監督 ポール・グリーングラス 出演 トム・ハンクス、キャサリン・キーナー、バーカッド・アブディ、バーカッド・アブディラマン
私はトム・ハンクスのファンではない。「ビッグ」のトム・ハンクスは大好きだが、その後はあまり好きではない。最近の映画は嫌いと言った方がいい。だから、この映画もぜひとも見たいというものではなかった。監督がポール・グリーングラスなので見にいった。ポール・グリーングラスの「ユナイテッド93」は3・11を描いている。ペンタゴン近くに墜落させられた飛行機。結末はわかっているのに、最後まで、もしかしたら助かるんじゃないか、映画なんだから、きっと助かる、助かってほしいとはらはらどきどきした。今回の映画も結末はわかっている。トム・ハンクスは救出される。死なない。これを、はらはらどきどきさせるには役者の演技力が不可欠--ということでトム・ハンクスが主演をやっているのだろうけれど。
最後の最後まで、私は、トム・ハンクスでなくてもいいのになあ。トム・ハンクスのように有名な俳優じゃない方が殺されるかもしれないなあ、アメリカ海軍もそんなに真剣じゃないかも……なんて思いながら見ていた。
役者の演技というよりも、演出がうまい。救出する側の動き、海軍、シールズの動きが、ときどきほんの一瞬だけ差し挟まれる。その動きは実にたんたんとしている。戦闘(救出作戦)というよりも事務仕事。個人が何かをするというよりも、組織が組織として動いていく。組織全体がうまく動けば事件は解決する--ということを組織が知っている。そこでは誰一人として「個人」ではない。
救出する側が「個人」ではないだけに、トム・ハンクス側の「個人性」が浮き彫りになる。それは単にトム・ハンクスが「ひとり」という意味ではない。トム・ハンクスが人質になる前からが、すでに「個人」なのだ。海賊に襲撃された貨物船は「個人」の集まりなのだ。船員は船長の命令により、機関室に隠れるのだが、ただ隠れるだけではなく、船長の指示を無視して海賊に襲いかかる。「個人」で何かしようと試みるのである。その結果が全体にどう影響するかという長期にわたる展望がないまま動く。やりながら次を考えてしまうのが個人なのである。「いま」の状況にしばられて「いま」だけを生きるのが個人なのである。トム・ハンクスが人質になった後、逃走する海賊を貨物船で追跡する。これもトム・ハンクスの思い(指示)とは違う。貨物船のなかには個人の集団というものがあっても、組織がない。もちろん副船長、機関士……という職能別の分類はあるが、「戦闘」のためのものではないから、うまく機能しない。個人として動いてしまうのだ。
これに対して海軍の方はすごいなあ。まったく余分な動きはしない。どうしよう、という相談など一切ない。もうわかりきっているのである。こういうときにはどうするか。どうするのが最善か--ということは完全にたたき込まれている。そして、そのことは「要点」だけを映像にするという手法でいっそう磨きがかけられる。軍隊が動きはじめた。シールズが登場してきた。現場処理の指揮官が変更になった。--で、それが、これからどう展開する? ということは一切説明されない。そういう一般と違う組織のことはどんなにていねいに描いてみても、どっちにしろ市民にはわからないのである。その決定が実行に移されるために、どういう議論があったか。だれが作戦を練り、だれが反対したか、さらにだれが情報を集めたか、どんな方法で、ということは、描かれても市民にはわからない。「あ、そうなんだ」と思うしかない。
そういう余分なものを捨てて、「個人」を描く部分はトム・ハンクスのいる状況だけにしてしまう。この対比によって、トム・ハンクスの演技は自然に際立つ。感情移入できる「個人」は、トム・ハンクスただひとりだからね。こういうのは、とっても得な役どころだなあ。だれがやってもうまく見える。映画だから何度でも撮り直せるしね。
で、先に書いた「トム・ハンクスでなくてもいいじゃないか」という意見と矛盾するのだが、こういうとき、知っている顔の方が、まあ、つごうがいい。見なれた顔の方が、いま何を感じているかということが、ほんの少しの表情の変化でわかる。--いいかえると、表情の変化の「少し」をわかるためには、それが知った顔である必要がある。知らない顔だと、あれ、これは「変化」したのかな? それとも、もともとこういう顔? その区別がつかない。
その「少し」の例で言うと。トム・ハンクスが人質になって小型船で逃走する。貨物船は犯人のあとを(トム・ハンクスのあとを)追跡している。見守っている。トム・ハンクスの方としては、あとは政府の(軍隊の)方が解決策を考える。解決してくれる。部下の船員はこれで助かった--と思っているのに、貨物船はわざわざ危険なことをしている。「何をやってるんだ、ばかもの」--言いたいけれど、言えない。それを目つきだけで演技する。おっ、すごい。似たシーンは、船員が海賊を襲ったとわかったときにも見せるけれど。隠れていればいいのに、余分なことをして状況を複雑にしている、とわかり苦虫をかみつぶしたような顔になる。こういうシーンは、はじめてみる顔でもわかるかもしれないが、見なれ顔の方がよくわかる。観客のみんながトム・ハンクスの顔を知っているということを熟知して、トム・ハンクスはそういう演技をしている。すごいもんですねえ。
でも、ここまでなら、まあふつう--トム・ハンクスにしてはふつう、かな。
最後の最後、クライマックスの銃撃のあと。助かったとわかり、トム・ハンクスが泣きだす。--そのさらにあと。
完全に救出され、海軍の母船に帰り、保護され、医者のメディカルチェックを受ける。医師の方はたんたんと(軍隊の組織そのもの)、トム・ハンクスを調べる。こめかみから血がでている。傷の深さは何センチ……、と報告しながらトム・ハンクスの表情を観察する。「この血は自分の血じゃない」ということをトム・ハンクスは言いたいのだけれど、ことばが出ない。不安や恐怖で声が出ないのではなく、死の恐怖から開放されて、その恐怖がどれくらい大きなものであるかが「わかって」、声が出ない。人質になっていたときは、「助かりたい」という思いがあったし、助かるために何をしなければならないか、必死に考えていた。緊張していた。緊張感がトム・ハンクスの意識を支えていた。その支えていた緊張感がなくなって、トム・ハンクスが内部から崩壊する--このときの演技が、とてもすばらしい。ああ、そうなんだ。人間は、こんなふうに生きているんだということがまざまざとわかる。その場でトム・ハンクスを見ているというよりも、もう、そのときは私はトム・ハンクスになってしまっている。ことばが見つからなくて「サンキュー」とだけやっと言う。医師は条件反射のように「ウェルカム」と答える。そんな応答のなかにも人間が生きていくための何かを感じた。
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ポール・グリーングラスは広い空間のなかに突然発生する密室というものに興味があるのかもしれない。「ユナイテッド93」は空を飛ぶ飛行機。今度は公海を行く貨物船、小型救命船が舞台。彼の描く「密室」は周りの広さによって「孤立」というところにまで結晶する。「孤」にまで結晶させ、そこで「人間」をみつめようとする力を感じた。
もう一方の話題作「ゼロ・グラビティ」は宇宙のなかの孤立、密室ではない孤立、そのなかでの人間の姿を描いているようだが、どちらがより人間をとらえているだろうか。きゅうに、きょう・あすにでも見比べたいのだが時間がないなあ。それに私はサンドラ・ブロックが大嫌いなのだ。
(2013年12月15日、ソラリアシネマ9)
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