詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

蜂飼耳「びょう、びょう」

2013-12-25 12:30:31 | 詩(雑誌・同人誌)
蜂飼耳「びょう、びょう」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 蜂飼耳「びょう、びょう」(初出「星座」10月号)にはわからないところがある。わからないのだけれど、想像力はかってに動いて、かってに「誤読」する。
 以下は私の「誤読」。「誤読」するとき、何を手がかり(?)に誤読するかというと……。

どこまでも、と思ったわけではないけれど
行き止まりがあって進むか迂回、
進むか迂回か、視覚の近くに
生えている根のあるものたち
それは行き止まりに

 どこかを歩いていて行き止が見えてくる。路地を歩いているんだろうなあ。で、そのあと、

行き止まりがあって進むか迂回、
進むか迂回か、

 この「進むか迂回、」で私の「誤読」は始まる。なぜ、「進むか迂回するか」というふたつの動詞の選択ではなく、「進む(動詞)」「迂回(名詞)」の選択なのか。これは、「迂回」が「進む」のための飾りだからだ。「進む」という意思しか働いていない。目はどんどん「行き止まり」へ向かって進んでゆき、「生えている根のあるものたち」(草だろうね)に吸い寄せられていく。
 このとき「迂回」は「進む」と同義語になる。「迂回する」という動詞の本来の意味は最初から退けられている。進んで、行き止まりにたどりつき、そこに生えている草のところまで行くということが、蜂飼にとっての「迂回」なのである。回り道なのである。ほんとうは蜂飼は、その「回り道」をこそ、したいのだ。
 「進む」の反対は「退く(後退する)」が一般的だけれど、「退く(後退する)」は最初から選択肢に入っていない。行き止まりがあるとわかって、そこから引き返すことなど蜂飼は最初から考えていない。
 なぜか。

在って、あるようにあり、会って、
びょうびょうと鳴くのは正しさです
正しさにはたいてい、しっぽがあって、
踏まれれば鳴く、わめく、噛みついて、
ぼうっと気が

 行き止まり、その草が在るところに、びょうびょうと鳴くものがあって、その鳴くものに蜂飼は会う。つまり、猫(子猫?)を見つける。その声に導かれて蜂飼は行き止まりまで進んできたということだ。猫だから、しっぽもある。
 こういう「誤読」は、ある種の「種明かし」のような感じだね。
 で、私は「びょう、びょう」が「猫」であると「誤読」した段階で、ちょっと読む気がなくなる。私は猫が嫌いなのだ。猫がこわくて近づかない。--これからあとの部分は関心がない。
 それなのにこの作品を取り上げたのは、さっき書いた「動詞」と「名詞」のつかいわけが、とてもおもしろいと思ったから。

 私はどんなことばも「動詞」を基本に見ていけば、そのことばを動かしている人に会えると考えている。「動詞」というのは基本的に人間が「する」こと。動詞には「人間の肉体」が含まれている。その書かれている「肉体」をまねると、私の「肉体」も動く。自分の「肉体」をとおして、そこに起きていることがわかる。
 今度の場合、「進むか迂回、」「進むか迂回か、」と繰り返されることばのなかに「動詞」と「名詞」がある。「迂回」の方は「動詞派生の名詞」なので、そこに「動詞」は含まれるのだけれど、蜂飼は二度とも名詞形のままつかっている。それは、蜂飼が「迂回(する)」を本来の意味するところ(流通言語の意味するところ)とは違うものとしてつかおうとしていることをあらわしている。--というようなことを感じる。
 「迂回」は「動かない」。立ちどまる。「肉体」は立ちどまって、頭のなかだけで「迂回する」。「肉体」を動かさずに、立ちどまると、その「迂回」のなかに、「びょう、びょう」が猫としてあらわれてくる。そして、その猫が蜂飼をのっとる。
 このあと、蜂飼は動かない。「進む」を放棄する。そこに立ちどまり、猫が「行き止まり」に捨てられているということについて考えはじめる。--これはある意味では、ここにほんとうの「迂回」がある、ということになるのだが。つまり、蜂飼は猫が捨てられて生きているということにことばを「迂回」させるために、彼女自身の「肉体」を行き止まりまで「進ませた」、彼女は「行き止まり」まで進んだということになる。
 で、行き止まりで立ちどまって考える、というのは私の考えでは「人間」をやめること。自分をやめること。そして別の何かに「なる」こと。蜂飼は、このあと「猫」になる。次のように。

遠くなる
議論などやめて場を移し、
口をすすぎたくなるのです
見本など、ない時代
死者の集まる場ばかり気にしながら、
あちこちの、踏まれたくないしっぽたち、
備わる動きのせいで塵を、掃いている
在って、
あるようにそれはあり会って、時代の

諦めを受けいれる
踏まれれば鳴きだすしっぽ私も
生やしていて、気がつけば
それは塵、塵、塵を掃いている
ひろい道、細道、掃いてみて、
びょうびょう鳴けば
新たな闇に、また選択もなく、
生まれるのです

 2連目の最終行「ぼうっと気が」から1行あいて3連目「遠くなる」とつづく。3連目の最終行「時代の」から1行あいて4連目「眺めを受けいれる」とつづく。その断絶と接続の仕方や、頻繁につかわれている読点「、」から、蜂飼の呼吸と肉体へ近づく「誤読」方法もあると思うけれど、先に書いたように私は猫が嫌いなので(猫になりたいとは思わないので)、それは省略。

蜂飼耳詩集 (現代詩文庫)
蜂飼 耳
思潮社
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西脇順三郎の一行(38)

2013-12-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(38)

 「第三の神話」

あの小間物やさんと話をしている                  (50ページ)

 この一行は、ふつうは「あの小間物屋さんと話をしている」と書くと思う。「小間物屋」でひとつのことばである。ところが西脇は「屋」を「や」と書くことでひとつのことばをふたつに脱臼させている。
 これを読むと、まず「小間物」が目の前に浮かぶ。そして、そのあとに男(たぶん)があらわれる。この「時差」のようなもの、そこに「時差」があるということのなかに西脇の詩がある。
 それはたとえば、「落葉」ということばがあるが、それは単に落ちてくる葉、あるいは落ちた葉と理解してしまうのを、もう一度ことばの成り立ちとして見直す仕事に似ている。
 --あ、ややこしいことを書いてしまったが……。
 「落ち葉」の場合、ひとはまず「落ちる(落ちた)」という「動詞」を見る。それからそのあとに「落ちる(落ちた)」ものが葉っぱであると理解するというのに似ている。「落ち葉」は「落ちる(落ちた)」+葉--そのことばは認識の順序に従って動いているのである。
 「小間物屋」も「小間物+屋」という動きを再現しているが、漢字で書いてしまうとどうしても「ひとつ」につながって見えてしまう。「小間物+や」にすると、それは違って見える。「小間物」+「(売る)おとこ」という具合に「動詞」が割り込んできて、ことばが認識通りに動いているなあということがわかる。
 こんなことはわからなくてもいいことなのかもしれないが、そういうわからなくてもいいことをわかってしまうのが詩なのである。
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