詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

荒木時彦「limited 」

2013-12-24 10:13:36 | 詩(雑誌・同人誌)
荒木時彦「limited 」(「びーぐる」21、2013年10月20日発行)

 荒木時彦「limited 」は断章から構成されている。その断章には数字が振られているが、数字は連続していない。その「(4」のがおもしろい。

アパートメントのざらざらとした白い壁に、陽の光が照りつける。
庭にもまた、陽の光が照りつけて、地面が熱を帯びる。夜になると、
辺りの熱が、私の住んでいる三階まで昇ってきて開けた窓から侵入
してくる。熱が湿気を帯びているように感じて階下を見ると、誰か
が庭の木々に水を撒いている。庭という小さな世界にも熱と水が循
環しており、私もその世界からはじき出されているわけではないと
感じる。

 ことばが重複しながら動いていく。「陽の光が照りつける」「陽の光が照りつけて」というのは、そのままそっくりの「文章」の繰り返しである。「動詞」の繰り返しといってもいい。
 で、この「動詞」の繰り返しがおもしろいのは、繰り返しが「省略されたことば」を思い出させることである。

アパートメントのざらざらとした白い壁に、陽の光が照りつける。
庭にもまた、陽の光が照りつけて、地面が熱を帯びる。

 という文章は、ほんとうは、

アパートメントのざらざらとした白い壁に、陽の光が照りつけ(、壁が熱を帯び)る。
庭にもまた、陽の光が照りつけて、地面が熱を帯びる。

 だったのだ、と思い出させる。
 荒木はそう書いていないから、そんなことはない、と否定するかもしれないけれど。
 反復というのは、基本的に同じことを繰り返して前に進むとき反復というのだが、その反復のなかに「いま」が逆戻りして帰っていくような感じがする。
 だから、

辺りの熱が、私の住んでいる三階まで昇ってきて開けた窓から侵入
してくる。

を読んだあとでは、1行目は、

アパートメントのざらざらとした(三階の)白い壁に、陽の光が照りつけ、(三階の白い壁が熱を帯び)る。

 という具合になる。
 反復され、ことばが前へ前へと動けば動くほど、それまでわからなかった「過去」が見えてきて、世界が「立体的」になる。時間が単純に過去から未来へ流れるのではなく、未来へ進めば進むほど過去も深くなる。そして、その「深さ」というのは、遠くなるのではなく、逆に近づいてくる。「遠く」にあったはずなのに、すぐそばに来ている。
 この遠くにあるはずのものが近くにある感覚(近づいてくる感覚)を「粘着力」と呼ぶことができるかもしれない。

 このあとも「熱」、「水」が繰り返し出てくる。荒木のことばを借りて言えば「循環」している。そして、その循環によって、世界が「粘着力」のあるものになってくる。停滞してくる。
 2行目に出てきた「帯びる」と「停滞」が「親和力」をもってくる。「停滞」はもしかしたら停「帯」と書くのでは--と思ってしまうくらいである。
 で「帯びる」と「停滞」は違うの文字をつかうのに、「停帯」かもしれないと考えしてしまう、瞬間的に感じてしまうというのは「誤読」なのだけれど、こういう「誤読」を誘うのが詩なんだろうなあ。
 
 「感覚の意見」として強引に書いてしまうが、「誤読」するという行為そのものが詩なのだ。ある人が何をいったか--それを正確に理解するのは「散文」の仕事のなかでは重要だが、詩の場合はそれほど重要でもない。
 これは逆に考えることもできる。

              庭という小さな世界にも熱と水が循
環しており、私もその世界からはじき出されているわけではないと
感じる。


 と荒木は書いているが、庭に水、それが蒸発して熱気をもって、それが自分の部屋に入ってくるからといって、それだけで「私もその世界からはじき出されているわけではない」というのは、論理的?
 それは「思い込み」というか、水と熱と蒸気の関係に、むりやり自分を当てはめただけのことであって、水と熱と蒸気(太陽の光の作用)は、荒木のことなんか考慮に入れていない。つまり、「私」が荒木であるか、谷内であるか、あるいは安倍首相であるかに関係なく同じ現象になるだろう。
 そういう「物理」の世界に「私も」と人間を組み入れることは「誤読」だろう。
 でも、そういう「誤読」をしたいのだ。
 そして、そういう「誤読」を「誤読」と感じさせないようにするために、「粘着力」のある「文体」がここでは動いているのである。
 きのう読んだ近藤洋太「果無 故真鍋呉夫先生に」とはまったく逆方向かもしれない「散文」の運動がここにある。「散文」の作り方がまったく違う。





sketches 2
荒木時彦
書肆山田
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西脇順三郎の一行(37)

2013-12-24 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(37)

 「第三の神話」

化学はもう物理学として説明する方がよい         (49ページ)

 この場合の「物理学」とは電子、原子の世界である。化学も素粒子の運動に還元してみつめる方がいい。--意味の強い一行だ。
 この一行が好きなのは、「現象」を「運動」として把握する西脇の姿が見えるからである。そしてその運動は「意志を持たない運動」である。自律した運動である。

 ことばにも、そういう運動があるのではないだろうか。--というのは飛躍した空想だが、

詩はもう物理学として説明する方がいい

 と西脇は言っているのではないのか。そう感じるのである。(これは私の「感覚の意見」であって、何の根拠ももっていないのだが……。)「意味」ではなく、ことばとことばが引きつけあったりぶつかったりして自在に動いていくのが詩。自在といっても、ことばのなかにある素粒子によって運動は決められているのだけれど。
 私はわけのわからないことを書くのが好きなので、まあ、こんなふうに書いておく。ついでに、ことばの「素粒子」とは何かというと、「音」(音楽)であると私は思う。で、そのことを強引に発展させて、私は

詩はもうことばの物理学(ことば動詞の和音)として説明する方がよい

 と勝手に読み替えるのである。
 そして、それを実際にできないものだろうか、と考えるのである。
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アルフォンソ・キュアロン監督「ゼロ・グラビティ」(★★)

2013-12-24 01:46:32 | 映画
アルフォンソ・キュアロン監督「ゼロ・グラビティ」(★★)


監督 アルフォンソ・キュアロン 出演 サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー、エド・ハリス

 3D映画。ただし、私は目が悪いので疲れる映像はみたくない。2D版をみた。それでも撮影の都合でそうなるのだろうが、わざとらしい遠近感(奇妙な縁取りのようなずれ)があって、かなり疲れる。
 誰もみたことがない映像--というのは映画の魅力だけれど。
 うーん、この映画の映像はほんとうに誰も見たことがない映像なのか。そうではなくて、ただ単にまだ一度も起きていない映像ではないのか。宇宙で衛星が衝突し(?)、その破片が飛び散り、船外活動をしている飛行士が困難な状況に陥る。そのときの衛星の破片が飛び散る様子、地球を周回する映像、さらにそのために命綱を切られてどこまでもまわりながら飛んで行く人間というのは、私は見たことがない。しかし、それはもともと見ようにも、まだ起きていないことなので見ることができないだけである。
 映画の見たことがない映像というのは、それとは違うのではないか。たとえばサンドラ・ブロックのスクリーンいっぱいに映し出される目。それは、私は現実には見たことがない。それは見ることができない。私がどんなに目をちかづけて行っても、サンドラ・ブロックの目は2-3センチより大きくならない。けれど映画では、それをスクリーンからはみだす大きさで見ることができる。現実には見ることのできないものをスクリーンで、限界を越えて見てしまうのが映画である。まだ起きていないことをスクリーンで見たって、新しい映像を見た、という気持ちにはなれない。
 こんなことをくだくだと書いているのは……。実は、私には衛星の破片が飛び交うシーンも、サンドラ・ブロックが宇宙空間をぐるぐる回転して飛んで行くシーンもおもしろくなかったからである。そんなものは、どっちにしろCGで作り上げた疑似体験映像にすぎない。どこまでCGがそれを映像にできるか、というのは映像作家にはおもしろい課題だろうけれど、見ている方では「こんなものか」と思うだけである。
 そんな映像よりも、私には、サンドラ・ブロックが涙を流したときの映像がおもしろかった。無重力なので、涙は頬をつたって下に落ちるのではなく、丸い水滴になって方々へ飛び散る。いくつもいくつも方々へ飛び散る。昔、「宇宙螢」と呼ばれた現象である。昔は宇宙飛行士が尿をするとき、コンドームのようものをペニスにかぶせ、それから用を足すのだが、自分のサイズを過大申告したために隙間ができて、そこから尿が飛び散り、その水滴が光を反射してきらきら輝く。それを「宇宙螢」というらしいのだが、そこには宇宙飛行の「見栄っ張り」のうようなものが原因としてひそんでいて、何だか、それが私の「肉体」をくすぐる。そういう「くすぐり」の感覚が私の肉体のなかには残っていて、尿ではないのだが、「あ、宇宙蛍だ」と思い出す。涙が水滴になって四方へ勝手に飛び散るシーンは私は見てきたわけではないが、「見たもの」として思い出し、納得する。
 こういう感じが、映画の「見たことのない映像」の体験というものである。見たことはない。けれど、見たと肉体が錯覚している何かを、影像でまざまざと見てしまう。
 スクリーンいっぱいに拡大されたサンドラ・ブロックの目--そういうものも、私は見たことはないが、誰かの目を覗き込み、それしか見えなかったということを肉体は覚えていて、そのためにスクリーンいっぱいの目を、その瞳の変化を、あ、これが目なんだと実感する。
 どこかに「肉体」が存在しないと、あるいはどこかで「肉体」としっかりつながっていないと、どんな影像も「新しい影像」にはなりきれない。私には、そう感じられる。
 これは別な言い方をすると、どんな新しい体験でも、それを私が実際に体験できないものであるなら、そんなものはちっともおもしろくないということでもある。宇宙空間をさまようなんて、恐怖かどうか、ぜんぜんわからない。それは「新しい」体験ではありえない。
 もうひとつ、おもしろいと思った影像で補足してみよう。
 涙の宇宙蛍と同時に、あ、ここは傑作だなあ、映画になっているなあと感じたのは、サンドラ・ブロックが中国の宇宙船に乗り込んでから。操縦しようとするとパネルの文字が中国語。アルファベットではない。読めない。スイッチを間違える危険性がある。思わず笑いだしてしまったが、こういう笑いは、知らない文字に出会って困惑したことが私にもあるからだ。これいったい、何? だれもが困惑することに、宇宙飛行士も困惑している。困っている。これが、影像で表現されているから、リアルに感じられる。まるで、自分がそこにいる気持ちになれる。
 で、この状況をサンドラ・ブロックはどう乗り切るか。ここもおもしろい。ソユーズに乗った体験(シュミレーションだけれど)を思い出し、ソユーズではこのボタンはあれ、という具合に「肉体」が覚えている位置関係をたよりにボタンを押す。文字で判断するのではなく、肉体が覚えているボタンの位置--それをたよりにする。こういうことは、だれもが日常で体験する。知らないことでも、たぶんこれがスタートのスイッチ、という具合に判断する。「肉体」は「頭」以上にかしこいのである。
 こういうシーンがもっともっとあれば、この映画は真に迫ってくる。肉体を真剣に描けば映画はおもしろくなる。そういうことをせず、ただ観客をびっくりさせることに終始している前半は、うーん、つまらない。手間隙かけて影像をつくったのだろうけれど、そんなものはすぐに忘れてしまう。人間が、観客の覚えている「肉体」を引っ張りながら動いてこそ、新しい影像体験と言えるのだ。
 影像がテクノロジーによって堕落してしまった映画だね、これは。
               (2013年12月22日ユナイテッドシネマ キャナル3)


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