斎藤庸一「遥かなローマへ」(「現代詩手帖」2013年12月号)
斎藤庸一「遥かなローマへ」(初出『シルクロード幻影』08月)はとても不思議な詩である。
どこにも新しいこと(?)は書いてない。斎藤が発見したことは書かれていない。だれもが知っていること、いわば「知識」がそのまま書かれている。地名がずーっとつづき、二・三のことがらが語られるが、それはすでに語られたこと--斎藤が書物を読んで知っていることがら(そしてシルクロードに関心のあるひとならやはり読んで知っていることがら)である。
これが詩? 何か違うんじゃない?
歴史的事実(?)の羅列の次は、個人的なツアーの事実。地名が書かれるだけで、何を見たか、何に感動したかも書かれていない。こんな散文の連続が詩? 違うんじゃない?
と思っていたら。
ここでも散文には違いないのだけれど、少し、それまでとは違った要素が入ってくる。個人的なことが入ってくる。「七十歳」でインド旅行への参加を断られた。--そうか、そういうことがあるのか、と思った。「七十歳」という現実が、斎藤の夢を邪魔する。何かが動かなくなる。
でも、めげずに目的地を変えて、旅のつづきをローマへ向けて展開する。
そうか、斎藤にとっては、そこで何を見たかということはあまり重要ではない。その土地を実際に踏んだかどうかが大切なのだ。シルクロードが実際に自分の「足の下」に存在すること、自分の肉体のなかに「シルクロード」が「ある」ことが大事なのだ。
これはある意味で大旅行だ。昔のひとの歩き方そのものだ。シルクロードはもちろん「交易」を目的にしたのだろうけれど、それはなんといえばいいのか、物を交換し金儲けをするというよりも、歩いてひとつひとつの都市を生み出していくということだったのだ。歩いてたどり着く。そのたどり着いたところに都市があるのではなく、その都市は歩いてきた人間がつくりだすものなのだ。肉体のなかに都市が生まれる。--そこにはもちろん「風物/風俗」などはあるだろうけれど、それよりも「都市/地名」が重要なのである。「地名」さえあれば、「道」はつながるのである。「風物/風俗/人間」が「道」をつなぐのではなく「地名」と「足(肉体)」が「道」をつくるのだ。
斎藤は「観光」をしているのではない。「道」をつくっている。
ほう、と思わず声が漏れてしまった。
マルコ・ポーロもきっとそうだったに違いないと思ってしまった。歩いて歩いて、たどりついて、そこに「土地」が「地名」として生まれ、それから「道(ロード)」ができる。それは、その土地へ行かないと「土地」は存在せず、「地名」もないのだ。
都市(土地/地名)をつくりだす肉体。その肉体にとって、ほかの記憶(何かを見た、何かを聞いた、それは美しかった)ということは、いちばん伝えたいことではない。いちばん伝えたいのは、そこに都市(地名)があり、それと肉体がしっかりと結びついているということなのだ。
斎藤にとっては都市(地名)と自分の肉体の結びつき、そこに「いた/ある」がしっかり結びついていることが、詩なのである。その結びつきを強固にするために、余分な「感想」は全部省略されているのだ。いや、土地と土地を結びつけるという移動の行為こそが斎藤の「感想」なのだ。
斎藤庸一「遥かなローマへ」(初出『シルクロード幻影』08月)はとても不思議な詩である。
シルクロードとは絹の道、アジアとヨーロッパを結ぶ道
東と西の起点は古代から東方の文化の中心であった西安
西方の文化の中心地であるローマ帝国の首都ローマ
はるか一万数千キロのシルクロードは交易の道である
どこにも新しいこと(?)は書いてない。斎藤が発見したことは書かれていない。だれもが知っていること、いわば「知識」がそのまま書かれている。地名がずーっとつづき、二・三のことがらが語られるが、それはすでに語られたこと--斎藤が書物を読んで知っていることがら(そしてシルクロードに関心のあるひとならやはり読んで知っていることがら)である。
これが詩? 何か違うんじゃない?
私がシルクロードにつよい関心を持ったきっかけは
井上靖の『シルクロード詩集』であり、続いて読んだ
『シルクロード行』上・下巻の紀行文であった
一九九五年(平成七年)、七十二歳の私は妻と二人で
九月に旅行会社の企画した「シルクロード旅行」に参加
西安-敦煌-トルファン-ウルムチ-北京を周遊
もちろん連絡はすべて航空機とバスのツアーであった
歴史的事実(?)の羅列の次は、個人的なツアーの事実。地名が書かれるだけで、何を見たか、何に感動したかも書かれていない。こんな散文の連続が詩? 違うんじゃない?
と思っていたら。
翌年インドへ行こうと申し込んだら七十歳以上の老齢は
伝染病や風土病にかかりやすいからと断られた
若いつもりでいた自分に思い至り急遽ロシア旅行へ
十月にトルコ旅行に出かけイスタンブールとエフェソス
翌年五月にイタリア旅行に出発したのが七十四歳だった
ミラノ-ブルガモ-ヴェネチア-フィレンツェ-シエナ
そしてようやく永年夢みたローマにたどり着いたのだ
ここでも散文には違いないのだけれど、少し、それまでとは違った要素が入ってくる。個人的なことが入ってくる。「七十歳」でインド旅行への参加を断られた。--そうか、そういうことがあるのか、と思った。「七十歳」という現実が、斎藤の夢を邪魔する。何かが動かなくなる。
でも、めげずに目的地を変えて、旅のつづきをローマへ向けて展開する。
そうか、斎藤にとっては、そこで何を見たかということはあまり重要ではない。その土地を実際に踏んだかどうかが大切なのだ。シルクロードが実際に自分の「足の下」に存在すること、自分の肉体のなかに「シルクロード」が「ある」ことが大事なのだ。
これはある意味で大旅行だ。昔のひとの歩き方そのものだ。シルクロードはもちろん「交易」を目的にしたのだろうけれど、それはなんといえばいいのか、物を交換し金儲けをするというよりも、歩いてひとつひとつの都市を生み出していくということだったのだ。歩いてたどり着く。そのたどり着いたところに都市があるのではなく、その都市は歩いてきた人間がつくりだすものなのだ。肉体のなかに都市が生まれる。--そこにはもちろん「風物/風俗」などはあるだろうけれど、それよりも「都市/地名」が重要なのである。「地名」さえあれば、「道」はつながるのである。「風物/風俗/人間」が「道」をつなぐのではなく「地名」と「足(肉体)」が「道」をつくるのだ。
斎藤は「観光」をしているのではない。「道」をつくっている。
ほう、と思わず声が漏れてしまった。
翌一九九八年五月にギリシャ、エーゲ海の旅に参加
その年の九月に前立腺ガンが判明、ガンセンター入院
手術が成功して無事退院、つくづく運のよさに感謝した
憧れのローマへ行かなければ私のシルクロードは終わらず
生涯杭を残してしまうところであったと呆然自失
ローマ帝国の中心地フォロ・ロマーニの石だたみの路を
散策したときの円柱のある風景を病院のベッドの上で
なんど夢みたことか思い出すたびに生きていてよかった
マルコ・ポーロもきっとそうだったに違いないと思ってしまった。歩いて歩いて、たどりついて、そこに「土地」が「地名」として生まれ、それから「道(ロード)」ができる。それは、その土地へ行かないと「土地」は存在せず、「地名」もないのだ。
都市(土地/地名)をつくりだす肉体。その肉体にとって、ほかの記憶(何かを見た、何かを聞いた、それは美しかった)ということは、いちばん伝えたいことではない。いちばん伝えたいのは、そこに都市(地名)があり、それと肉体がしっかりと結びついているということなのだ。
斎藤にとっては都市(地名)と自分の肉体の結びつき、そこに「いた/ある」がしっかり結びついていることが、詩なのである。その結びつきを強固にするために、余分な「感想」は全部省略されているのだ。いや、土地と土地を結びつけるという移動の行為こそが斎藤の「感想」なのだ。
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