長田弘「幸福の感覚」(「現代詩手帖」2013年12月号)
長田弘「幸福の感覚」(初出『奇跡--ミラクル--』07月)を読み、不思議な違和感を覚えた。
私は長田弘の読者とは言えない。長田弘の詩をそれほど読んでいるわけではない。「現代詩」そのものもそんなに読んでいるわけではないから、詩の読者ですらないのだけれど……。私の「肉体」が覚えているかぎりでは、長田は非常に繊細な感覚を、きわめて論理的に浮き彫りにする詩人である。論理の繊細さ、ことば運びのていねいなやさしさ、ことばの「運動」そのものが詩であるというような印象がある。
この詩のなかのことばでいえば「微かな」をさらに微かに感じさせることば、微かにの周辺を繊細な論理で整え直すこと(整え直す運動)で、感性だけでは感じられなかった微かにを透明な強さで補強する感じ。
この部分の「幼い妖精たちの、/羽根の音のような、/どこまでも透き通った明るさ。」のような、見えないものを見えるようになるまで動かしていくことばの運動--そこに長田の特徴があると思っているのだが……。
いつもと違うでしょ?
読点「、」句点「。」が多い。ことばがスムーズにつながっていかない。少しずつ進んでは立ちどまる。次のことばを慎重に選んでいる。
という一行にだけは句読点がないのだけれど、この句読点のない運動、事実をひとつひとつ積み重ねることで自然に大きい建物になるといった感じ、正確・整然とした散文の基本を踏まえて動くことばの運動がこれまでの長田の特徴だったと思う。むだな(?)句読点がないスムーズな運動といっても、そこにたどりつくまでには、いろいろな径路を経ている(何回も推敲している)のだろうけれど、その痕跡を残さず、完成した美しい形だけを提示するというのが長田の方法だったと思う。むだのない、ひきしまった、それこそ鍛え上げられたスムーズなことばの運動に乗せられて、自然に長田のたどりついた境地に達し、「これは長田が考えたこと(感じたこと)ではなく、ほんとうは私が考えたこと(感じたこと)なのではないか」と錯覚させるような文体が長田の特徴だったと思う。
ところが、この詩では、ひっきりなしに句読点が出てくる。読点「、」がやたらに多い。で、私のようなずぼらな読者は、何が書いてあったか思い出そうとすると、
この詩には読点「、」が書いてあった
と口走ってしまう。
でも、読点だけの詩なんかないから、何が書いてあったのかと確かめるために「引用」もしたのだが、やっぱり句点ばかりが「肉体」に入ってくる。ほかのことばは読点のまわりにあつまって、読点を浮き彫りにする。読点を鍛えようとしているように感じられる。読点というのは一種の「呼吸」だから、長田はここでは呼吸を整えようとしている、息を整えようとしているのかもしれないと思う。
で、ここから私は考えはじめる。(「誤読」を加速させる。)
ことばではなく、呼吸を、息を整える。
長田らしい「木洩れ陽のようにゆらめく」「幼い妖精たちの、/羽根の音のような、/どこまでも透き通った明るさ」というような透明感のあることばを周囲にあつめ、呼吸を整えたあと、ことばは、少し変化する。
「そこにないもの」「目に見えないもの」を、そのまま「ある(テーブルの上に載っている)」という、「論理」でしかあらわせないことがらを性急に書いている。そこに「ない」、そこに見え「ない」のなら、それは「ない」であって、「ある」ではないのだが、その「ない」が「ある」と強引に書いている。
これまでの長田も同じように「ない」ものを「ある」と書いていたと思うけれど、それは「ない」へ向けてことばを動かし、そのことばの運動のなかに「ある」を「感じさせる(錯覚させる)」というものであって、こんなふうに直接的に、そしてこんなふうに早い段階(?)では、こんなことを書かなかったと思う。
突然「ない」が「ある」と言われても、これだけではそれが「ある」とは実感できない。ここにあるのは、そういうことを性急に語ろうとする「意志」があるだけ、とういことになるかもしれない。
「ない」のは何か。どんな「ない」が食卓の上に「ある」のか。長田は言い直している。
ああ、それは「食卓の上に載っている(食卓の上にある)」のではなく、「心の」「深いところに残っている」、心の深いところに「ある」のだ。
長田は「食卓」を描いているのではない。「心」を描いている。「もの」にこころを語らせるのではなく、直接こころに語らせようとしている。あるいは深いところに何かを残し丁こころを、こころに語らせようとしている。語る主語も語られる対象も「こころ」。
こころは「見えない」ものである。だから、それを見えるようにするために「木洩れ陽」とか「羽根の音」とか、目に見えるもので周辺を整える。まわりが整うと、そのなかにはまわりのもの(こと)をつなぎとめる力があると感じるようになる。まわりを統一する力がそこに働いているように感じられるものである。
この詩では、そういう「見えるもの(聞こえるもの)」だけでは足りなくて「そこにはないもの」「目に見えないもの」も、「ことば」としてかき集められている。で、その中心に何が見えるかというと……。
やっぱり、私には何も見えなくて、--書いてあることの「意味」は「頭」では理解できるが、私の「肉眼(肉体)」には見えなくて、--そのかわりに「もの」と「その中心」のあいだに、読点「、」がたくさんあるのが私の肉眼には見え、「呼吸(息継ぎ)」の音(息遣い)が私の耳に聞こえる。「呼吸」が聞こえる。「呼吸」の音(気配、というよりも剥き出しの、なまなましい荒い音そのもの、息を整えようと必死になっている音)をとおして、このことばの中心にはひとりの人間が生きているのだと感じる。
この瞬間--あ、東日本大震災は、こんなふうに長田の肉体そのものにまで影響してきたのか、と思った。強く思った。長田は必死になって呼吸を整えようとしている。息をしようとしている。
「呼吸」を整えながら、長田らしい「青葱の、香りある、きりりとした/食感」というようなことばも取り戻すのだが、この「呼吸」が最後になって、
突然、祖母の「ことば」を呼び起こす。「心の、どこかしら、/深いところにずっとのこっている」ことばと手を結ぶ。「呼吸」は祖母とつながり、祖母の「呼吸」を「呼吸する」。
「呼吸」と「呼吸」が重なるのではなく、それは呼吸「する」という動詞のなかで完全に「ひとつ」になる。とけあう。合体する。生まれ変わる。この瞬間、わたしは、この詩が大好きになった。
自分を捨てて、他者(祖母)になってしまう。祖母として生き返る。人間はこんなことができるのだ。
詩人なら他人のことばではなく自分のことばで語る、だれも語らなかった新しいことばをつくりだすべきだというひともいるかもしれない。それはたしかに重要な仕事だが、ほかにもしなければならない仕事はある。
東日本大震災のころ「絆」ということばがしきりに口にされたが、絆とは、長田がここに書いているように「呼吸」を重ね、いっしょに「呼吸する」ということ、同じ「動詞になる」ということなのだ。自分を生きるのではなく、他人を生きる。他人を生きることが自分を生かすことになる。
祖母と同じ「呼吸をする」というところにたどりつくために、長田は読点の多い詩を書いたのだと「わかった」。私の「肉体」は感じた。東日本大震災をあらわすような直接的なことばは書かれていないが、東日本大震災を深く「呼吸している」詩だと感じた。
長田弘「幸福の感覚」(初出『奇跡--ミラクル--』07月)を読み、不思議な違和感を覚えた。
口にして、あっと思う。
その、ほんの少しの、
微かな、ときめき。
あるいは、ひらめき。
私は長田弘の読者とは言えない。長田弘の詩をそれほど読んでいるわけではない。「現代詩」そのものもそんなに読んでいるわけではないから、詩の読者ですらないのだけれど……。私の「肉体」が覚えているかぎりでは、長田は非常に繊細な感覚を、きわめて論理的に浮き彫りにする詩人である。論理の繊細さ、ことば運びのていねいなやさしさ、ことばの「運動」そのものが詩であるというような印象がある。
この詩のなかのことばでいえば「微かな」をさらに微かに感じさせることば、微かにの周辺を繊細な論理で整え直すこと(整え直す運動)で、感性だけでは感じられなかった微かにを透明な強さで補強する感じ。
とっさに、心に落ちて、
木洩れ陽のようにゆらめく
何か。幼い妖精たちの、
羽根の音のような、
どこまでも透き通った明るさ。
この部分の「幼い妖精たちの、/羽根の音のような、/どこまでも透き通った明るさ。」のような、見えないものを見えるようになるまで動かしていくことばの運動--そこに長田の特徴があると思っているのだが……。
いつもと違うでしょ?
読点「、」句点「。」が多い。ことばがスムーズにつながっていかない。少しずつ進んでは立ちどまる。次のことばを慎重に選んでいる。
木洩れ陽のようにゆらめく
という一行にだけは句読点がないのだけれど、この句読点のない運動、事実をひとつひとつ積み重ねることで自然に大きい建物になるといった感じ、正確・整然とした散文の基本を踏まえて動くことばの運動がこれまでの長田の特徴だったと思う。むだな(?)句読点がないスムーズな運動といっても、そこにたどりつくまでには、いろいろな径路を経ている(何回も推敲している)のだろうけれど、その痕跡を残さず、完成した美しい形だけを提示するというのが長田の方法だったと思う。むだのない、ひきしまった、それこそ鍛え上げられたスムーズなことばの運動に乗せられて、自然に長田のたどりついた境地に達し、「これは長田が考えたこと(感じたこと)ではなく、ほんとうは私が考えたこと(感じたこと)なのではないか」と錯覚させるような文体が長田の特徴だったと思う。
ところが、この詩では、ひっきりなしに句読点が出てくる。読点「、」がやたらに多い。で、私のようなずぼらな読者は、何が書いてあったか思い出そうとすると、
この詩には読点「、」が書いてあった
と口走ってしまう。
でも、読点だけの詩なんかないから、何が書いてあったのかと確かめるために「引用」もしたのだが、やっぱり句点ばかりが「肉体」に入ってくる。ほかのことばは読点のまわりにあつまって、読点を浮き彫りにする。読点を鍛えようとしているように感じられる。読点というのは一種の「呼吸」だから、長田はここでは呼吸を整えようとしている、息を整えようとしているのかもしれないと思う。
で、ここから私は考えはじめる。(「誤読」を加速させる。)
ことばではなく、呼吸を、息を整える。
長田らしい「木洩れ陽のようにゆらめく」「幼い妖精たちの、/羽根の音のような、/どこまでも透き通った明るさ」というような透明感のあることばを周囲にあつめ、呼吸を整えたあと、ことばは、少し変化する。
食事のテーブルには、
ほかの、どこにもない、
ある特別な一瞬が載っている。
そこにあるもの、目に見えるもの、
それだけではなくて、そこにないもの、
目には見えないものが、
食卓の上には載っている。
「そこにないもの」「目に見えないもの」を、そのまま「ある(テーブルの上に載っている)」という、「論理」でしかあらわせないことがらを性急に書いている。そこに「ない」、そこに見え「ない」のなら、それは「ない」であって、「ある」ではないのだが、その「ない」が「ある」と強引に書いている。
これまでの長田も同じように「ない」ものを「ある」と書いていたと思うけれど、それは「ない」へ向けてことばを動かし、そのことばの運動のなかに「ある」を「感じさせる(錯覚させる)」というものであって、こんなふうに直接的に、そしてこんなふうに早い段階(?)では、こんなことを書かなかったと思う。
突然「ない」が「ある」と言われても、これだけではそれが「ある」とは実感できない。ここにあるのは、そういうことを性急に語ろうとする「意志」があるだけ、とういことになるかもしれない。
「ない」のは何か。どんな「ない」が食卓の上に「ある」のか。長田は言い直している。
心の、どこかしら、
深いところにずっとのこっている、
じぶんの、人生という時間の、
匂いや、色や、かたち、
あるとき、あの場所の、
あざやかな記憶。--
ああ、それは「食卓の上に載っている(食卓の上にある)」のではなく、「心の」「深いところに残っている」、心の深いところに「ある」のだ。
長田は「食卓」を描いているのではない。「心」を描いている。「もの」にこころを語らせるのではなく、直接こころに語らせようとしている。あるいは深いところに何かを残し丁こころを、こころに語らせようとしている。語る主語も語られる対象も「こころ」。
こころは「見えない」ものである。だから、それを見えるようにするために「木洩れ陽」とか「羽根の音」とか、目に見えるもので周辺を整える。まわりが整うと、そのなかにはまわりのもの(こと)をつなぎとめる力があると感じるようになる。まわりを統一する力がそこに働いているように感じられるものである。
この詩では、そういう「見えるもの(聞こえるもの)」だけでは足りなくて「そこにはないもの」「目に見えないもの」も、「ことば」としてかき集められている。で、その中心に何が見えるかというと……。
やっぱり、私には何も見えなくて、--書いてあることの「意味」は「頭」では理解できるが、私の「肉眼(肉体)」には見えなくて、--そのかわりに「もの」と「その中心」のあいだに、読点「、」がたくさんあるのが私の肉眼には見え、「呼吸(息継ぎ)」の音(息遣い)が私の耳に聞こえる。「呼吸」が聞こえる。「呼吸」の音(気配、というよりも剥き出しの、なまなましい荒い音そのもの、息を整えようと必死になっている音)をとおして、このことばの中心にはひとりの人間が生きているのだと感じる。
この瞬間--あ、東日本大震災は、こんなふうに長田の肉体そのものにまで影響してきたのか、と思った。強く思った。長田は必死になって呼吸を整えようとしている。息をしようとしている。
食事の時間は、なまめかしいのだ。
幸福って、何だろう?
たとえば、小口切りした
青葱の、香りある、きりりとした
食感が、後にのこすのが、
幸福の感覚だと、わたしは思う。
人の一日をささえているのは、
何も、大層なものではない。
もっと、ずっと、細やかなもの。
祖母はよく言ったものだだった。
なもむげにすでね。
(何ごとも無下にしない)
「呼吸」を整えながら、長田らしい「青葱の、香りある、きりりとした/食感」というようなことばも取り戻すのだが、この「呼吸」が最後になって、
なもむげにすでね。
突然、祖母の「ことば」を呼び起こす。「心の、どこかしら、/深いところにずっとのこっている」ことばと手を結ぶ。「呼吸」は祖母とつながり、祖母の「呼吸」を「呼吸する」。
「呼吸」と「呼吸」が重なるのではなく、それは呼吸「する」という動詞のなかで完全に「ひとつ」になる。とけあう。合体する。生まれ変わる。この瞬間、わたしは、この詩が大好きになった。
自分を捨てて、他者(祖母)になってしまう。祖母として生き返る。人間はこんなことができるのだ。
詩人なら他人のことばではなく自分のことばで語る、だれも語らなかった新しいことばをつくりだすべきだというひともいるかもしれない。それはたしかに重要な仕事だが、ほかにもしなければならない仕事はある。
東日本大震災のころ「絆」ということばがしきりに口にされたが、絆とは、長田がここに書いているように「呼吸」を重ね、いっしょに「呼吸する」ということ、同じ「動詞になる」ということなのだ。自分を生きるのではなく、他人を生きる。他人を生きることが自分を生かすことになる。
祖母と同じ「呼吸をする」というところにたどりつくために、長田は読点の多い詩を書いたのだと「わかった」。私の「肉体」は感じた。東日本大震災をあらわすような直接的なことばは書かれていないが、東日本大震災を深く「呼吸している」詩だと感じた。
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