池井昌樹「秋刀魚」、北川透「いとしいマネキン」(「歴程」583 、2013年12月20日発行)
池井昌樹「秋刀魚」(「秋乃魚」というタイトルになっていたが誤植と判断して書き換えた)は1行あきにも読めるが、あきなしで引用する。
以前秋亜綺羅と話したとき、「池井の作品は現代詩なのか」と聞かれた。「現代詩」の定義がむずかしいが、「現代」書かれているから現代詩なのだろう。そのとき私は「池井の詩は必然なのだ」と答えたように覚えている。秋亜綺羅は偶然を詩と考えるから、まあ、かみあわないね。
「必然」というのは、これがまた、定義がむずかしいのだが。
7行目からが、私は、この詩の美しいところだと思う。ことばの動きが「肉体」になじんでいる。
というのは「……はじめ」が重複している。それがたたみかけるリズムをつくっている。事態が変化しつづけている感じが、このたたみかけのリズムによって加速する。それが「肉体」に直接響いてくる。
で、そのあとの行は、私流に読むと
という具合である。「はじめ」は「始め」であり「初め」に通じる。新しいことが次々に起こる。その「新しさ」は「肉体」に響いてくる。実際に池井は「喉の奥から苦い唾」がこみ上げてくるという「肉体」の変化を書いている。
それを書くときに、池井はまず最初につかっていた「はじめ」を次から省略する。それから「なくなり・はじめ」を省略する。「肉体」はほんとうは「はじめ」を感じているが、変化が速すぎて「はじめ」を繰り返している余裕がない。この「肉体」の余裕のなさ--それをきちんとことばにしている。書くことではなく省略することで克明に書いている。
いや、池井には「はじめ/なりはじめ」がわかりすぎていて書く「必然」を感じないというべきか。「必然」と感じ内までに「必然」が差し迫って、「必然」と一体になっている。
池井の「はじめ/なりはじめ」の省略には「必然」がある。ことばの運動は「必然」として、そうなる。私が書いたように書いてしまったのでは、リズムをかきたてているようで、かきたてていない。単に繰り返してリズムをつくっているだけである。そういうことは「わざと」の部類に属する。そういう「わざと」を内部から突き破って動いていく「必然」。
その「省略」の「必然」のあとに、
という飛躍がある。「ない(否定)」「ない(否定)」とつづいたものが「なる(肯定)」にかわり、同じ「はじめ」で受けたあと、突然「いっしょけんめいはたらいた」にかわる。直前の「のどのおくからにがいつば」には動詞そのものが省略さている。動詞を補う余裕がない。それほど池井には衝撃的なことが起きたのだ。
で、
これは
だよね。でも、やっぱり、そんな具合に「論理的」にことばを動かしている余裕はない。論理的に説明しなければならない「必然」はないが、そういう思いが噴出してくる、噴出しないことにはいられない肉体の「必然」がある。
まず「いっしょけんめいはたらいた」という思いが噴出してくる。それからおくれて「のに」がやってくる。
「理由」というか「説明」はいつでもおくれてやってくる。
このあたりのリズムが、「必然」としか言いようがない。「必然」というのは正直ということでもある。池井のことばは、池井に対して嘘をついていない。
これはなかなかむずかしいことだ。
脳は、自分自身をごまかしたがるからね。
そういう「必然(正直)」のまま、ことばをととのえられずに帰宅すると、そこでは池井に何が起きたか知らない「あなた」が、いつものように「必然」として、食事の用意をしている。その「必然」(日常の繰り返し)に出会い、池井は、自分に起きた「必然」が「日常」にとっては「必然」ではないということを悟る。いままで感じてきたことが、ぱっと洗い流される。
洗い流されて、では、どうなるかのか--というと、うーん、どうにもならないかもしれない。けれど、「肉体」はもう一つの「必然」に何か助けられた感じになる。実際、助けられるのだと思う。
そこには「必然」というよりも、「自然」といえばいいのか、「真実」といえばいいのか、不思議な安心がある。「安心」は「意味」ではなくて、まあ、「存在」のようなものだね。(と、私は適当なことを書く。きちんと書けないから、「感覚の意見」でごまかす。)
--いま、私がむりやり書いてきたようなことを、池井は「リズム」で具体化する。ことばを発するときの「肉体」の変化で表現する。その表現は、うまく言えないが「必然」による。「わざと」では書けないものに池井はいつも触れている。
*
北川透「いとしいマネキン」は、なんだか「作為」に満ちている。言い換えると「わざと」に満ちている。
「マネキン」は「比喩」である--と感じさせる。後半で口をきくからね。人形はしゃべらない。「比喩」は、まあ、わざとである。「必然の比喩がある」と北川はいうかもしれないけれど、私の書いているのは「方便」だから、あまり追及しないでね。
で、「わざと」なんだけれど、そういう「わざと」のなかに「必然」ではなく「偶然」真実が紛れ込んだりする。
誰かに適当なことを言ったりすると「それはわたしじゃない」という返事がかえってきて、「えっ、適当なことを言ったのに、それってほんとうに起きたことなの?」という具合にことが進むことがある。「偶然」真実が露顕する。「偶然」真実を露呈してしまう。このとき、「真実」って、何?
もしかすると露呈という「必然」のことじゃない?
あ、言い方が変だねえ。何が起きたかは問題ではなく、起きたことは必ず(必然として)露呈する--その露呈するという運動(動詞が含むもの)が「必然」である。(これも、変な日本語だけれど。)
池井の詩の最後の部分、「あなた」の反応が池井にもたらすもの--それと、この北川の詩の最後の部分の大逆転(マネキンの反応)が北川にもたらすもの。これは、何か似ているなあ。ベクトルとして正反対のものかもしれないけれど、共通するものがあるなあ、と感じる。
そして、その共通するもののなかに、私は、詩を感じる。詩を生み出す力を感じる。
池井昌樹「秋刀魚」(「秋乃魚」というタイトルになっていたが誤植と判断して書き換えた)は1行あきにも読めるが、あきなしで引用する。
ちかくにおおきなほんやができて
ちいさなほんやはひだりまえ
ぼくのはたらくほんやもやはり
あおいきといきしおたれて
いまかいまかとおののくうちに
しらないだれかがやってきて
なにやらおかねのはなしをはじめ
ひそひそぼくのはなしをはじめ
からだぜんぶがみみになり
つむりたくてもつむれずに
ぼくはみもよもなくなって
のどのおくからにがいつば
いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった
のに
あなでもあったらはいりたく
にげだすようにかえってくれば
さんまのけむりがたちこめて
ぱあとですっかりひやけした
あなたがにっこりたっていて
以前秋亜綺羅と話したとき、「池井の作品は現代詩なのか」と聞かれた。「現代詩」の定義がむずかしいが、「現代」書かれているから現代詩なのだろう。そのとき私は「池井の詩は必然なのだ」と答えたように覚えている。秋亜綺羅は偶然を詩と考えるから、まあ、かみあわないね。
「必然」というのは、これがまた、定義がむずかしいのだが。
7行目からが、私は、この詩の美しいところだと思う。ことばの動きが「肉体」になじんでいる。
なにやらおかねのはなしをはじめ
ひそひそぼくのはなしをはじめ
というのは「……はじめ」が重複している。それがたたみかけるリズムをつくっている。事態が変化しつづけている感じが、このたたみかけのリズムによって加速する。それが「肉体」に直接響いてくる。
で、そのあとの行は、私流に読むと
からだぜんぶがみみになりはじめ
つむりたくてもつむれ(ずに)なくなりはじめ
ぼくはみもよもなくな(って)なくなりはじめ
のどのおくからにがいつばでいっぱいになりはじめ
という具合である。「はじめ」は「始め」であり「初め」に通じる。新しいことが次々に起こる。その「新しさ」は「肉体」に響いてくる。実際に池井は「喉の奥から苦い唾」がこみ上げてくるという「肉体」の変化を書いている。
それを書くときに、池井はまず最初につかっていた「はじめ」を次から省略する。それから「なくなり・はじめ」を省略する。「肉体」はほんとうは「はじめ」を感じているが、変化が速すぎて「はじめ」を繰り返している余裕がない。この「肉体」の余裕のなさ--それをきちんとことばにしている。書くことではなく省略することで克明に書いている。
いや、池井には「はじめ/なりはじめ」がわかりすぎていて書く「必然」を感じないというべきか。「必然」と感じ内までに「必然」が差し迫って、「必然」と一体になっている。
池井の「はじめ/なりはじめ」の省略には「必然」がある。ことばの運動は「必然」として、そうなる。私が書いたように書いてしまったのでは、リズムをかきたてているようで、かきたてていない。単に繰り返してリズムをつくっているだけである。そういうことは「わざと」の部類に属する。そういう「わざと」を内部から突き破って動いていく「必然」。
その「省略」の「必然」のあとに、
のどのおくからにがいつば
いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった
という飛躍がある。「ない(否定)」「ない(否定)」とつづいたものが「なる(肯定)」にかわり、同じ「はじめ」で受けたあと、突然「いっしょけんめいはたらいた」にかわる。直前の「のどのおくからにがいつば」には動詞そのものが省略さている。動詞を補う余裕がない。それほど池井には衝撃的なことが起きたのだ。
で、
いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった
のに
これは
いっしょけんめいはたらいたのに
こんなにこんなにがんばったのに
だよね。でも、やっぱり、そんな具合に「論理的」にことばを動かしている余裕はない。論理的に説明しなければならない「必然」はないが、そういう思いが噴出してくる、噴出しないことにはいられない肉体の「必然」がある。
まず「いっしょけんめいはたらいた」という思いが噴出してくる。それからおくれて「のに」がやってくる。
「理由」というか「説明」はいつでもおくれてやってくる。
このあたりのリズムが、「必然」としか言いようがない。「必然」というのは正直ということでもある。池井のことばは、池井に対して嘘をついていない。
これはなかなかむずかしいことだ。
脳は、自分自身をごまかしたがるからね。
そういう「必然(正直)」のまま、ことばをととのえられずに帰宅すると、そこでは池井に何が起きたか知らない「あなた」が、いつものように「必然」として、食事の用意をしている。その「必然」(日常の繰り返し)に出会い、池井は、自分に起きた「必然」が「日常」にとっては「必然」ではないということを悟る。いままで感じてきたことが、ぱっと洗い流される。
洗い流されて、では、どうなるかのか--というと、うーん、どうにもならないかもしれない。けれど、「肉体」はもう一つの「必然」に何か助けられた感じになる。実際、助けられるのだと思う。
そこには「必然」というよりも、「自然」といえばいいのか、「真実」といえばいいのか、不思議な安心がある。「安心」は「意味」ではなくて、まあ、「存在」のようなものだね。(と、私は適当なことを書く。きちんと書けないから、「感覚の意見」でごまかす。)
--いま、私がむりやり書いてきたようなことを、池井は「リズム」で具体化する。ことばを発するときの「肉体」の変化で表現する。その表現は、うまく言えないが「必然」による。「わざと」では書けないものに池井はいつも触れている。
*
北川透「いとしいマネキン」は、なんだか「作為」に満ちている。言い換えると「わざと」に満ちている。
朝 隣に寝ているマネキンの顔を眺める
一筋の皺やかすかなシミ 化粧かぶれの跡もない
わたしのいとしいマネキンはすべすべしている
抱きかかえてうたってあげる
(誰が因幡の海のおそろしい人食いザメを殺したの
(誰がマウントハーゲンの酋長のマクラガイを奪ったの
寝ぼけたマネキンは小さな声で呟く
(わたしじゃないわ わたしじゃないって
白いマネキンの顔に
うっすらと恥じらいの赤みがさす
「マネキン」は「比喩」である--と感じさせる。後半で口をきくからね。人形はしゃべらない。「比喩」は、まあ、わざとである。「必然の比喩がある」と北川はいうかもしれないけれど、私の書いているのは「方便」だから、あまり追及しないでね。
で、「わざと」なんだけれど、そういう「わざと」のなかに「必然」ではなく「偶然」真実が紛れ込んだりする。
誰かに適当なことを言ったりすると「それはわたしじゃない」という返事がかえってきて、「えっ、適当なことを言ったのに、それってほんとうに起きたことなの?」という具合にことが進むことがある。「偶然」真実が露顕する。「偶然」真実を露呈してしまう。このとき、「真実」って、何?
もしかすると露呈という「必然」のことじゃない?
あ、言い方が変だねえ。何が起きたかは問題ではなく、起きたことは必ず(必然として)露呈する--その露呈するという運動(動詞が含むもの)が「必然」である。(これも、変な日本語だけれど。)
池井の詩の最後の部分、「あなた」の反応が池井にもたらすもの--それと、この北川の詩の最後の部分の大逆転(マネキンの反応)が北川にもたらすもの。これは、何か似ているなあ。ベクトルとして正反対のものかもしれないけれど、共通するものがあるなあ、と感じる。
そして、その共通するもののなかに、私は、詩を感じる。詩を生み出す力を感じる。
手から、手へ | |
池井 昌樹 | |
集英社 |