにしてスーパーへやってきたかはわからないからね。
同じように、何かを買うとき、そのひとが何を考えているかは、はっきりとはわからない。買い物籠に、白菜、人参、椎茸、焼き豆腐、牛肉を入れるのを見たら「今夜はすき焼きか……」くらいは思うけれど。で、そういうほんとうは見えない何かを、和田は、ずるずる、くだくだ、そのくせ妙にはっきりと書きつづけるのである。
何者ですかいつもきてという顔をして店員が眺めるわたしの顔、い
いえかまわないでくださいとわたしは目をそむける。そして陳列棚
に目を移す、はじめは野菜の棚、清浄野菜が並んで煌々と光ってい
るきゅうりなすピーマンもやししょうがゴーヤ白菜美しくて目が眩
む、そしてレタス、は買わない、むかし高知の男がレタスは馬が食
うもんだといったのを思い出すから。わたしが今日えらんだのはホ
ウレンソウ、蓚酸で身体を漂白したい、
うーん、身体を漂白したいというのは、たとえば高知の男のことばを洗い流してしまうこと? できないよ。いま、思い出したばっかりでしょ? 洗い流したいと思うことと思い出すことはいつもくっついているからねえ--と書いて、私は、和田の「裸」を見ているだけでなく、あ、触れてしまったと感じる。
和田がこの詩で書いているのは、「行く行かない、結局行くのだ」ということばガあらわしているように、人間の体には反対のものがいつもくっついている(反対のものを含みながら存在している)ということだと、突然「わかる」。
そうか、「生きる」ということは「矛盾」を抱え込んで、それをひきずりながら、ともかく動くことなんだ--と和田は感じているんだな、と1連目に引き返し「生きている」ということばをつか見直すのである。
で、その「矛盾」というか、「行く行かない」のことばのように必ず正反対というわけでもないけれど、何かがいろいろくっついて「わたし」がいる。高知の男なんて、いまはいないはずなのに、くっついている--というようなことが高知の男ほど明確ではないが、ずるずる動く。「裸」の外見ではなく、裸の肌がすきとおって「内面/内臓」が見える。--見えたものを「内面(こころ?)」と、私がかってに思い込むということだけれど。
こうなってくると、そのとき、私はもう私ではなく「和田」になって買い物をしている。
パンを選ぼう。わたしの好きなのはオリーブ色をしたパンで生地の
なかにジャガイモが入っているもの、粘々した表面が半月のようで
物語めいている。少し甘くてぽってり胃に吸収されていく感触がた
まらないのに売り切れていくことが多いが今日は一つ棚にあること
を見つけわざとゆっくり棚に歩む、だれかの手が伸びて買われてし
まわないかとどきどきしながら、つかまえたパンを壊れないように
そっとかごに入れる。
好みのパンを見つけて買うというだけの「結論」なのだけれど、その「結論」までの「行く行かない」をていねいに言いなおしているので、そのことばにあわせて私の「肉体」が動いてしまう。そして、その動いた「肉体」が私のなかに「和田のこころ」を生み出してしまう。私の「こころ」は和田が感じていること(考えていること)以外を感じることができなくなる。
いけない、あぶない。私が私ではなく、和田になってしまう。傍から女の裸を見ていたつもりだったのに、裸になって、しかも女になってスーパーを歩き回っている。
で、それが和田のことばを読むに従って、「恥ずかしい」ではなく、なんだか快感になる。裸なんて、どんなものも同じ。すぐ見飽きてしまって、ああ、このひとは何を考えているんだろう、このひとの欲望はどこにあるんだろう、というような「内面」に目がゆく。人間の欲望は変なもので、見えないものこそ見たいのである。裸の女を見れば、その裸の女の、裸でいても平気なこころ、が見たくなり、それが見えたと思った瞬間、もう裸は忘れて、その「こころ」を見つづける。そういうことを知っていて、和田は「裸」の奥の「こころ(欲望/本能)」をさらに開いて見せる。
最後は冷蔵品売り場、ゼリープリンのたぐいでわたしが生きていく
必需品、全部買い占めたい欲求を制御するのが難しい、サクランボ
入りゼリーの夕陽色の清らかさマンゴー&パッションフルーツ入り
ゼリーのオレンジ色の混沌さラ・フランス&ペアーゼリーの草色の
爽やかさどれもラッキーストーン・ジュエリーズ、買うわよ買うわ
よわたしを待っていてくれたあなたたち、十個ひっさらうようにし
てかごに入れる。
で、「こころ(本能)」を見つづけると、「こころ」ではない「事実」(詩/ものの本能)が見えてくる。詩は「こころ」なんかにはなくて、あくまで、自分の「外」にある。絶対、自分にはならないもの、「絶対的外部存在」が詩だ。
何かというと。
サクランボ入りゼリーの夕陽色の清らかさ
マンゴー&パッションフルーツ入りゼリーのオレンジ色の混沌さ
ラ・フランス&ペアーゼリーの草色の爽やかさ
あ、そうなのか。そういう色をしているのか。読みながら、書き写しながら、私はスーパーへ行って、その色を確かめたくなる。そういう色を知っている和田がにくらしくなる。嫉妬してしまう。和田ではなく、私が最初にそれを見つけて買い占めてしまいたくなる。そうすれば和田はその色を知らず、この詩も書くこともなく、私が時間を先回りして「盗作」して書いたのを見て、きっと悔しいと思うだろうなあ、というようなことまで私は考えてしまう。
でもね、私には実際はそういうことはできない。
私は二度目に「色」を引用するとき、わざと改行にして色を識別したのだが、和田は「行く行かない」のように「ずるずる」とくっつけて書いている。そこにある「色」は「個別」であるけれど、個別ではない。「行く行かない」のようにくっつき合って、くっつくことでそれぞれの「色」になっている。
くっついたら、そこから混じり合い、濁る--というのが存在のありふれたあり方だと思うけれど、和田の場合は、くっついても濁らない。くっつくことで、色がより鮮明になるのだ。和田の視力は平面を見るのではなく、「立体(固体)」として生きるのだ。
このことは、この詩では少しわかりにくいかもしれないが、人間が「金魚」や「壷」になってしまう詩を思い起こすとそのことがわかる。
「金魚」や「壷」になってしまった人間を描きながら、和田の「金魚」や「壷」はカフカの「変身」のように世界を歪めない。「金魚」「壷」から見ても世界は「正常(?)」である。いや、より「正常」になるという感じ。あ、間違えた。「金魚」「壷」を見ることで、そこに「正常」があると思ってしまう。
この「正常」を、和田は「生きている」と言いなおすかもしれないが。
わたしの好きな日 | |
和田 まさ子 | |
思潮社 |