詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

稲垣瑞穂「粟(ぞく)」

2013-12-10 08:36:09 | 詩(雑誌・同人誌)
稲垣瑞穂「粟(ぞく)」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 稲垣瑞穂「粟(ぞく)」(初出「双鷲」79、03月発行)には藤井貞和「かだましく」のようにわけのわからないことばはない。しかし、「粟」を「ぞく」と読ませるような、ちょっと変なところがある。そして、それはちょっと変なのだけれど、読んでいて、それが全部「わかる」。「わかる」瞬間、それは変ではなくなっている。そういう変化が読みながら私の「肉体」のなかで起きる。

穀物を代表する言葉は粟(ぞく)だと知り
太郎は体じゅうがぞくぞくした
なぜアワと言わず ゾクと言うのか
穀物の王者は米ではなかったのか
西に米がある以上 東や北に米があっても
よさそうなものではないか
南の米はどうなってしまったか
太郎は母親のこしらえる粟飯を
以後ゾクハンと 呼ぶことにした

 「穀物を代表する言葉は粟(ぞく)だと知り」という書き出しに、ああ、そうなんだ。私も知らなかったなあと思いながら、「ぞくぞくした」というのはだじゃれだなあ、などと思いながらことばを読み進む。そうすると「粟」を「西」と「米」に分解して、東、来た、南はどうなのか、と「漢字」と遊んだりする。遊びながら考えようとしている。そのことが「わかる」。
 母親のこしらえる粟飯の「こしらえる」もわかるなあ。思い出すなあ。なんだが母親の肉体が動いているのが見える。「つくる」とどう違うのか。--私の「肉体」の印象で言うと、「こしらえる」は対象と懇ろである。対象に対して「一生懸命」である。「手間隙」がかかっている感じがする。自分が優位に立って対象を動かすというよりも、何か対象にすがっている(頼み込んでいる)感じがする。いまは「合理主義(資本主義)」と相いれないせいか「手間隙」は嫌われ、その結果(?)「こしらえる」というような動きも世の中から消えているような気がするが、昔はなんでも「こしらえた」。タオルや手ぬぐいが古くなったら、雑巾を「こしらえた」。これなんかは、「今度は雑巾になってくださいね」とタオル、手ぬぐいに頼むような感じがどこかにあって、いいなあ、またつかいたいことばだなあと思う。このカレー、2日かけて「こしらえた」というのも、2日間寝かせてつくったよりも頑張った感じがするなあ。
 あ、脱線したかな?
 ことばが、ことばだけでなく、何か「肉体」、体が覚えていることと接触しながら動いていくのが「わかる」ので、それにつられて私の「肉体」も動いてしまうのだ。稲垣の「肉体」は私の「肉体」ではないから、そっくりそのままではなく、少し違うのだけれど、「肉体」なので「わかる」。たいてい「わかる」範囲で動くのだが、それは予測はできない。動いたあと、あ、そうか、と思う。
 2連目も同じような感じ。

ねえ またゾクハン炊いてよ
母親は嬉しそうな
ちょっぴり困ったような顔をする
だが太郎が小鳥のように嘴で掻きこむと
ひどく納得した表情になり
太郎もつい鳴き声を洩らしてしまうのだ
チュイーンともチンとも聞こえるその声は
小さな家の小さな仏壇に飾られた
父親の位牌にもしっかりと届いている

 「チュイーン」が「チン」にかわり、「仏壇」が出てくると、あ、と思う。炊いたご飯を仏壇に供える。そういうことは、昔はちゃんと行なわれていたなあ。父親が死んで母子家庭なのか。それで米のご飯ではなく、粟飯なのか……。そういうことが「肉体」のなかから浮かび上がってくる。私は母子家庭で育ったわけではないが(稲垣が母子家庭で育ったのかどうかわからないが)、そういう暮らしがあることが「わかる」。そういう暮らしが昔は世の中に「見えていた」。ただ貧しいというだけではなく、そこにある仏壇のある暮らし、仏壇にご飯をあげるという暮らし--暮らしのなかにある「感謝」というものが「見えていた」。また「聞こえていた」。「チン」という音は電子レンジの音ではなく、仏壇の音。音にもそれぞれの暮らしがある。それを共有していた。それが私の「肉体」のなかにもある。
 そういう「肉体」を通って、私は稲垣といっしょに「過去」へ入っていく。こういう感じがいいなあ。
 私は、まだ映画「ハンナ・アーレント」にこだわっているのだが、あの映画の「悪の哲学(悪の定義)」では「暮らし」に入っていけない。私はユダヤ人ではないし、ホロコーストも聞きかじった知識しかもっていないが、収容所を体験したユダヤ人にはアンナ・ハーレントのことばを通って「過去」を実感しろというのは無理だろうなあ、と思う。
 稲垣のことばは、そうではない。稲垣の書いていることは私の体験ではないのだが、その私の体験でないことが、私の体験として「わかる」。稲垣のことばを読んでいると、私が稲垣になってしまう。そして、私の父でもないのに、稲垣の父親の臨終を見てしまう。それが「わかる」。

太郎は父親が死んだ時のことを
かすかに憶えている
息がだんだん細くなり
鳥籠の中の十姉妹のような声を出したのだ
最後はヂュイーンと濁音で鳴き
それから深く頷いて
がっくりと首を落とした
戦地からせっかく生きて還ったのに
わずか三か月とはもたなかった

 2連目の「チュイーン」が「ヂュイーン」になる。そこには「チン」も含まれている。2連目の「小鳥」は「十姉妹」だったのだ。そこにあることばが、読むに従って、しっかりした「暮らし」になる。戦地から帰ってきて、体調を崩し、父親の楽しみ十姉妹を飼うことだったんだなあ。ときには「チュイーン」と鳴き声を真似してたんだろうなあ。十姉妹は粟を食べたんだろうなあ。--書いてないのだけれど、私の「肉体」にはそれが「わかる」。父親が鳥と遊ぶ日だまりの風景が「わかる」。そのとき、そこに日だまりはなかったかもしれないけれど、私の「肉体」は日だまりを要求し、そこに休らいだ父親を追い求める。

太郎は今日もまたゾクハンを啄む
普段は忘れている父親の顔が
不意に目の前に現れ
掠れるような声で囁くのだ
おい 太郎 ゾクハンはうまいか
父さんにも少し分けておくれ
戦地ではゾクハンさえも
食べることができなかったのだ
そのたびに太郎は体じゅうがぞくっとした

 最終連まで読んで、そうか「粟」を「ゾク」と読むことを稲垣は父親から聞いたのか。「ゾクハン」という言い方も父親から聞いたのだ。父親は空腹のまま戦地で戦いつづけたのだ。その戦地は南方である。だから1連目に南の米ということばも出てくるそういうことを思い出す。「肉体」が思い出す。だから「肉体」がぞくっとする。1連目ではだじゃれのように感じたが、そこにはだじゃれを超えるものがあったのだ。
 ことば、粟(ぞく)、粟飯、ゾクハン--そいういう「肉体」で覚えたことばをとおして、いま、稲垣は父親と「ひとり(一体)」になっている。「肉体」が重なるのを感じている。太郎がゾクハンを食べるとき、その「肉体」は父親の「肉体」なのだ。
 ことばではなく、「肉体」がいっしょに生きる。
 あ、これが「愛」だな、と私は思う。
 ハンナ・アーレントがつかみとれなかった「愛」がここにある。
 稲垣のことばには、どんな「定義」もない。私はたまたま「愛」ということばを便宜上つかったが、その「愛」を「定義」しようとすると、とてもめんどうである。「定義」しなくても「わかる」。「肉体」がわかる。「生きている」が「わかる」。
 こういうところへ、ことばは動いていかないといけないのだ、と思う。

 (映画「ハンナ・アーレント」の2回の感想とあわせて読んでください。)



夏目漱石ロンドン紀行
稲垣 瑞穂
清文堂出版
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西脇順三郎の一行(23)

2013-12-10 06:06:06 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(23)

 「近代の寓話」

考える故に存在はなくなる

 「我思う、故に我あり」ということばが思い浮かぶ。「思う」は「考える」に似ている。「思考」ということばは「思う」と「考える」を結びつける。「我考える、故に我あり」と言い換えることができるかもしれない。
 そして、そこからこの一行へ引き返すと……。
 「考える故に私という存在はなくなる」。
 何だか矛盾する。
 「意味」が通るようにするには、たとえば、「考える、そのとき考えられた対象は存在しなくなる」。なぜなら、存在(対象)は「考え」のなかに組み込まれ、そこには考えが存在するだけだからである。
 あるいは逆に、「考える、そのとき私という存在は対象のなかに組み込まれ、対象のなかで動いている。ゆえに私は存在しなくなる」。
 どっちでもいい。
 それよりも、私は、私が書いた「存在しなくなる」ということばよりも西脇の書いている「存在はなくなる」という短い音がとても気に入っている。そして、それが「存在しなくなる」ではなく「存在はなくなる」という短い音、「な」がより近接して感じられる音のために美しく響いていると感じる。その美しい響きのために、「意味」を追いかける気持ちもどこかへ消えてしまう。
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