詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐伯多美子『へびねこト餓鬼ト』

2013-12-18 08:45:25 | 詩集
佐伯多美子『へびねこト餓鬼ト』(銅林社、2013年12月01日発行)

 佐伯多美子『へびねこト餓鬼ト』を読みながら、繰り返し、繰り返すということについて考えた。繰り返されることばのまわりで、私のことばはつまずき、そして動きだす。
 たとえば「それは闇の、朝の。そして迫る夜。」

けっして血はながれない

とうめいな
みずが
ゆらゆらとゆれている
ときどきあさひをあびて きらきらひかる

まぼろしの
ひかり が ゆらゆら
ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆら

 「ゆらゆら」の繰り返し。--私は目が悪いので、転写しながら、同じ文字の連続にめまいを覚え、目のなかに吐き気のようなものがたまってきて、実は、ここで休んでしまった。まだ気持ち悪さが残っている。これは佐伯のことばの問題ではなく、私の生理的な問題なのだが、私は私の生理的な条件にあわせてしかことばを動かせないので、なんだか考えていたことが少し違ってきてしまうのだが……。

 繰り返し--私なら省略してしまう。「ゆらゆら」と一回書いたら、もう書かない。「ゆらゆら」を10回(数えてみた)も繰り返さない。なぜ繰り返さないかというと、私はそれを「省略する」ということを知っているからである。一回書けば「ゆらゆら」の意味は通じると考えるからである。
 しかし佐伯は省略しない。いや、これは省略しないのではなく、「できない」のである。逆に言えば、それは「繰り返し」という形式をとっているが佐伯にとっては繰り返しではない。「ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆ」は「ゆらゆら」を10回繰り返したものではなく、「ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆ」で一言なのである。

 繰り返し(反復)というのは、一般に「時間」を刻む。同じことを繰り返すことで、その「同じ」と「同じ」のあいだを時が過ぎていく。時間の流れを直線上に表現すると、「同じ」があらわれることで、そこに時の経過を知ることができる。「同じ」という「一点の時」ともうひつとの「同じ一点の時」、「時」と「時」のあいだが「時間」である。くまり、繰り返すことによって「時」は進むのである。「時間」が経過するのである。
 ことろが佐伯の場合は、繰り返すことよって「時」は先へは進まない。停滞する。同じ時、同じ場にとどまりながら、しだいに凝固してくる。
 同じものをぐるぐるまわしていると、それはだんだん流動的になってくるのが一般に多いようだが、佐伯の場合は、ぐるぐる同じところをまわれば、それがだんだん重くなり、ますます動けなくなる。「くるくる」という、私には「同じことば」に見えるものによって、縛られて動けなくなる。固まってしまう。
 繰り返しながら、「まぼろし」は「まぼろし」でなくなってゆく。

まぼろし が
ゆらゆら

まぼろしの
生 を
現身 に いきる



すさまじき 罪
ほろびながら 罪 なお
(まぼろしの生あるいは まぼろしのいのち とは)
(--虚の命) 

 「まぼろし」は「ゆれる」ことを繰り返し、繰り返すことで「ゆれる」を一回に凝縮させ、固まらせる。「肉体(現身)」のなかで、それが渋滞すると「罪」になる。(意味と罪は、ここでは脚韻を踏む)。「罪」というもの(こと?)が結晶するとき「まぼろしの生」と「まぼろしのいのち」は、「あるいは」ということばをはさんで同格になる。
 ある2点の「時」(同じ時、繰り返された時)が、離れることによって別の「時」(時A、時B)になるのように、佐伯の「ゆらゆらゆれるまぼろし」は「まぼろしの生」「まぼろしのいのち」になるのだが、そこでは「まぼろし」が固く結びついて「あいだ」を消してしまう。「あいだ」を限りなく短くしてしまう。「生」と「いのち」は表記こそ違うけれど、「意味」は重なり合う。その「重なり合い」によってできた強固な「ひとつ(ゆるゆるの10回のようなもの)」を通って、「ひかり」は「虚の命」という像を発光させる。輝かせる。
 でもそれは、佐伯の行き先を照らす光ではない。逆に、佐伯の、ここまでやってきた「過去」(肉体の内部)を浮かびあがらせる光である。「過去」を照らす光である。
 どこへや進めない。何をしても、「いま/ここ」があるだけで、時は佐伯を開放してくれない。--でも、これは時間が佐伯を開放しないのではなく、佐伯が時間を「いま/ここ」に凝縮させて、動かないようにしているのだ。それは佐伯の「欲望」そのものでもあるのだ。つまり、「いま/ここ」から動かず、ブラックホールになって、すべてを吸い込む。吸収する。そうすることで反復、改良、進歩というような「流通言語」の「未来」に反撃するのである。
 「私はここにいる」「ここを動かない」という宣言でもある。

 この詩の後半に出てくる、次の行。

生きながら
とうめいの水が
ひくいところへひくいところへひくいところへ

ながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれお
ながれおちながら
とうめいな水の じごく

 「ながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれおちるながれお」は「ながれおちる」の繰り返しのようであって繰り返しではない。繰り返しなら「お」で一行がおわるのではなく「おちる」までないといけない。ここには同じ「一行」でありながら、あることばはそこに入りきれるのに他のことばは入りきれないという「事実」だけが書かれている。
 この一行は佐伯の意志による「中断」ではない。一行の条件がまねいた中断である。だからこそ、また逆に、それは佐伯の意志によるとも言い換えうる。意志なのか/意志でないのか。選択できれば何も問題はない。選択できない。その瞬間その瞬間、それが「事実」であったというだけてある。

 矛盾。理不尽。
 たしかに、佐伯のことばに接近していくと、そこには矛盾(反復しても時は流れない、経過を印づけない)し、理不尽である。言いたいことがあるのに、繰り返しそれを言っているのに、それが最後までことばにならない。繰り返しても繰り返しても、それは「意味」にならず、他人から見れば「中断」にすぎない。
 それでも書くしかない--というところに佐伯がいる。そういう「こと」が佐伯である。


果て
佐伯 多美子
思潮社
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西脇順三郎の一行(31)

2013-12-18 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(31)

 「道路」

このため息のうるしの木

 何のことかわからない。ただ「ため息」と「うるしの木」が結びついていることに不思議な気がする。うるしの木がそこにあるのだ、ということだけがわかる。西脇がうるしの木を見ているということだけがわかる。
 そして、そのうるしの木は、西脇にとってはとても重要なものである。「この」が、うるしの木を、ほかの木々から選別している。そこには何らかの思い入れ(?)がある。だから「ため息」も出るのだろう。
 「意味」(強調)があるとすれば、うるしの木でもなく、ため息でもなく、その直前の「この」ということばそのものかもしれない。
 だから(?)、その「この」の「の」と音をあわせて、ため息「の」、うるし「の」と「の」が重なるようにしてつづくのだ。
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