平田好輝「美しい川」(「現代詩手帖」2013年12月号)
平田好輝「美しい川」(初出「第四次 青い花」74、03月)を読む。詩を好きになるのはあることばが好きだからである。その詩のなかで、あることばが、今まで見たことのないことばとして見えてくる--その瞬間に夢中になる。
最終連の、「白い股を全部見せながら」の「全部」がいい。簡単なことばだけれど、ちょっと言えない。
「全部」といっても、それは「全部」ではない。
いや、これにはかなり補足説明をしないといけないのだが。
つまり、大人が「白い股を全部」というときは、そこに股以外のものがつながっている。股を全部見るということは、性器も見ることである。--そういうことは、幼いこどもでも、実はわかっている。
でも、幼い平田が見たのはもちろん性器を隠した「全部」である。見せることができる股の「全部」である。そこに隠れされたものがあるとわかっていて「全部」と言っているのである。
こどもだから「わからない」のではなく、こどもだから「わかる」のである。その「わかる」は知識ではなく本能、直感である。
それが本能/直感に触れてきたからこそ、そこで平田は、あれだけ追いつづけてきた「水晶の溶けたような/溶けた水晶のような」水を忘れてしまう。透明を忘れて「白い」に夢中になる。「白い」が隠している「本能」を見てしまう。
「白い透明」は水のように、そのなかにあるものを見せはしない。「白い輝き」は隠しているものがあるということを見せる。
--と、言っても。
幼い平田(何歳だろうか)は、ほんとうに幼いときにそれを、そのことば通りに見たのだろうか。
たぶん、見てはいない。
それはあの日の川の水を「水晶が溶けたような/溶けた水晶のような」流れと見ていないのと同じである。幼いときは、そういう「比喩」は出てこない。幼い平田が実際に「水晶」を見たことなど、ないだろう。
大人になって、いま、振り返って「水晶が溶けたような/溶けた水晶のような」水と、ことばを整えているのである。「水晶が溶けて」「溶けた水晶」とことばを入れ換えても「同じ」であると「わかる」のは、ことばを整えるということが「わかる」ようになってからである。幼いこどもは、そんなふうにことばを動かしたりはしない。「水晶が溶けた」と「溶けた水晶」は違ったものに見えてしまう。同じに見えるのは、ことばの動きが「無意識」にわかるようになってからである。
だから、いまここで書かれている「全部」も、あのときに見た「全部」とは完全に同じではないのである。あのときに見た「全部」を整えて、あえて「全部」と言っているのである。あのとき無垢な本能/直感で「全部」と感じた「白い股」を、いまは、本能を知り尽くした上で「全部」と言うことで、逆に性器を隠す。隠すことで、エロチックになっているのである。
この「全部」を通って、ことばが往復するとき、無意識的に動いてしまう何か、それがおもしろい。
平田好輝「美しい川」(初出「第四次 青い花」74、03月)を読む。詩を好きになるのはあることばが好きだからである。その詩のなかで、あることばが、今まで見たことのないことばとして見えてくる--その瞬間に夢中になる。
水晶が溶けて流れているとしか思えない
そんな水の中に
両手をさし入れて
石をめくる
石の蔭から
小さな魚がこぼれ出る
せいいっぱいにヒラヒラと全身を動かして
溶けた水晶に溶けて行く
幼いわたしは
魚の溶けた水を
蹴散らして歩く
そんなに乱暴に歩いては
魚なんか取れやしない
三つ年上の従姉は
スカートをたくし上げて
白い股を全部見せながら
幼いわたしに文句を言った
最終連の、「白い股を全部見せながら」の「全部」がいい。簡単なことばだけれど、ちょっと言えない。
「全部」といっても、それは「全部」ではない。
いや、これにはかなり補足説明をしないといけないのだが。
つまり、大人が「白い股を全部」というときは、そこに股以外のものがつながっている。股を全部見るということは、性器も見ることである。--そういうことは、幼いこどもでも、実はわかっている。
でも、幼い平田が見たのはもちろん性器を隠した「全部」である。見せることができる股の「全部」である。そこに隠れされたものがあるとわかっていて「全部」と言っているのである。
こどもだから「わからない」のではなく、こどもだから「わかる」のである。その「わかる」は知識ではなく本能、直感である。
それが本能/直感に触れてきたからこそ、そこで平田は、あれだけ追いつづけてきた「水晶の溶けたような/溶けた水晶のような」水を忘れてしまう。透明を忘れて「白い」に夢中になる。「白い」が隠している「本能」を見てしまう。
「白い透明」は水のように、そのなかにあるものを見せはしない。「白い輝き」は隠しているものがあるということを見せる。
--と、言っても。
幼い平田(何歳だろうか)は、ほんとうに幼いときにそれを、そのことば通りに見たのだろうか。
たぶん、見てはいない。
それはあの日の川の水を「水晶が溶けたような/溶けた水晶のような」流れと見ていないのと同じである。幼いときは、そういう「比喩」は出てこない。幼い平田が実際に「水晶」を見たことなど、ないだろう。
大人になって、いま、振り返って「水晶が溶けたような/溶けた水晶のような」水と、ことばを整えているのである。「水晶が溶けて」「溶けた水晶」とことばを入れ換えても「同じ」であると「わかる」のは、ことばを整えるということが「わかる」ようになってからである。幼いこどもは、そんなふうにことばを動かしたりはしない。「水晶が溶けた」と「溶けた水晶」は違ったものに見えてしまう。同じに見えるのは、ことばの動きが「無意識」にわかるようになってからである。
だから、いまここで書かれている「全部」も、あのときに見た「全部」とは完全に同じではないのである。あのときに見た「全部」を整えて、あえて「全部」と言っているのである。あのとき無垢な本能/直感で「全部」と感じた「白い股」を、いまは、本能を知り尽くした上で「全部」と言うことで、逆に性器を隠す。隠すことで、エロチックになっているのである。
この「全部」を通って、ことばが往復するとき、無意識的に動いてしまう何か、それがおもしろい。
みごとな海棠―平田好輝詩集 | |
平田 好輝 | |
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