詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田弘「幸福の感覚」

2013-12-15 11:19:14 | 詩(雑誌・同人誌)
長田弘「幸福の感覚」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 長田弘「幸福の感覚」(初出『奇跡--ミラクル--』07月)を読み、不思議な違和感を覚えた。

口にして、あっと思う。
その、ほんの少しの、
微かな、ときめき。
あるいは、ひらめき。

 私は長田弘の読者とは言えない。長田弘の詩をそれほど読んでいるわけではない。「現代詩」そのものもそんなに読んでいるわけではないから、詩の読者ですらないのだけれど……。私の「肉体」が覚えているかぎりでは、長田は非常に繊細な感覚を、きわめて論理的に浮き彫りにする詩人である。論理の繊細さ、ことば運びのていねいなやさしさ、ことばの「運動」そのものが詩であるというような印象がある。
 この詩のなかのことばでいえば「微かな」をさらに微かに感じさせることば、微かにの周辺を繊細な論理で整え直すこと(整え直す運動)で、感性だけでは感じられなかった微かにを透明な強さで補強する感じ。

とっさに、心に落ちて、
木洩れ陽のようにゆらめく
何か。幼い妖精たちの、
羽根の音のような、
どこまでも透き通った明るさ。

 この部分の「幼い妖精たちの、/羽根の音のような、/どこまでも透き通った明るさ。」のような、見えないものを見えるようになるまで動かしていくことばの運動--そこに長田の特徴があると思っているのだが……。
 いつもと違うでしょ?
 読点「、」句点「。」が多い。ことばがスムーズにつながっていかない。少しずつ進んでは立ちどまる。次のことばを慎重に選んでいる。

木洩れ陽のようにゆらめく

 という一行にだけは句読点がないのだけれど、この句読点のない運動、事実をひとつひとつ積み重ねることで自然に大きい建物になるといった感じ、正確・整然とした散文の基本を踏まえて動くことばの運動がこれまでの長田の特徴だったと思う。むだな(?)句読点がないスムーズな運動といっても、そこにたどりつくまでには、いろいろな径路を経ている(何回も推敲している)のだろうけれど、その痕跡を残さず、完成した美しい形だけを提示するというのが長田の方法だったと思う。むだのない、ひきしまった、それこそ鍛え上げられたスムーズなことばの運動に乗せられて、自然に長田のたどりついた境地に達し、「これは長田が考えたこと(感じたこと)ではなく、ほんとうは私が考えたこと(感じたこと)なのではないか」と錯覚させるような文体が長田の特徴だったと思う。
 ところが、この詩では、ひっきりなしに句読点が出てくる。読点「、」がやたらに多い。で、私のようなずぼらな読者は、何が書いてあったか思い出そうとすると、

 この詩には読点「、」が書いてあった

 と口走ってしまう。
 でも、読点だけの詩なんかないから、何が書いてあったのかと確かめるために「引用」もしたのだが、やっぱり句点ばかりが「肉体」に入ってくる。ほかのことばは読点のまわりにあつまって、読点を浮き彫りにする。読点を鍛えようとしているように感じられる。読点というのは一種の「呼吸」だから、長田はここでは呼吸を整えようとしている、息を整えようとしているのかもしれないと思う。
 で、ここから私は考えはじめる。(「誤読」を加速させる。)

 ことばではなく、呼吸を、息を整える。
 長田らしい「木洩れ陽のようにゆらめく」「幼い妖精たちの、/羽根の音のような、/どこまでも透き通った明るさ」というような透明感のあることばを周囲にあつめ、呼吸を整えたあと、ことばは、少し変化する。

食事のテーブルには、
ほかの、どこにもない、
ある特別な一瞬が載っている。
そこにあるもの、目に見えるもの、
それだけではなくて、そこにないもの、
目には見えないものが、
食卓の上には載っている。

 「そこにないもの」「目に見えないもの」を、そのまま「ある(テーブルの上に載っている)」という、「論理」でしかあらわせないことがらを性急に書いている。そこに「ない」、そこに見え「ない」のなら、それは「ない」であって、「ある」ではないのだが、その「ない」が「ある」と強引に書いている。
 これまでの長田も同じように「ない」ものを「ある」と書いていたと思うけれど、それは「ない」へ向けてことばを動かし、そのことばの運動のなかに「ある」を「感じさせる(錯覚させる)」というものであって、こんなふうに直接的に、そしてこんなふうに早い段階(?)では、こんなことを書かなかったと思う。
 突然「ない」が「ある」と言われても、これだけではそれが「ある」とは実感できない。ここにあるのは、そういうことを性急に語ろうとする「意志」があるだけ、とういことになるかもしれない。
 「ない」のは何か。どんな「ない」が食卓の上に「ある」のか。長田は言い直している。

心の、どこかしら、
深いところにずっとのこっている、
じぶんの、人生という時間の、
匂いや、色や、かたち、
あるとき、あの場所の、
あざやかな記憶。--

 ああ、それは「食卓の上に載っている(食卓の上にある)」のではなく、「心の」「深いところに残っている」、心の深いところに「ある」のだ。
 長田は「食卓」を描いているのではない。「心」を描いている。「もの」にこころを語らせるのではなく、直接こころに語らせようとしている。あるいは深いところに何かを残し丁こころを、こころに語らせようとしている。語る主語も語られる対象も「こころ」。
 こころは「見えない」ものである。だから、それを見えるようにするために「木洩れ陽」とか「羽根の音」とか、目に見えるもので周辺を整える。まわりが整うと、そのなかにはまわりのもの(こと)をつなぎとめる力があると感じるようになる。まわりを統一する力がそこに働いているように感じられるものである。
 この詩では、そういう「見えるもの(聞こえるもの)」だけでは足りなくて「そこにはないもの」「目に見えないもの」も、「ことば」としてかき集められている。で、その中心に何が見えるかというと……。
 やっぱり、私には何も見えなくて、--書いてあることの「意味」は「頭」では理解できるが、私の「肉眼(肉体)」には見えなくて、--そのかわりに「もの」と「その中心」のあいだに、読点「、」がたくさんあるのが私の肉眼には見え、「呼吸(息継ぎ)」の音(息遣い)が私の耳に聞こえる。「呼吸」が聞こえる。「呼吸」の音(気配、というよりも剥き出しの、なまなましい荒い音そのもの、息を整えようと必死になっている音)をとおして、このことばの中心にはひとりの人間が生きているのだと感じる。
 この瞬間--あ、東日本大震災は、こんなふうに長田の肉体そのものにまで影響してきたのか、と思った。強く思った。長田は必死になって呼吸を整えようとしている。息をしようとしている。

食事の時間は、なまめかしいのだ。
幸福って、何だろう?
たとえば、小口切りした
青葱の、香りある、きりりとした
食感が、後にのこすのが、
幸福の感覚だと、わたしは思う。
人の一日をささえているのは、
何も、大層なものではない。
もっと、ずっと、細やかなもの。
祖母はよく言ったものだだった。
なもむげにすでね。
(何ごとも無下にしない)

 「呼吸」を整えながら、長田らしい「青葱の、香りある、きりりとした/食感」というようなことばも取り戻すのだが、この「呼吸」が最後になって、

なもむげにすでね。

 突然、祖母の「ことば」を呼び起こす。「心の、どこかしら、/深いところにずっとのこっている」ことばと手を結ぶ。「呼吸」は祖母とつながり、祖母の「呼吸」を「呼吸する」。
 「呼吸」と「呼吸」が重なるのではなく、それは呼吸「する」という動詞のなかで完全に「ひとつ」になる。とけあう。合体する。生まれ変わる。この瞬間、わたしは、この詩が大好きになった。
 自分を捨てて、他者(祖母)になってしまう。祖母として生き返る。人間はこんなことができるのだ。
 詩人なら他人のことばではなく自分のことばで語る、だれも語らなかった新しいことばをつくりだすべきだというひともいるかもしれない。それはたしかに重要な仕事だが、ほかにもしなければならない仕事はある。

 東日本大震災のころ「絆」ということばがしきりに口にされたが、絆とは、長田がここに書いているように「呼吸」を重ね、いっしょに「呼吸する」ということ、同じ「動詞になる」ということなのだ。自分を生きるのではなく、他人を生きる。他人を生きることが自分を生かすことになる。
 祖母と同じ「呼吸をする」というところにたどりつくために、長田は読点の多い詩を書いたのだと「わかった」。私の「肉体」は感じた。東日本大震災をあらわすような直接的なことばは書かれていないが、東日本大震災を深く「呼吸している」詩だと感じた。

奇跡 -ミラクル-
長田 弘
みすず書房
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西脇順三郎の一行(28)

2013-12-15 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(28)

 だんだん一行だけを取り上げるのがむずかしくなってきた。西脇の詩には行わたりというか、一行で完結しないものが多く、その不自然な(?)ことばの動きに詩があるからだ。その日本語の文法を脱臼させるような動き、それ自体が非常に魅力的だからである。

 「山●の実」(さんざし--文字が表記できないので、●にした)

心を分解すればする程心は寂光

 この一行は、次の行へ「の無に向いてしまうのだ。」と動いていく。一行では完結していないのである。
 この一行は、それでも「心を分解する」と「心は寂光」が対峙することで、これはこのままでも完結しているとも感じさせる。西脇のことばには文法を超えた緊迫感がある。文法に頼らなくても、ことばがことばとして独立して存在する力がある。
 そういうことを感じさせてくれる。
 これは

の無に向いてしまうのだ。

 でも同じことがいえる。この一行だけでは「意味」を正確につかみ取ることはできない。冒頭の「の」が文法としてとても不自然だからである。
 しかし、その不自然を越えて、「無」が一行のなかではっきり存在感を持っている。「無」が見えてしまう。読んでいる私が「無」の方を向いて、「無」を見ている。見てしまう。
 「寂光の無」ではなく、何もない「無」、何にも属さない絶対的な「無」。

 詩とは、何かに属するのではなく、何にも属さない「もの/こと」なのである。
 そういうものを、西脇はこの詩のなかで「これほど人間から遠いものはない。」と書いている。人間から断絶した「もの/こと」と向き合うために、西脇は文法という接着剤を破壊するのである。

 きょうは自分に課した「おきて」を破って、3行を引用してしまった。

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千人のオフィーリア(121-140)

2013-12-15 00:55:38 | 連詩「千人のオフィーリア」
                                       121 谷内修三
私は男装のオフィーリア、
恋人は女装のハムレット、

私のことばは嘘つきオフィーリア、
恋人のハムレットはほんとうしか語れない、

月は輝いている半分で人をだまし、
月は暗い半分で言えないことばを撒き散らす、

私の男装はオフィーリアのため、
ハムレットの女装は恋人のため、

                                         122 市堀玉宗
白鳥を女体と思ふ鼓動かな

                                         123 金子忠政
空に十字を切る白鳥
それが、それこそがオフィーリアで
あれ、かし!
と、
生臭い手で
斧をつかみ
おもむろにゆっくりと立ち上がった

                                        124 山下晴代
結局街へ行っても炭は売れず、木こりはこわごわ家に戻った
というのも、何日もものを食べていない実子二人と養子一人
計三人の子どもが待っていて、その顔を見るのが恐ろしかった
何も食べるものがないまま夜寝ていると、なにか音がする
みると、子どもたちが斧を研いでいるのだった──
父ちゃん、いっそのことおいらたちを殺してくれ
そうして子ども三人は丸太を枕に横になるのだった
──それは、
ある囚人が、柳田国男に語った、おのれの「犯罪」だった
柳田は、「人生五十年」という本の「はじめの言葉」
にそうしたエピソードを記したのだった
おそらく、生を寿ぐために

                                         125 橋本正秀
白鳥の明夜の星にあれかしと
胸ときめかせたどる残り香

                                       126 小田千代子
宵に待ち宵に送ったかの人の吾への笑顔星になれかし

                                        127 市堀玉宗
帰り花この世に甲斐のあるやうに 生きてしことの償ひに似て

                                         128 橋本正秀
狂ひ狂ひてかの世忘れそ

                                       129 二宮 敦
フィヨルドの水底に眠りしオフィーリア
彼女の間近の目覚めは
ほんの1億年ほど前
その前も1億年前
その時は男として目覚めた
ミレーの描きし姿と異なり
ベガではなくアルタイルとして
アダムもイブも
伊邪那岐も伊邪那美も
ハムレットもシェイクスピアも
すべてはみなオフィーリア
回帰も狂気も忘我もみな
両性の子宮より孕まれしもの

                                        130 市堀玉宗
光り身籠るうらさびしさに毛糸編む女はいつも闇を喰らへる

                                         131 山下晴代
オフィーリア-、リアー、アアー、アアー
オフィーリアー、リリー、リルー、ルルー
オフィーリアー、アルー、ルアー、アリー
オフェリアー、フェリー、リフェー、エリー
オフェリアー、オオー、フェフェー、アオー
シャバダ、シャバダ、シャバダ、娑婆だ。
サバダ、サバダ、サバダ、鯖だ。

                                        132 谷内修三
寝返りを打ったあとにできる新しい皺は、
怒りのあとの冷たい汗、
悲しみの新しい手のひら、
疲労の寂しい地図、

                                        133 田島安江
夢をみた朝の目覚めは、
立ち止まっては振り返る路地奥の、
ふと立ち寄ったカフェにたたずむ
遠い記憶のカタチ。
傷跡から滴る血の匂いのような、
苦い珈琲の味。

                                         134 橋本正秀
午睡
する
女・こどもの群れ
お好みの
夢賊に
魂を売り払って
重い身体だけが
汗まみれの代金を握りしめて、
シートに横たわらせている。
珈琲色に泡立った
口角の艶かしいうごめきに
血糊の刃が
また
迫る

ティー・ルーム

昼下がり

                                       135 二宮 敦
真夜中の底に降り立つ
天使の
殺戮がはじまる
新鮮なる血液を求めて
無差別に
はじめられる
歯はこぼれない
刃もこぼれない
完全なる狂気と凶器で
コンプリート
真夜中はワインレッドに染まりゆく

                                       136 山下晴代
もーーーっと勝手に殺したり
もーーーっと殺戮を楽しんだり
忘れそうな罪悪感を
そっと抱いているより
堕ちてしまえば

今以上それ以上苦しめられるのに
あなたはその燃えたぎる憤怒のままで
あの煮えたぎる溢れかえるワインレッドの
血の池で待つ渡し守カロン

もーーーっと何度も生き返ったり
ずーーーっと熱風に吹かれたり
意味深な言葉に
導かれて地獄を行くより
ワインをあけたら

今以上それ以上苦しめられるのに
あなたはただ気を失うよりてだてはなくて
あの消えそうに光っているワインレッドのドレス
千人のベアトリーチェに惑わされてるのさ

今以上それ以上苦しめられるまで
地獄の濁った川を行くのさ
ほらあの門に書かれたワインレッドの文字
「われを過ぎんとするものは一切の望を捨てよ」

(註:括弧内引用、平川祐弘訳『神曲』(河出書房新社刊)より)

                                      137 橋本正秀
女装したかのような
侍女の顔と
男装したかのような
侍従の貌を
オフィーリアは呆けて眺めている
右手には赤葡萄酒の瓶を握りしめ
左手には血を湛えたグラスを持って

男と女の
女男と男女の
娑婆娑婆ダー、娑婆娑婆ダー
脳裏に響く娑婆娑婆ダーを
西の山から血の池越えて
引き摺り彷徨う

夕星を見上げる
オフィーリアのシルエットは
赤黒い
一瞬の輝きの中で
狂気も
殺戮も
ため息すらも
呑み込んでしまった

                                   138 Jin Nishikawa
経血の溢れし海に錆めひた鹽甕映ゆる凍て月もあれ

                                      139 谷内修三
そして私のパスワードはだれの誕生日だったか、
そしてきみの名前はだれのパスワードだったか、

秘密を握り締めた拳は壷の口を抜け出ることはできない、
手のひらを開けば宝石は再び壷の底へとこぼれ散らばる、

そして忘れてしまった愛は憎しみの別名ではなかったか、
そして憎しみの別名は愛の透明な鏡文字ではなかったか、

140 瀬谷 蛉
美を醜に醜を美にして戯にけり



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