詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「秋刀魚」、北川透「いとしいマネキン」

2013-12-30 09:59:05 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「秋刀魚」、北川透「いとしいマネキン」(「歴程」583 、2013年12月20日発行)

 池井昌樹「秋刀魚」(「秋乃魚」というタイトルになっていたが誤植と判断して書き換えた)は1行あきにも読めるが、あきなしで引用する。

ちかくにおおきなほんやができて
ちいさなほんやはひだりまえ
ぼくのはたらくほんやもやはり
あおいきといきしおたれて
いまかいまかとおののくうちに
しらないだれかがやってきて
なにやらおかねのはなしをはじめ
ひそひそぼくのはなしをはじめ
からだぜんぶがみみになり
つむりたくてもつむれずに
ぼくはみもよもなくなって
のどのおくからにがいつば
いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった
のに
あなでもあったらはいりたく
にげだすようにかえってくれば
さんまのけむりがたちこめて
ぱあとですっかりひやけした
あなたがにっこりたっていて

 以前秋亜綺羅と話したとき、「池井の作品は現代詩なのか」と聞かれた。「現代詩」の定義がむずかしいが、「現代」書かれているから現代詩なのだろう。そのとき私は「池井の詩は必然なのだ」と答えたように覚えている。秋亜綺羅は偶然を詩と考えるから、まあ、かみあわないね。
 「必然」というのは、これがまた、定義がむずかしいのだが。
 7行目からが、私は、この詩の美しいところだと思う。ことばの動きが「肉体」になじんでいる。

なにやらおかねのはなしをはじめ
ひそひそぼくのはなしをはじめ

 というのは「……はじめ」が重複している。それがたたみかけるリズムをつくっている。事態が変化しつづけている感じが、このたたみかけのリズムによって加速する。それが「肉体」に直接響いてくる。
 で、そのあとの行は、私流に読むと

からだぜんぶがみみになりはじめ
つむりたくてもつむれ(ずに)なくなりはじめ
ぼくはみもよもなくな(って)なくなりはじめ
のどのおくからにがいつばでいっぱいになりはじめ

 という具合である。「はじめ」は「始め」であり「初め」に通じる。新しいことが次々に起こる。その「新しさ」は「肉体」に響いてくる。実際に池井は「喉の奥から苦い唾」がこみ上げてくるという「肉体」の変化を書いている。
 それを書くときに、池井はまず最初につかっていた「はじめ」を次から省略する。それから「なくなり・はじめ」を省略する。「肉体」はほんとうは「はじめ」を感じているが、変化が速すぎて「はじめ」を繰り返している余裕がない。この「肉体」の余裕のなさ--それをきちんとことばにしている。書くことではなく省略することで克明に書いている。
 いや、池井には「はじめ/なりはじめ」がわかりすぎていて書く「必然」を感じないというべきか。「必然」と感じ内までに「必然」が差し迫って、「必然」と一体になっている。
 池井の「はじめ/なりはじめ」の省略には「必然」がある。ことばの運動は「必然」として、そうなる。私が書いたように書いてしまったのでは、リズムをかきたてているようで、かきたてていない。単に繰り返してリズムをつくっているだけである。そういうことは「わざと」の部類に属する。そういう「わざと」を内部から突き破って動いていく「必然」。
 その「省略」の「必然」のあとに、

のどのおくからにがいつば
いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった

 という飛躍がある。「ない(否定)」「ない(否定)」とつづいたものが「なる(肯定)」にかわり、同じ「はじめ」で受けたあと、突然「いっしょけんめいはたらいた」にかわる。直前の「のどのおくからにがいつば」には動詞そのものが省略さている。動詞を補う余裕がない。それほど池井には衝撃的なことが起きたのだ。
 で、

いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった
のに

 これは

いっしょけんめいはたらいたのに
こんなにこんなにがんばったのに

 だよね。でも、やっぱり、そんな具合に「論理的」にことばを動かしている余裕はない。論理的に説明しなければならない「必然」はないが、そういう思いが噴出してくる、噴出しないことにはいられない肉体の「必然」がある。
 まず「いっしょけんめいはたらいた」という思いが噴出してくる。それからおくれて「のに」がやってくる。
 「理由」というか「説明」はいつでもおくれてやってくる。
 このあたりのリズムが、「必然」としか言いようがない。「必然」というのは正直ということでもある。池井のことばは、池井に対して嘘をついていない。
 これはなかなかむずかしいことだ。
 脳は、自分自身をごまかしたがるからね。
 そういう「必然(正直)」のまま、ことばをととのえられずに帰宅すると、そこでは池井に何が起きたか知らない「あなた」が、いつものように「必然」として、食事の用意をしている。その「必然」(日常の繰り返し)に出会い、池井は、自分に起きた「必然」が「日常」にとっては「必然」ではないということを悟る。いままで感じてきたことが、ぱっと洗い流される。
 洗い流されて、では、どうなるかのか--というと、うーん、どうにもならないかもしれない。けれど、「肉体」はもう一つの「必然」に何か助けられた感じになる。実際、助けられるのだと思う。
 そこには「必然」というよりも、「自然」といえばいいのか、「真実」といえばいいのか、不思議な安心がある。「安心」は「意味」ではなくて、まあ、「存在」のようなものだね。(と、私は適当なことを書く。きちんと書けないから、「感覚の意見」でごまかす。)
 --いま、私がむりやり書いてきたようなことを、池井は「リズム」で具体化する。ことばを発するときの「肉体」の変化で表現する。その表現は、うまく言えないが「必然」による。「わざと」では書けないものに池井はいつも触れている。



 北川透「いとしいマネキン」は、なんだか「作為」に満ちている。言い換えると「わざと」に満ちている。

朝 隣に寝ているマネキンの顔を眺める
一筋の皺やかすかなシミ 化粧かぶれの跡もない
わたしのいとしいマネキンはすべすべしている
抱きかかえてうたってあげる
(誰が因幡の海のおそろしい人食いザメを殺したの
(誰がマウントハーゲンの酋長のマクラガイを奪ったの
寝ぼけたマネキンは小さな声で呟く
(わたしじゃないわ わたしじゃないって
白いマネキンの顔に
うっすらと恥じらいの赤みがさす

 「マネキン」は「比喩」である--と感じさせる。後半で口をきくからね。人形はしゃべらない。「比喩」は、まあ、わざとである。「必然の比喩がある」と北川はいうかもしれないけれど、私の書いているのは「方便」だから、あまり追及しないでね。
 で、「わざと」なんだけれど、そういう「わざと」のなかに「必然」ではなく「偶然」真実が紛れ込んだりする。
 誰かに適当なことを言ったりすると「それはわたしじゃない」という返事がかえってきて、「えっ、適当なことを言ったのに、それってほんとうに起きたことなの?」という具合にことが進むことがある。「偶然」真実が露顕する。「偶然」真実を露呈してしまう。このとき、「真実」って、何?
 もしかすると露呈という「必然」のことじゃない?
 あ、言い方が変だねえ。何が起きたかは問題ではなく、起きたことは必ず(必然として)露呈する--その露呈するという運動(動詞が含むもの)が「必然」である。(これも、変な日本語だけれど。)

 池井の詩の最後の部分、「あなた」の反応が池井にもたらすもの--それと、この北川の詩の最後の部分の大逆転(マネキンの反応)が北川にもたらすもの。これは、何か似ているなあ。ベクトルとして正反対のものかもしれないけれど、共通するものがあるなあ、と感じる。
 そして、その共通するもののなかに、私は、詩を感じる。詩を生み出す力を感じる。


手から、手へ
池井 昌樹
集英社
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千人のオフィーリア(141- )

2013-12-30 08:47:17 | 連詩「千人のオフィーリア」
千人のオフィーリア(141-151)

                                        141 橋本正秀
鏡に映ったおぼろな顔を
怪訝な顔で見ていると
鏡の中の顔は
くっきりとその貌を顕わにする
きりりとした眼で
また
鏡を覗くと
呆けた顔が
婉然と見つめている
オフィーリアは
日がな
鏡の中の自分と
自分を凝視した
そして
眼を瞑ることを
許されない自分を
また
眺めた

                                         142 西川 仁
月冴ゆるつぶらに生れし裏木戸に血潮のやふな椿の花瓣

                                        143 市堀玉宗
寒椿おもかげ冥くたもとほる

                                         144 山下晴代
寒椿駅裏逢冬至
抱膝墓前女伴身
星流城中父霊去
還応伝言夢見人

                                         145 二宮 敦
寒椿瞑きままにて詩製さる

                                         146 金子忠政
どんな水であれ
一雨くればガスのようなものも油も記憶も洗い流される
森の町の真昼
過去はあっさり朽ち果て
あっさりとまた製造されていく
情交のドタンバタンのように
熱線によって頭蓋内でビルが倒壊し
ベンチに屈んだその前方
道ばたにくすむ寒椿の
赤い筋肉の股間が硬く閉じて答えない
何度情交を重ねても
憤死には到りきれず
引きずる時もなく座ったまま
闇雲な風とガスのようなものにあてられて
冬枯れる日が時化ていた
これは何年前のことだろうか?

                                        147 市堀玉宗
銀河系に置いてきぼりや着ぶくれて

                                         148 二宮 敦
冬の星あるやなしやひろふもの

                                         149 橋本正秀
視神経と聴神経の
はざまを満たす
女の記憶
その確かさと
その不確かさを
足して割るべき数を前にして
ためらっている

の神経を
逆なでにする
幼女の拗ねた眼の奥に
冬枯れた日常が
笑ってる
置き去りにされた
銀河の中の
きらわれ者
いつの頃からか
ポツンと
そこに
立っていた

                                        150 市堀玉宗
てのひらのうすくれなゐや雪もよひ

                                         151 金子忠政
 寒々と放り投げられた待合室で
 鱗をはがされるように逆撫でられ持続する
 夢の跳梁
 ああ!熱帯の雪
 手に手が添えられないまま
 オフィーリア、先触れだけがやってくる
 骨は生身に回帰するが
 制度は肋のように生身であるから
 ゆっくりとした瞬きごとに 
 とつとつと憤怒を湛え
 手応えのない断念へ
 つぶてを華やかにせよ!

                                          152 二宮 敦
言葉のために心を磨こう
大人になるにつれ
見栄や欲に囚われ
言葉の根っこが痩せてくる
根っこの痩せた言葉ほど
痛々しいものはない
金のため愛を捨てた音楽家
に等しい

人知れず心を育てよう
褒められ認められるための
思いやりは存在しない
時に嫌われ疎まれてしまう
サジェスション
分かってもらえない切なさ
分かり分かち合えない愛
ああオフィーリアよ

                                         153 橋本正秀
アフリカの白子
異形の神の子
神の子ゆえの
異形の出で立ち
ちらつく雪の中
体を震わせて

黒褐色の民の群れを
ピンクの眼を血に染めて
その動きの息遣いさえ
見失わない気を
充満させて
凝視している
プラチナブロンドに
発光する髪の毛は
逆巻き
乳白色の皮膚には
怒りと断念の
血脈が息を
弾ませ
まぶしい光の
乱舞の中の
黒い肌の
おぼろな影の
白い眼と歯から
白く輝く身体を
誇示する意欲は
もはや
失せていた

アルビノ
アルビーノ
アルビノに
アルビノの
ホワイトコブーラが
半身を起こし
その鎌首の
襟を膨らませて
御子の背後から
黒い影となって
身を寄せていく

雪は激しさを増し
白子となって
暑い大地の熱を奪っていく

                                         154 山下晴代
アフリカの白子、それは、タガステ生まれの聖アウグスティヌス。
若い頃はサルサのリズムに酔い、情熱の恋もしました。
その女と子どもももうけました。
しかし私はすべてを捨てて神の国へ参りました。
サールサ、サルサ。今でも私は踊ります。
雪のなかで。熱い心は変わらず。
さまざまな画家が私の肖像を描いています。
サールサ、サルサ。ここもローマ帝国。

                                         155 谷内修三
踊れ、私のハイヒール
踊れ、きみの素足
踊れ、私の子宮
踊れ、きみの腰骨

踊れ、私の夜
踊れ、きみの昼
踊れ、サルサ
踊れ、私の野生

156 橋本正秀
君よ 歌え
私の日記の
昨日と今日と
そして明日を
毛を逆立て
渾身の力をもって
タクトを振れ

君よ 謳え
私の伊吹を
何もかも
蹴散らし
吹き飛ばす
伊吹颪の
怨念の噴出を待て

君よ謡え
私の可愛いスターダストが
根こそぎ
降り注ぐ
火矢の
燃え盛るまま
坩堝の饗宴を寿げ(ことほげ)

私は うたう
「なぜ」
「どうして」
「何を」
「だれと」
全ての問いに
拒絶しながら
低く さらに より低く
地の魂の
気の向くままに
君の
絶命の
今際(いまわ)に

157 市堀玉宗
混沌に眼鼻ことばの寒かりき

158 橋本正秀
目鼻ふたぎて
一途末期のカオスを打たむ

159 市堀玉宗
冬が来るというから
夢から目覚めたやうに
しづかな海を見てゐた
生きねばならないもののやうに
混沌の風に吹かれて
人生のすべてが
いつの間にあんなに遠い海原
あれは取り返しがつかない
生きてしまった私の沖
なにもかもがまぼろし
なにもかもがほんと
海は
生きることの虚しさのやうに美しい

160 山下晴代
重力や非想非非想冬の海



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西脇順三郎の一行(43)

2013-12-30 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(43)

 「失われた時」(この詩も長い。現代詩文庫は「Ⅳ」を収録している。今回も1ページから1行を選んで書いていく」

 「失われた時 Ⅳ」

三角形の一辺は他の二辺より大きく                 (55ページ)

 これは西脇が発見した「こと」ではない。誰もが知っていることでである。その1行がなぜおもしろいのか。これを説明するには前のことばを引用するしかない。
 直前は「牛にはみなよい記憶力がある/四重の未来がもう過去になった」。「四重の未来」というのは牛が四つの胃袋で咀嚼することと関係があるかもしれない。四回に分けて咀嚼するから、食べたものをよく覚えているということか。四回に分けて咀嚼するから、その4つの胃袋のは過去と未来を抱え込むということか。あとひとつ現在をくわえてもなおひとつあまるのだが……。
 このあたりの「ごちゃごちゃした算数」から、三角形の「三」、それから「一辺」の「一」は出てきているのかもしれない。そういうことを考えるとおもしろいけれど、考えてしまってはことばが停滞する。リズムがこわれる。それでなくても「牛にはみなよい記憶力がある/四重の未来がもう過去になった」自体が重い。
 ここからいっそう重くなる詩というものもあるが、西脇は、こういうとき重さを「脱臼」させる。軽くする。それが「三角形の一辺は……」である。考えなくても、わかる。そういうことばで、止まりかけたことばを動かす。
 西脇は「意味」ではなく、ことばの軽快な運動そのものを詩と感じているのだ。

西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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