安藤元雄「樹下(断片)」(「現代詩手帖」2013年12月号)
安藤元雄「樹下(断片)」(初出『現代詩花椿賞三十回祈念アンソロジー』)のことばはていねいに動く。
ていねいに動く--と書いてしまったのだが、それがほんとうていねいに動いたものであるかどうか、私はわからない。ていねいと感じたのは、ここに書かれている木の根の描写が、私の聞いて(読んで?)知っているものと似通っているからである。
木の根は大地の下に広がっている。それを私は直接見たわけではない。少しは見たことがある。小さい木なら引っこ抜いて根っこを見たことがあるかもしれない。草は抜いてみたことがある。その草の根の記憶から、私は木の根も同じようなものだろうと想像している。そういう絵なら何度か見たことがある。安藤のことばは、そうした私の知っているものをゆっくりと、自然に思い出させてくれる。
安藤はどうなのだろう。安藤は実際に自分の手で土を掘り返し、自分の目で根がどこまで張りめぐらされているか見たのだろうか。たしかなことはわからないが、この詩の状況では、その樹の根は見えていないだろうなあ。
見えていないものを、見えているように書く。知っているものとつながるように書く。そういうことばを、私は「ていねい」と呼んだのだが、それでいいのだろうか。これはむずかしい問題だ。見えない(見ていない)のに、それを知っているものにあわせて書いてしまう。ことばを動かしてしまう--それは「ていねい」ではなく「乱暴」かもしれない。ある種の「暴力」かもしれない。思考を(ことばを)流通している概念にあわせて動かしているということかもしれない。
次の部分は、もっとそういうことを考えさせる。
「私の目に届いて来ない」。けれども、それを目で見たかのように書く。「知る」ということばが書かれているが、安藤の書いていることは「知識」にあわせて想像しているということ、知識にあわせてことばを動かしているということになる。
それなのに、私はそれを「乱暴」ではなく、「ていねい」と感じる。
これでいいのだろうか--と私は自問してみる。私は私の「知っていること」が否定されないことを願っているだけなのかもしれない。「知っていること」が他人のことばで繰り返されることに安心しているのだけなのかもしれない。
これは危険なことかもしれない。
ここに書かれている「虫の幼生」ということばから、私は蝉を思い出す。七年間地中にいて、地上に出てきて生きるのは七日間。--それを私は実際に見たことがない。地上にいる蝉、地中からでてきた蝉の幼虫は見たことがあるが、それが七年間地中にいたのを見たことはない。その蝉が七日間生きているのを見てわかっているわけではない。知っているだけだ。
その蝉の「食欲」も、私には「わかっている」ことではない。だいたい植物に「食欲(欲望)」があるかどうかもわからない。ただ、そういうふうに想像できる、ということなら、まあ、できるかもしれないが……。
と、思っていると、この1連目の最後の行。
あ、これには私はびっくりした。
「ていねい」に「知識」を追認していたことばが、ここで突然、追認をやめる。知っていることにあわせて想像するのをやめる。
「食欲」ということば--そこから始まる何か。それを「思い描くこと」が「できない」。
この「食欲」は、それ以前の行にもさかのぼる。絡まり、張りめぐらされる根の貪欲、水を吸い上げる貪欲、欲望を「思い描くこと」ができない。
なぜだろう。
それは「食欲(貪欲/欲望)」は「科学(客観)」ではないからかもしれない。地中に張りめぐらされた根、根から吸い上げられる水--それは土を掘れば確認できるし、実験で水の動きを再現することもできるから、まあ、「客観」といえるのだ。蝉の七年かと七日間も、飼育して「客観的事実」として追認できる。
でも、そういう「運動」のなかにある「食欲(貪欲/本能)」は? 「客観的」に、どうやって確かめられるだろう。確かめることはできない。
で、この「客観」とは違ったものを、な、な、な、なんと。安藤は「思い描くことさえできない」と書いている。
変でしょ?
と、私は大急ぎで書く。
「客観」として「観察」できないものをこそ、人間は「思い描く(想像する/空想する)」のであって、客観的事実は「思い描く」ものではなく、肉眼で見るものでしょ? 「思い描かなければならないもの」があるとしたら、それは見えないもののはずである。見えないものをことばにして動かす、動かすことで見えたと錯覚する。そういうことを私たちはしているはずである。詩の最初の部分はそういうことが書いてあったはずである。
何かが、ここで大逆転している。
「食欲」と「思い描くことができない」ということばを中心にして、それまで書いていたこととはまったく違う形でことばが動きはじめている。「欲望」という何か人間に通じることばに触れた瞬間に、何かが大逆転したのだ。
そのことに、私はびっくりしたのである。「ていねい」であったことばが、ここから、その「ていねい」が乱暴であったことを反省するようにして、「乱暴」をむき出しにして動きはじめる。ただし、安藤の「乱暴」は詩の前半を引き継いで、「乱暴」を感じさせない動きなのだが。
「思い描くことさえできない」と書いていたのに、ここでは「思ってみる」と書く。この飛躍に「乱暴」な何かがある。
あ、もちろん、このとき「主語」というか、「思う」の対象は違うのだが。
1連目で書いている「思い描くことができない」の対象は樹や蝉や何かの「食欲/本能」であるのに対し、ここで「思い描いている」のは「私(安藤)」の姿である。だが、「私の姿」というのは「私の欲望(意志)」の反映である。ひとは自分の思っているとおりに動く(動きたい)。そして、どんなふうに動きたいかは簡単に「思ってみる」ことができる。
でも、どうして樹や蝉のことは「思い描くこと」ができないのに、自分のことは思うことができるのか。
この区別、差別はどこに「根拠」があるのか。
自分の「欲望」というもの、自分のなかで動いている「本能」というものは、自分には「わかる」からだろうか。それは知っている何かではなく「わかる」何かだろうか。
たぶん樹の地下の姿は見えない、蝉の地下の姿は見えない、それに対して自分の姿は見えるし、これまでの生き方も覚えているので、それから類推することができるということなのだろうけれど、これはこんなふうに簡単に言いきってしまえるのだろうか。
なんだか不思議なのである。
ここには「食欲(生きるための欲望)」とは反対の--しかし、やはり「欲望」が描かれている。それは「本能」の欲望というよりも、何かを知ることで「本能」を整えたあとの、いわば「知性の欲望(理想)」のようなものであるけれど。
私自身の考えを追いきれないのだが、(私は目が悪くて長い間パソコンに向かいつづけることが苦しいので、ことばをはしょってしまうのだが)、1連目の最後の方で「食欲」ということば「欲(望)」ということばを書いた瞬間に、安藤のことばのなかに「人間」が急に動きだした。
「食欲」というのは名詞だが、その名詞のなかにある「欲する」という動詞が安藤の肉体の内部で動きだし、「他者(樹/蝉/植物)」を観察しつづけることができなくなった。「客観」ではいられなくなった。「流通言語」をそのまま整えるだけではいられなくなった、ということかもしれない。
こういう「変化」の一瞬--そこに、私は、詩というものを感じる。ほかのことばでは置き換えられない「いのち」を感じる。
「食欲(この漢字は、貪欲という文字に非情によく似ている)」ということばが突然でてきて、それが暴れはじめて、安藤のことばを少しずつ違った世界--下界から、安藤自身の姿を描写するという具合に動かなかったら、私はこの作品について書くということはなかっただろうと思う。
安藤元雄「樹下(断片)」(初出『現代詩花椿賞三十回祈念アンソロジー』)のことばはていねいに動く。
樹の下にいるといっても
樹は私よりさらに下に
鱗のない蛇の絡まるような
逞しい根を張りめぐらせている
ていねいに動く--と書いてしまったのだが、それがほんとうていねいに動いたものであるかどうか、私はわからない。ていねいと感じたのは、ここに書かれている木の根の描写が、私の聞いて(読んで?)知っているものと似通っているからである。
木の根は大地の下に広がっている。それを私は直接見たわけではない。少しは見たことがある。小さい木なら引っこ抜いて根っこを見たことがあるかもしれない。草は抜いてみたことがある。その草の根の記憶から、私は木の根も同じようなものだろうと想像している。そういう絵なら何度か見たことがある。安藤のことばは、そうした私の知っているものをゆっくりと、自然に思い出させてくれる。
安藤はどうなのだろう。安藤は実際に自分の手で土を掘り返し、自分の目で根がどこまで張りめぐらされているか見たのだろうか。たしかなことはわからないが、この詩の状況では、その樹の根は見えていないだろうなあ。
見えていないものを、見えているように書く。知っているものとつながるように書く。そういうことばを、私は「ていねい」と呼んだのだが、それでいいのだろうか。これはむずかしい問題だ。見えない(見ていない)のに、それを知っているものにあわせて書いてしまう。ことばを動かしてしまう--それは「ていねい」ではなく「乱暴」かもしれない。ある種の「暴力」かもしれない。思考を(ことばを)流通している概念にあわせて動かしているということかもしれない。
次の部分は、もっとそういうことを考えさせる。
渇いた土地の 私の知るよりずっと深い層から
音もなく水を吸い上げている
ただ そんな地中での慌ただしいいとなみが
私の目に届いて来ないだけだ
「私の目に届いて来ない」。けれども、それを目で見たかのように書く。「知る」ということばが書かれているが、安藤の書いていることは「知識」にあわせて想像しているということ、知識にあわせてことばを動かしているということになる。
それなのに、私はそれを「乱暴」ではなく、「ていねい」と感じる。
これでいいのだろうか--と私は自問してみる。私は私の「知っていること」が否定されないことを願っているだけなのかもしれない。「知っていること」が他人のことばで繰り返されることに安心しているのだけなのかもしれない。
これは危険なことかもしれない。
地の底で長い日々を送る夥しい虫の幼生の
あるいは
手探りで根毛をさらにひろげようとうごめく植物の
とめどない食欲
ここに書かれている「虫の幼生」ということばから、私は蝉を思い出す。七年間地中にいて、地上に出てきて生きるのは七日間。--それを私は実際に見たことがない。地上にいる蝉、地中からでてきた蝉の幼虫は見たことがあるが、それが七年間地中にいたのを見たことはない。その蝉が七日間生きているのを見てわかっているわけではない。知っているだけだ。
その蝉の「食欲」も、私には「わかっている」ことではない。だいたい植物に「食欲(欲望)」があるかどうかもわからない。ただ、そういうふうに想像できる、ということなら、まあ、できるかもしれないが……。
と、思っていると、この1連目の最後の行。
それを私は思い描くことさえできない
あ、これには私はびっくりした。
「ていねい」に「知識」を追認していたことばが、ここで突然、追認をやめる。知っていることにあわせて想像するのをやめる。
「食欲」ということば--そこから始まる何か。それを「思い描くこと」が「できない」。
この「食欲」は、それ以前の行にもさかのぼる。絡まり、張りめぐらされる根の貪欲、水を吸い上げる貪欲、欲望を「思い描くこと」ができない。
なぜだろう。
それは「食欲(貪欲/欲望)」は「科学(客観)」ではないからかもしれない。地中に張りめぐらされた根、根から吸い上げられる水--それは土を掘れば確認できるし、実験で水の動きを再現することもできるから、まあ、「客観」といえるのだ。蝉の七年かと七日間も、飼育して「客観的事実」として追認できる。
でも、そういう「運動」のなかにある「食欲(貪欲/本能)」は? 「客観的」に、どうやって確かめられるだろう。確かめることはできない。
で、この「客観」とは違ったものを、な、な、な、なんと。安藤は「思い描くことさえできない」と書いている。
変でしょ?
と、私は大急ぎで書く。
「客観」として「観察」できないものをこそ、人間は「思い描く(想像する/空想する)」のであって、客観的事実は「思い描く」ものではなく、肉眼で見るものでしょ? 「思い描かなければならないもの」があるとしたら、それは見えないもののはずである。見えないものをことばにして動かす、動かすことで見えたと錯覚する。そういうことを私たちはしているはずである。詩の最初の部分はそういうことが書いてあったはずである。
何かが、ここで大逆転している。
「食欲」と「思い描くことができない」ということばを中心にして、それまで書いていたこととはまったく違う形でことばが動きはじめている。「欲望」という何か人間に通じることばに触れた瞬間に、何かが大逆転したのだ。
そのことに、私はびっくりしたのである。「ていねい」であったことばが、ここから、その「ていねい」が乱暴であったことを反省するようにして、「乱暴」をむき出しにして動きはじめる。ただし、安藤の「乱暴」は詩の前半を引き継いで、「乱暴」を感じさせない動きなのだが。
樹の下にいて じっと動かず
樹のしたたらすしずくを浴び
樹の枝の下をすかして遥か遠くに目をやり
蔭のない 灼けただれた野を眺めては
いつの日かそんなところへ帰ることも
あろうかと 思ってみる
「思い描くことさえできない」と書いていたのに、ここでは「思ってみる」と書く。この飛躍に「乱暴」な何かがある。
あ、もちろん、このとき「主語」というか、「思う」の対象は違うのだが。
1連目で書いている「思い描くことができない」の対象は樹や蝉や何かの「食欲/本能」であるのに対し、ここで「思い描いている」のは「私(安藤)」の姿である。だが、「私の姿」というのは「私の欲望(意志)」の反映である。ひとは自分の思っているとおりに動く(動きたい)。そして、どんなふうに動きたいかは簡単に「思ってみる」ことができる。
でも、どうして樹や蝉のことは「思い描くこと」ができないのに、自分のことは思うことができるのか。
この区別、差別はどこに「根拠」があるのか。
自分の「欲望」というもの、自分のなかで動いている「本能」というものは、自分には「わかる」からだろうか。それは知っている何かではなく「わかる」何かだろうか。
たぶん樹の地下の姿は見えない、蝉の地下の姿は見えない、それに対して自分の姿は見えるし、これまでの生き方も覚えているので、それから類推することができるということなのだろうけれど、これはこんなふうに簡単に言いきってしまえるのだろうか。
なんだか不思議なのである。
あそこでは きっと私は
一日とたたずにひからびて 血液も涸れ
二度と動けなくなるだろう
どうしてそこへ戻らなければならないのか
ひそかに心を決めて
もう帰らないつもりでそこを離れ
ここへ来てこうして坐り込んでいるのではなかったのか
ここには「食欲(生きるための欲望)」とは反対の--しかし、やはり「欲望」が描かれている。それは「本能」の欲望というよりも、何かを知ることで「本能」を整えたあとの、いわば「知性の欲望(理想)」のようなものであるけれど。
私自身の考えを追いきれないのだが、(私は目が悪くて長い間パソコンに向かいつづけることが苦しいので、ことばをはしょってしまうのだが)、1連目の最後の方で「食欲」ということば「欲(望)」ということばを書いた瞬間に、安藤のことばのなかに「人間」が急に動きだした。
「食欲」というのは名詞だが、その名詞のなかにある「欲する」という動詞が安藤の肉体の内部で動きだし、「他者(樹/蝉/植物)」を観察しつづけることができなくなった。「客観」ではいられなくなった。「流通言語」をそのまま整えるだけではいられなくなった、ということかもしれない。
こういう「変化」の一瞬--そこに、私は、詩というものを感じる。ほかのことばでは置き換えられない「いのち」を感じる。
「食欲(この漢字は、貪欲という文字に非情によく似ている)」ということばが突然でてきて、それが暴れはじめて、安藤のことばを少しずつ違った世界--下界から、安藤自身の姿を描写するという具合に動かなかったら、私はこの作品について書くということはなかっただろうと思う。
続・安藤元雄詩集 (現代詩文庫) | |
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