大崎清夏「夜が静かで困ってしまう」(「現代詩手帖」2013年12月号)
大崎清夏「夜が静かで困ってしまう」(初出『指差すことができない』09月)。ことばは不思議なもので、書いているとだんだん違ったものになってきてしまう。きのう読んだ天沢退二郎の場合は、「音」が不思議な具合に響きあって、ことばの動きを加速させていた。大崎の詩も、ある種類の「音楽」がことばを支配しているのだが、その「音楽」はどちらかというと「散文」に属する音楽のように私には思える。
とりとももなく思い浮かんだことを書いてあるだけのようにみえるかもしれないけれど、いや、とりとめもなく書いているだけなのだろうけれど、その「とりとめのなさ」をある種類の「音楽」が動かしている。
ここには「散文の脚韻」がある。2行目から、「してしまう」「咲いていることを思ってしまう」「咲いていることを思ってしまう」と「しまう」が3回つづく。この「音」に支えられて、その先に書かれた主題(主語?)が支えられている。主語がかわっても最後の「動詞」の音が、その、すりかわったものを統合してしまう。
6行目から9行目では「きらめかせているか」「落ちたりしていないか」「寝しずまっているか」「だいじょうぶか」と「か」という疑問をあらわすことばが「脚韻」をつくっている。この「脚韻」は、もちろん英語の詩の場合の脚韻とは無関係で、日本語の「散文の脚韻」である。
この詩が、もし「散文」の形式で書かれたら、たとえば学校では「同じ語尾がつづいて、何の工夫も見られない」という具合に否定的に何かを言われしてしまうかもしれない。学校というのは「型」にはまったことしか言わないし、「型」にはめることが仕事なのだから、それはそれでもいいのかもしれないが。
でも、詩だと、その「散文の脚韻」がなんとなく落ち着く。思考のリズムになる。
「思考のリズム」と私は書いてしまったが、これは、最初の「思ってしまう」、それから次の「……か」(疑問)が、ともに「思う/考える」ということと関係しているからかもしれない。脈絡のない(?)あれこれ、(まあ、大崎には脈絡があるのだろうけれど、それは私には見えない、論理的に把握できない)、それをただばらばらに散らかすと、ほんとうにとりとめもなくなるのだけれど、それを「散文の脚韻」で最後に重しをつけると、ばらばらのものがばらばらでなくなる。
この「散文の脚韻」は、詩が進むに連れて、ちょっと複雑になる。
「いいのだけれど」がかならずしも「文末」にはなくて、行の途中にも出てきて、さらに途中に「突き破り」という別の動詞も「脚韻」の場所に登場もするけれど、--基本的に「いいのだけれど」を「脚韻」にして、ことばが動く。
そして、このときの一種の「乱れ」(「突き破り」の乱入)のようなものが、詩を華やかにする。豪華にする。自由にする。乱調が、美しい。その美しさのなかで「主語」が乱舞するふりをして、最初の部分に出てきた「変態」が再び登場し、乱舞に「枠」を与えるところが、なんともいえず不思議だ。乱舞なのに乱れていない。
で、
「いれてみる」「感じがして」のなかには、「て」の脚韻のシンコペーション(?)があって、そのあと「感じがして」「感じがする」「気がする」と「散文の脚韻」がしずかになっていく。「感じ」と「気」は「思う/考える」と同じように、どう違うかわからないくらいの微妙さですれちがう。
そして最後。
「散文の脚韻」を「いないし」「いない」「いるし」、「眠って」「気になって」「舞いあがって」と「文中」に隠すような感じで抑制しながら、最初の「しまう」に戻る。まるで楽曲の最後が「ド」か「ラ」で終わるような感じ。
そして、その音楽に「寂しさ」という「和音」を重ねる。
わあ、いいなあ。
「寂しさ」とはこういうことなのか。--「寂しさ」を定義する(?)ことも忘れて、その「寂しさ」を突然感じてしまう。いままで読んできたことばのすべてが、突然結晶して(変態さえも水晶のように結晶して)、透明になる。
「散文の脚韻」などという「うるさいことば」で何かを書いてきたことも忘れてしまう。「寂しさ」が突然、私の「肉体」の奥からあふれてくる。私は大崎ではないのに。あ、私の肉体は大崎になってしまったのだと感じる。
大崎には迷惑かもしれないけれど、こういう瞬間、私は、いいなあ、と思うのである。
大崎清夏「夜が静かで困ってしまう」(初出『指差すことができない』09月)。ことばは不思議なもので、書いているとだんだん違ったものになってきてしまう。きのう読んだ天沢退二郎の場合は、「音」が不思議な具合に響きあって、ことばの動きを加速させていた。大崎の詩も、ある種類の「音楽」がことばを支配しているのだが、その「音楽」はどちらかというと「散文」に属する音楽のように私には思える。
夜がこんなに静かで
ずいぶん苦労してしまう
闇のなかで桜が咲いていることを思ってしまう
亡霊みたいにコブシが咲いていることも思ってしまう
昼間歩いた道に変態がいないか気になるし
七里ヶ浜はいつも通りのネックレスをきらめかせているか
人の頭くらいある隕石がだれにもしられずに太平洋に落ちたりしていないか
おととし泊まった山小屋の夫婦はちゃんと寝しずまっているか
春の浜辺で鳶にチョコチップクッキーをかっさらわれたこどのの夢がだいじょうぶか
とりとももなく思い浮かんだことを書いてあるだけのようにみえるかもしれないけれど、いや、とりとめもなく書いているだけなのだろうけれど、その「とりとめのなさ」をある種類の「音楽」が動かしている。
ここには「散文の脚韻」がある。2行目から、「してしまう」「咲いていることを思ってしまう」「咲いていることを思ってしまう」と「しまう」が3回つづく。この「音」に支えられて、その先に書かれた主題(主語?)が支えられている。主語がかわっても最後の「動詞」の音が、その、すりかわったものを統合してしまう。
6行目から9行目では「きらめかせているか」「落ちたりしていないか」「寝しずまっているか」「だいじょうぶか」と「か」という疑問をあらわすことばが「脚韻」をつくっている。この「脚韻」は、もちろん英語の詩の場合の脚韻とは無関係で、日本語の「散文の脚韻」である。
この詩が、もし「散文」の形式で書かれたら、たとえば学校では「同じ語尾がつづいて、何の工夫も見られない」という具合に否定的に何かを言われしてしまうかもしれない。学校というのは「型」にはまったことしか言わないし、「型」にはめることが仕事なのだから、それはそれでもいいのかもしれないが。
でも、詩だと、その「散文の脚韻」がなんとなく落ち着く。思考のリズムになる。
「思考のリズム」と私は書いてしまったが、これは、最初の「思ってしまう」、それから次の「……か」(疑問)が、ともに「思う/考える」ということと関係しているからかもしれない。脈絡のない(?)あれこれ、(まあ、大崎には脈絡があるのだろうけれど、それは私には見えない、論理的に把握できない)、それをただばらばらに散らかすと、ほんとうにとりとめもなくなるのだけれど、それを「散文の脚韻」で最後に重しをつけると、ばらばらのものがばらばらでなくなる。
この「散文の脚韻」は、詩が進むに連れて、ちょっと複雑になる。
こういう夜には
いまでもどこかのとても若い四人の男女が真夜中の公園のベンチにすわってふた組みのイヤホンを分け合い何かいい音楽を聴いているといいのだけれどそんなことをもう誰もしないような世の中になっていないといいのだけれど
誰かの酩酊の度が過ぎてお店のガラス戸を突き破り
腕から血がでて女の子を青ざめさせるようなことになっていないといいのだけれど
変態の人もお腹だけはすかせてないといいし変態行為に及ばずに家に帰っていてくれるといいのだけれど
「いいのだけれど」がかならずしも「文末」にはなくて、行の途中にも出てきて、さらに途中に「突き破り」という別の動詞も「脚韻」の場所に登場もするけれど、--基本的に「いいのだけれど」を「脚韻」にして、ことばが動く。
そして、このときの一種の「乱れ」(「突き破り」の乱入)のようなものが、詩を華やかにする。豪華にする。自由にする。乱調が、美しい。その美しさのなかで「主語」が乱舞するふりをして、最初の部分に出てきた「変態」が再び登場し、乱舞に「枠」を与えるところが、なんともいえず不思議だ。乱舞なのに乱れていない。
で、
すこし開けた窓からは湿り気を帯びた南風
体温みたいな気温のなかに腕を伸ばしいれてみる
誰かの肌にさわっているような感じがして
しちゃいけいないようなことをしているような感じがする
なにかたいへんなことを忘れているような気がする
「いれてみる」「感じがして」のなかには、「て」の脚韻のシンコペーション(?)があって、そのあと「感じがして」「感じがする」「気がする」と「散文の脚韻」がしずかになっていく。「感じ」と「気」は「思う/考える」と同じように、どう違うかわからないくらいの微妙さですれちがう。
そして最後。
なんだろう
なんなのか
わからない
虫もカエルも鳴いていないし発情期の猫の声もきこえてこない
こんな夜には
いつのまにか隣できちんと眠っている人がいるし
自分だけが全部みているような気になって
寂しさに舞いあがってしまう
「散文の脚韻」を「いないし」「いない」「いるし」、「眠って」「気になって」「舞いあがって」と「文中」に隠すような感じで抑制しながら、最初の「しまう」に戻る。まるで楽曲の最後が「ド」か「ラ」で終わるような感じ。
そして、その音楽に「寂しさ」という「和音」を重ねる。
わあ、いいなあ。
「寂しさ」とはこういうことなのか。--「寂しさ」を定義する(?)ことも忘れて、その「寂しさ」を突然感じてしまう。いままで読んできたことばのすべてが、突然結晶して(変態さえも水晶のように結晶して)、透明になる。
「散文の脚韻」などという「うるさいことば」で何かを書いてきたことも忘れてしまう。「寂しさ」が突然、私の「肉体」の奥からあふれてくる。私は大崎ではないのに。あ、私の肉体は大崎になってしまったのだと感じる。
大崎には迷惑かもしれないけれど、こういう瞬間、私は、いいなあ、と思うのである。
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