小池昌代『産屋』(清流出版、2013年11月28日発行)
小池昌代『産屋』はエッセイ集。エッセイへの感想というのは書きにくいなあ、と感じる。エッセイが「感想」みたいなもので、感想に感想を積み重ねてしまっては、ことばがだんだん希薄になってしまう。
でも、あえて書いてみる。
巻頭の「恋」という文章は清潔で、少し色っぽくて、小池の特徴がとてもよくでていると思う。「紅葉に目を奪われる心は、「恋」のようだな、と私は思う。」と始まるのだが、その短い文章の後半の3行。
色が形から分離して、と書いたあと、そのことばのなかにひそむ「理性」の動き(色が形から離れるの見るのは「感性」だけれど、それを「分離(する)」と把握し直すのは「理性」である)が、「抽象的」ということばをはじき出す。
感覚におぼれる、感覚に酔ってしまうということが小池にはない。感覚の変化(感覚でとらえた世界の変化)を「理性」として表現して見せる。だから、さっぱりしている。清潔である。
「官能」を描いても、「官能」が直接ことばになるわけではない。ちょっと意地悪な指摘になるかもしれないが、たとえば「菜の花と麦」という文章。花屋の主人(男性)の指に目を引かれる。
見た通り、感じた通りに書いているのだと思うけれど「官能性」を「官能性」ということばにしてしまっては、ずるい。小池の「個性」が「汚れた手と美しい花」の組み合わせという「小池の外にあるもの」にすりかわってしまう。それを見たとき、小池の「肉体の内部」で動いたものが、「もの」によって抽象化されてしまう。汚れた手、美しい花は「具体的」なようであって、具体的ではない。「汚れ」にはいろいろな色と形がある。それを「汚れ」とひとことで言ってしまうのは抽象である。「美しい花」にも色と形とにおいと感触(たとえばやわらかい)がある。それを「美しい」といってしまっては抽象である。その抽象が「官能性」という抽象的なことばを引っ張りだしてしまう。
抽象というのは、むずかしいようで、とってもわかりやすい。具体的なものを省略して、「概念」を「流通」しやすくしたものが「抽象」だからである。ああ、「官能性」か。「官能」なら知っている--と人に思わせてしまう。
でも、官能というものは、ある具体的な出会いのなかで、その場かぎりのものである。二度と同じ官能はない。だから決して抽象できない。それは、とってもめんどうでややこしい。そういうものに本気でつきあうのは、まあ、セックスをしていたときだって面倒くさくなる。ほどほどのことろでエクスタシーにしてしまう。そして、「官能」と呼んでみたりする、と私は思う。
「官能」というのは、「官能」ということばをつかわなかったときの方が、はっきりと伝わってくる。およそ「官能」とは無縁のものを、官能と思わずに、じっくりとことばで追うと、そこに自然に浮き上がってくる。思わず自分の外へ出てしまうこと(エクスタシー)といっしょにあるもの、切り離せないものが官能である。
「からっぽの部屋」にそれを強く感じた。昔生活していたアパートのことを書いている。持ち物がほとんどなく「からっぽ」と呼んでいいような部屋のことである。
私は、知らず知らずに、「あの部屋」を「別れた男」と読み替えてしまう。
あの男に触られた私のからだのことを思い出すのか、私のからだに触ったあの男のからだのことを思い出すのか--わからなくなる。その「わからなさ」だけが「わかる」というところに「官能」がうごめいている。官能はおくれて肉体に復讐してくるのである。
で、小池はここでは「男」を描いていないのだが、この部分がこのエッセイ集のなかでは私はいちばん官能的でおもしろいと感じた。
*
エッセイ集のタイトルになっている「産屋」は河瀬直美の映画に対する感想である。私はその映画を見ていないので、とんちんかんな感想になると思うのだが……。
女性がこどもを産む。そのとき、一般的に生まれるのは「こども」であると信じられている。けれど、私は、どうも母親の方が生まれるのだと思う。産むのではなく、生まれる。生まれ変わる--と言った方がいいかもしれない。こどもを産んだあとと産む前では「人間」が違ってしまう。
男にはなかなかこういう「体験」はなくて、たぶん、人を殺すということくらいが、「人間」を生まれ変わらせるのだと思うが、女は「殺す」かわりに「産む」。そして「生まれ変わる」。もしかすると、「産む」という体験で自分自身を「殺す」のかもしれない。そういう変化を、傍から見ていて感じる。
だから、というのは、とんでもない飛躍なのだが。
たとえば谷川俊太郎は詩のなかで、こどもにもなれば若い娘にもなるし、中年の女性にもなるのに、女が「おばさん」になるように「おじさん」にはなれない。谷川だけではなく、だれも「おじさん」を詩に書けない。「おばさん」を書く詩人はたくさんいるのに。(小池は、いまのところは「おばさん詩」を書かないけれど)。
これは余分なことなのだけれど、最近、そういうことを考えているので書き加えた。
小池昌代『産屋』はエッセイ集。エッセイへの感想というのは書きにくいなあ、と感じる。エッセイが「感想」みたいなもので、感想に感想を積み重ねてしまっては、ことばがだんだん希薄になってしまう。
でも、あえて書いてみる。
巻頭の「恋」という文章は清潔で、少し色っぽくて、小池の特徴がとてもよくでていると思う。「紅葉に目を奪われる心は、「恋」のようだな、と私は思う。」と始まるのだが、その短い文章の後半の3行。
そのとき、色づいた葉っぱの「色」が、葉っぱの「形」から分離して、抽象的な命のエキスとなり、私の身体に、私の命に、ダイレクトに染み込んできた感じがした。
色が形から分離して、と書いたあと、そのことばのなかにひそむ「理性」の動き(色が形から離れるの見るのは「感性」だけれど、それを「分離(する)」と把握し直すのは「理性」である)が、「抽象的」ということばをはじき出す。
感覚におぼれる、感覚に酔ってしまうということが小池にはない。感覚の変化(感覚でとらえた世界の変化)を「理性」として表現して見せる。だから、さっぱりしている。清潔である。
「官能」を描いても、「官能」が直接ことばになるわけではない。ちょっと意地悪な指摘になるかもしれないが、たとえば「菜の花と麦」という文章。花屋の主人(男性)の指に目を引かれる。
指には、無数の筋がついていて、そこに汚れが入り込み、容易に落ちそうもないほど、黒ずんでいる。美しい花とその手の組み合わせには、どきっとするような官能性がある。
見た通り、感じた通りに書いているのだと思うけれど「官能性」を「官能性」ということばにしてしまっては、ずるい。小池の「個性」が「汚れた手と美しい花」の組み合わせという「小池の外にあるもの」にすりかわってしまう。それを見たとき、小池の「肉体の内部」で動いたものが、「もの」によって抽象化されてしまう。汚れた手、美しい花は「具体的」なようであって、具体的ではない。「汚れ」にはいろいろな色と形がある。それを「汚れ」とひとことで言ってしまうのは抽象である。「美しい花」にも色と形とにおいと感触(たとえばやわらかい)がある。それを「美しい」といってしまっては抽象である。その抽象が「官能性」という抽象的なことばを引っ張りだしてしまう。
抽象というのは、むずかしいようで、とってもわかりやすい。具体的なものを省略して、「概念」を「流通」しやすくしたものが「抽象」だからである。ああ、「官能性」か。「官能」なら知っている--と人に思わせてしまう。
でも、官能というものは、ある具体的な出会いのなかで、その場かぎりのものである。二度と同じ官能はない。だから決して抽象できない。それは、とってもめんどうでややこしい。そういうものに本気でつきあうのは、まあ、セックスをしていたときだって面倒くさくなる。ほどほどのことろでエクスタシーにしてしまう。そして、「官能」と呼んでみたりする、と私は思う。
「官能」というのは、「官能」ということばをつかわなかったときの方が、はっきりと伝わってくる。およそ「官能」とは無縁のものを、官能と思わずに、じっくりとことばで追うと、そこに自然に浮き上がってくる。思わず自分の外へ出てしまうこと(エクスタシー)といっしょにあるもの、切り離せないものが官能である。
「からっぽの部屋」にそれを強く感じた。昔生活していたアパートのことを書いている。持ち物がほとんどなく「からっぽ」と呼んでいいような部屋のことである。
とうにそこを出た今になって、がらんとしたあの部屋が、時折、記憶のなかに現れる。「わたしの空間」にはついにならなかった、ひどくよそよそしいあの部屋が、わたしがいなくなって初めてようやく、わたし以外の何者でもないような生々しさで、記憶のなかに浮かびあがってくる。部屋の方がわたしを思い出しているのか。
私は、知らず知らずに、「あの部屋」を「別れた男」と読み替えてしまう。
別れたあの男は「わたしの男」にはついにならなかった、ひどくよそよそしいあの男の肉体が、わたしの肉体に触れなくなって初めてようやく、わたしの知っているのはあの男の肉体以外の何者でもないような生々しさで、記憶のなかに浮かびあがってくる。男の肉体の方がわたしを思い出しているのか。
あの男に触られた私のからだのことを思い出すのか、私のからだに触ったあの男のからだのことを思い出すのか--わからなくなる。その「わからなさ」だけが「わかる」というところに「官能」がうごめいている。官能はおくれて肉体に復讐してくるのである。
で、小池はここでは「男」を描いていないのだが、この部分がこのエッセイ集のなかでは私はいちばん官能的でおもしろいと感じた。
*
エッセイ集のタイトルになっている「産屋」は河瀬直美の映画に対する感想である。私はその映画を見ていないので、とんちんかんな感想になると思うのだが……。
女性がこどもを産む。そのとき、一般的に生まれるのは「こども」であると信じられている。けれど、私は、どうも母親の方が生まれるのだと思う。産むのではなく、生まれる。生まれ変わる--と言った方がいいかもしれない。こどもを産んだあとと産む前では「人間」が違ってしまう。
男にはなかなかこういう「体験」はなくて、たぶん、人を殺すということくらいが、「人間」を生まれ変わらせるのだと思うが、女は「殺す」かわりに「産む」。そして「生まれ変わる」。もしかすると、「産む」という体験で自分自身を「殺す」のかもしれない。そういう変化を、傍から見ていて感じる。
だから、というのは、とんでもない飛躍なのだが。
たとえば谷川俊太郎は詩のなかで、こどもにもなれば若い娘にもなるし、中年の女性にもなるのに、女が「おばさん」になるように「おじさん」にはなれない。谷川だけではなく、だれも「おじさん」を詩に書けない。「おばさん」を書く詩人はたくさんいるのに。(小池は、いまのところは「おばさん詩」を書かないけれど)。
これは余分なことなのだけれど、最近、そういうことを考えているので書き加えた。
![]() | 産屋―小池昌代散文集 |
小池 昌代 | |
清流出版 |