天沢退二郎「橋を渡る騎士のブルース」(「現代詩手帖」2013年12月号)
天沢退二郎「橋を渡る騎士のブルース」(初出『南天お鶴の狩暮らし』09月)は「耳」で読む詩である。
「耳で読む」とは聞き返さないこと。目で読むときはそこに「文字」が残っているから読み返すことができる。音は発せられたときから消えていくものだから、それは聞き返せない。
で、このとき、どうしたって「えっ、いま、なんて言った?」という疑問は残る。疑問は残るが、「音としてのことば」(声)は、それに対して答えない。というか、そういう疑問で「ことば」反復しようとすると、次のことばが覆いかぶさってくる。
剣でできた橋を渡るとからだは真っ二つ。血まみれの赤。渡れるはずはないけれど、「夢の騎士」(現実ではない)なら、渡ることはできる。いや「夢の騎士」ではなく「夢の武士」だから橋なんか渡らず、貧乏な「箸」程度の橋……とイメージをごちゃまぜにして、ことばはさらに動いて、
おおい、「主語」は何なんだよおおお。
「夢」ということばが出てくるが、あたかも夢のように、主語がずるっとずれていく。騎士が武士になる、橋が箸になる、それから武士が「夢」になり、羽根のない鳥のために橋は橋のない河になる--なんだか、とても奇妙。
そして、その奇妙のなかを「渡る」という動詞だけはしっかりとつらぬいている。「渡る」といっしょにある「橋」ということばも形を変えながらつながっている。「橋」は「渡る」という動詞から派生したことばのように感じられる。天沢の詩のなかでは。「渡る」という動詞が、「もの/こと」を動かしていく。そこに「橋」がちらりちらりと見える。
「橋」がしっかりしたものではなく、ちらりちらりと見えるものなので、そこを「渡る」ものは橋を無視して(?)、どんどん過激になる。
さらにこの「渡る」という動詞は「橋」を媒介に「かける」という動詞にも変化する。「橋」を中心に「渡る」と「かける」が融合する。「渡る」ために「かける」。
ことばが雪崩れる。ことばのエッジが崩れて、ごちゃごちゃになる。
目で文字を読んでいるかぎりは、騎士が棋士にかわり、罪が詰みにかわり、さらに罪と妻が交錯していることはわかるが、耳で読むと、これは、ごちゃごちゃとしか言いようがない。えっ、どっちだった? 意味はどうなる? と考えている暇はない。ただことば(音)に押し切られて、いま聞いたばかりの音が持っているイメージをつかみ取るしかない。前に聞いたことば、そのイメージは音といっしょに消えていく。
逆に言えば、音は消えていくから、どんなイメージにも飛躍できる。どんなイメージにも橋渡しできる。橋をかけることができる。そして、その橋を渡ることができる。
これはいいなあ。
最初の天沢退二郎に戻ったみたい。--というのは、変な言い方かもしれないけれど、天沢の詩は音楽なのだ。初期のころの作品は、あるもの(イメージ)がその形のまま別の形に乗り移っていく感じがして(イメージがあふれ、その横溢によって世界をのっとる感じがして)、絵画的な印象もあるけれど、むしろ音楽だったのだろう。ことばのなかにある音が別なことばの音と深い所で呼びあって、形を内部からとかして融合したのだろう。「ごつごつ」であるものがやわらかくなってまじりあうのは、音楽が働いていたからなのだろう。
最近、私は天沢の詩を読んでいない。読み返してもいないので、これは、一種の印象にすぎないのだが、そんな気持ちになった。「音楽」として詩を読み返したい気持ちになった。
詩人は「言葉をも失った」かもしれないが、天沢は「音楽」を手に別な世界へ渡って行く。新しい物語ではなく、昔からある「童話」の世界へ渡って行く。まだ「現実」が「意味」になる前の夢を動いている世界へ。音楽をたよりに。
かわいらしくて(というと年齢に反する?)、無邪気で、楽しいなあ。
最後の一行だけ句点「。」があって、お話は「おしまい、おしまい(めでたし、めでたし)」という感じもいいなあ。
天沢退二郎「橋を渡る騎士のブルース」(初出『南天お鶴の狩暮らし』09月)は「耳」で読む詩である。
あたかも剣でできた橋を
渡った赤い騎士のように
夢の武士は箸でできた橋を
渡ろうとしていた
「耳で読む」とは聞き返さないこと。目で読むときはそこに「文字」が残っているから読み返すことができる。音は発せられたときから消えていくものだから、それは聞き返せない。
で、このとき、どうしたって「えっ、いま、なんて言った?」という疑問は残る。疑問は残るが、「音としてのことば」(声)は、それに対して答えない。というか、そういう疑問で「ことば」反復しようとすると、次のことばが覆いかぶさってくる。
剣でできた橋を渡るとからだは真っ二つ。血まみれの赤。渡れるはずはないけれど、「夢の騎士」(現実ではない)なら、渡ることはできる。いや「夢の騎士」ではなく「夢の武士」だから橋なんか渡らず、貧乏な「箸」程度の橋……とイメージをごちゃまぜにして、ことばはさらに動いて、
あたかもさめてはならぬ夢が
暗闇の橋を渡るように
羽根のない鳥が
橋のない河を渡ったように
おおい、「主語」は何なんだよおおお。
「夢」ということばが出てくるが、あたかも夢のように、主語がずるっとずれていく。騎士が武士になる、橋が箸になる、それから武士が「夢」になり、羽根のない鳥のために橋は橋のない河になる--なんだか、とても奇妙。
そして、その奇妙のなかを「渡る」という動詞だけはしっかりとつらぬいている。「渡る」といっしょにある「橋」ということばも形を変えながらつながっている。「橋」は「渡る」という動詞から派生したことばのように感じられる。天沢の詩のなかでは。「渡る」という動詞が、「もの/こと」を動かしていく。そこに「橋」がちらりちらりと見える。
あたかも首のない頭が橋もないのに
遠い肩の旅へと飛びわたるように
リズムのある言葉がメロディもないのに
歌の次の節へと渡れるかのように
「橋」がしっかりしたものではなく、ちらりちらりと見えるものなので、そこを「渡る」ものは橋を無視して(?)、どんどん過激になる。
さらにこの「渡る」という動詞は「橋」を媒介に「かける」という動詞にも変化する。「橋」を中心に「渡る」と「かける」が融合する。「渡る」ために「かける」。
あたかも罪のない棋士が
詰みのない将棋を
力づくで勝ちに持ち込もうと
無理筋を承知で盤面を押し渡ったように
あたかも妻のない男が罪のない女と
罪のある妻が妻のない男との間に
ありもしない橋をかけようとして
ついにすべてが失われたように
ことばが雪崩れる。ことばのエッジが崩れて、ごちゃごちゃになる。
目で文字を読んでいるかぎりは、騎士が棋士にかわり、罪が詰みにかわり、さらに罪と妻が交錯していることはわかるが、耳で読むと、これは、ごちゃごちゃとしか言いようがない。えっ、どっちだった? 意味はどうなる? と考えている暇はない。ただことば(音)に押し切られて、いま聞いたばかりの音が持っているイメージをつかみ取るしかない。前に聞いたことば、そのイメージは音といっしょに消えていく。
逆に言えば、音は消えていくから、どんなイメージにも飛躍できる。どんなイメージにも橋渡しできる。橋をかけることができる。そして、その橋を渡ることができる。
これはいいなあ。
最初の天沢退二郎に戻ったみたい。--というのは、変な言い方かもしれないけれど、天沢の詩は音楽なのだ。初期のころの作品は、あるもの(イメージ)がその形のまま別の形に乗り移っていく感じがして(イメージがあふれ、その横溢によって世界をのっとる感じがして)、絵画的な印象もあるけれど、むしろ音楽だったのだろう。ことばのなかにある音が別なことばの音と深い所で呼びあって、形を内部からとかして融合したのだろう。「ごつごつ」であるものがやわらかくなってまじりあうのは、音楽が働いていたからなのだろう。
最近、私は天沢の詩を読んでいない。読み返してもいないので、これは、一種の印象にすぎないのだが、そんな気持ちになった。「音楽」として詩を読み返したい気持ちになった。
あたかも言葉しかない詩人が
言葉さえもたない世界に
言葉で橋をかけようとして
ついにその言葉をも失ったかのように
夢のない詩人は
眠りの中で橋のない河へ
ハシボソガラスに身をやつして
箸のカイでお椀の舟を漕ぎだそうとしていた。
詩人は「言葉をも失った」かもしれないが、天沢は「音楽」を手に別な世界へ渡って行く。新しい物語ではなく、昔からある「童話」の世界へ渡って行く。まだ「現実」が「意味」になる前の夢を動いている世界へ。音楽をたよりに。
かわいらしくて(というと年齢に反する?)、無邪気で、楽しいなあ。
最後の一行だけ句点「。」があって、お話は「おしまい、おしまい(めでたし、めでたし)」という感じもいいなあ。
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